夫と妻の義務
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

      著:リチャード・ステイーリ

            訳:前川 衛

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」 エペソ5:33

 

婚は社会全体の土台となるものであるから、この主題が非常に重要であるということは論を待たない。結婚に伴う責任については説得するよりも、それらについて説明するほうがはるかに簡単であろう。みことばをあなたの意志に従わせるのではなく、あなたの意志をみことばに従わせなさい。エペソ5:33をあなたの心に刻み込んでおくべきなのである。

 

1、        文脈 「それはそうとして」は、キリストと教会との関係について

の霊的な真実から話を移行するために用いられている。このことばはまた、達成不可能な考えではあるにもかかわらず、それを達成するように努力することをも意味している。あるいは、そのあまりにも尊い例のゆえに、あなたとあなたの配偶者関係においてそれを見習うべきであることを意味しているのである。

 

2、       対象 

A,その普遍的な義務 「あなたがたも」 つまり、あなたがどれほどすばらしいか、あなたの配偶者がどれほど悪いかに関係なく、ということである。彼が賢いか愚かであるか、聡明か聡明でないか、才能があるかないか、そのようなこととは全く関係なく、いかなる夫であれ、妻の尊敬を受けるべきである。また彼女が美しいかそうでないか、豊かであるかそうでないか、従順であるかないか、そんなこととは全く関係なく、すべての妻は夫の愛の対象でなければならないのである。

B,その個人的適用 「おのおの(個人的に)」 おのおの、またすべての夫と妻が、自分自身のケースに、これを適用すべきなのである。

 

3、       責任の要約

A、すべての夫の義務、それは自分の妻を愛することである。これ

が唯一の義務ということではなく、ほかのすべてのことがらもこの中に含まれているのである。彼は妻を自分と同様に愛さなければならない。ここには、どのように彼女を愛すべきか(黄金律)と、なぜ彼女を愛すべきか(夫と妻は実は一つの存在なので、妻を愛することが自分の祝福につながる)の両面がある。

  B、すべての妻の義務、それは、自分の夫の人格とその立場の両方をおそれること(ギリシャ語)であり、敬う(KJV)ことである。当然ここには愛が含まれる。というのは、もし彼女が夫を愛するなら、彼女は彼を喜ばせようと務めるし、彼に逆らうことを避けようとするからである。

 

 

 

   教理:すべての夫が自分の妻を愛すべきであり、

     すべての妻が自分の夫を敬うべきである

 

 これは、旧約聖書と新約聖書の両方に、異邦人への使徒パウロ(エペソ5:23ff、コロサイ3:18ff)と、ユダヤ人への使徒ペテロ(第1ペテロff)の両方によって明確に述べられているところの、あなたの創造者の命令であることを覚えておかなければならない。これらふたつの義務(夫―愛すること、妻―敬うこと)は、すべてを言い尽くしているわけではない。が、これらが夫と妻が最も陥りやすいあやまちであるか、でなければ、これらの中に他のすべての義務が含まれているので、特にこれら二つの義務が言及されているのである。別の説明をすれば、それぞれの配偶者から、夫が最も必要とするものが尊敬であり、妻が最も必要とするものが愛なのである。神は永遠のいのちを持つことだけではなく、今、この地上でもすばらしい生活を送ることを命じておられるのである。敬虔な結婚は、地上における天国の一こまである。これらの義務を学び直すとき、私たちは過去の失敗を覚えて、私たち自身をへりくだらせ、将来の改善のためにチャレンジをもたらすに違いない。

 

 

 

   夫と妻の両方の義務

 

1、                          お互いにともに生活する。 

夫は、「その父母を離れ、妻と結び合い」(創世記2:24)、また妻は、「あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。」(詩篇45:10) 夫は、「妻とともに生活し」(第1ペテロ3:7)、たとえ夫が不信者であっても、「妻は夫と別れてはいけません。」(第1コリント7:10) 結婚に伴うその他の義務は、一般的な性関係をもってともに生活を送るということである。それは、夫も妻もともに互いに負っている義務なのである。(第1コリント7:3−5)旧約聖書は、結婚をした最初の一年は、夫が戦いに出かけることを禁じている。(申命記24:5) これは、ともに生活することの重要性を示しているものである。

 

2、お互いに愛し合う。

これは夫(コロサイ3:19)、妻(テトス2:4)両方の負うべき義務である。愛こそが結婚のための最も大きな理由であり、また慰めでもある。この愛とは単なるロマンスではない。そうではなくて、真実で不変の愛情であり、お互いに「心から熱く」(第1ペテロ1:22)仕えあうものなのである。結婚の愛は美しさや豊かさに基づくものではない。というのは、それらは過ぎ去るものである。またそれは単なる敬愛に基づくものでもない。というのは、敬愛なら、やがてそれは衰えていくかも知れないからである。結婚の愛は、決して変わることのない神のご命令に基づくものでなければならない。婚姻の誓いは、「健やかな時も、病む時も」とあるではないか。ゆえに、結婚した者は、自分の配偶者を、自分にとっては世界中で最高の者と考えるべきである。結婚の愛は永続的な愛、それは死がその契りを断ち切った後までも続くべきものなのである。(箴言31:12) この真実な心からの愛は、その結果として、真実の実と真実の慰めをもたらすものである。それはまた、姦淫や嫉妬から私たちを守るであろう。それは家族を様々な問題からもかくまってくれるものなのである。この真実の愛がなければ、結婚は、つながれていない骨のようなものとなるであろう。それが回復されるまで痛みがあるものである。

 

3、お互いに誠実に留まる。

すべての夫が彼自身のひとりの妻を持つべきである。また、すべての妻が自分のひとりの夫を持つべきである(第1コリント7:2)。ただ一人の妻を持っていた初めのアダムとただ一つの教会を持っている第2のアダムに見習うべきである。結婚の契りは、あなたとあなただけの配偶者を、世界中で最も信愛し、最もすばらしい者として、それぞれに結びつけるものである。ほんのわずかな不信、それが心の中だけであったとしても、不信は私たちを大きな姦淫の罪へと誘うであろう。そして、悔い改めがなければ姦淫の罪はこの地上での幸福を奪うばかりか、天の御国の希望さえも滅ぼしてしまうものなのである。姦淫の罪は結婚を滅ぼす。それは旧約聖書においては最も大きな罪の一つとされていた。(申命記22:22) この罪に対する誘惑に注意しなければならない。ひとりの女性で満足しない男性は、何人の女性でも満足することはあるまい。この罪には限界というものがないからである。誠実さにはお互いの秘密を守ることも含まれている。自分の配偶者の秘密を漏らすことは、偶然であっても悪いことであり、それが怒りの結果であるとすればさらに悪いことである。もしも憎しみからその秘密を漏らすとすればそれは最悪である。

 

4、お互いに助け合う。

妻は「彼にふさわしい助け手」でなければならない。(創世2:18) この言葉は暗にお互いが助け合うべきであることをほのめかしている。夫と妻はお互いに次のようなことがらを負い合って行くべきなのである。

 

 A、自分たちの働き。 妻が家庭で働き、夫が外で働くなら、二人とも自分の働きを上手にこなすことが出来るだろう。それぞれの働きを助けるために、夫は箴言の全体を、妻は箴言の最後の章を注意深く学ばれたい。

 B、自分たちの十字架。結婚生活の始まりにおいてはすべてが楽しいことばかりに思える。が、やがて問題に直面し始める。(第1コリント7:28)生活の困難さ、子供たちの問題、友人と敵の両方からの苦悩などに直面することになる。順風のときも逆風のときも、配偶者が最高の友とならなければならないのである。

 

 C、キリストに対する自分たちの義務。「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として」(第1ペテロ3:7)生活しなければならない。結婚の最高の目標はお互いの永遠の至福を促すことに他ならない。ゆえに、ここでの助け合いは非常に重要なものとなる。夫の知識が妻の無知を助けなければならない。また妻の熱意が夫の失望を助けるべきなのである。夫が家にいるとき、彼が自分の家族を導き、家族とともに祈り、主日を聖なる日として守らなければならない。けれども夫が留守のとき、これらの責任は妻の上にあるのである。

 

5、お互いに赦し合う。

この義務はすべての人に対して負っているが、特に私たちの配偶者に対してそうである。(エペソ4;31−32) 結婚生活において、何としばしば私たちはお互いにいらいらする状況に見舞われることか! 激しい怒りは、家庭内の戦争を引き起こすものである。そしてその戦争からは何も良いものは生まれない。夫も妻も穏やかで静まった精神が必要である。家庭内の平和を保つために、自分自身の心の平安を求めなさい。嵐が去るまで静まっていなさい。私たちは天使同士で結婚したのではなく、罪深いアダムの子孫同士で結婚したのである。小さな失敗に目をつむるべきである。そしてその向こうに立ちはだかっているもっと大きな失敗に注意しなければならない。自分のあやまちをお互いに認め合い、それらすべてを神に告白すべきである。悪魔に機会を与えるよりお互いに機会を与え合いなさい。(エペソ4:27)

 

6、お互いに救いあう。

コリント人への手紙第1、7:16は、自分の配偶者の救いを促すことが、私たちの大きな義務であることをほのめかしている。今の結婚生活をどんなに楽しめたとしても、後に互いに地獄に行くとしたら何の良い点があるだろうか。人がその配偶者を非難するなら、その人の愛はどこにあるのだろうか。お互いが自分の配偶者の霊的な状態をよく知り、お互いの霊的成長を促すべきである。「二人で教会に行き、その日の説教について語り合え。」と、クリソストムスは言っている。すでに両方がクリスチャンの場合、彼らはお互いの霊的成長を促すために出来ることを行なうべきである。神について、また霊的なことがらについて、いつでも話し合う習慣をつけておくべきである。夫と妻は、天の都を目指すおしどり巡礼者でありたい。

 

7、                          正常を保ちつつ、夫婦間の性生活の節度を保つ。

結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。」(へブル13:4) 夫婦間の性交鈔は汚れた衝動を矯正するために与えられたものであって、決して彼らをそのような衝動へと駆り立てるためではない。私たちは自分の配偶者との間に考えられるあらゆる性的な愚行を許してはならない。なぜなら、私たちは結婚をしているからである。ぶどう酒を持っているということは、酔っ払いになるための理由とはならないのである。節度を保ち、分別を持て。例えば、あなたは祈りに専念するためにしばらくの間差し控えることがあるかもしれない。(第1コリント7:5)夫婦関係においてさえ、私たちは神への畏敬を示し、お互いに尊敬しなければならない。真実の愛は、決して無礼なふるまいをすることはないのである。

 

8、すべてのことがらについて、お互いの状態を注意深く知っておく。お互いの健康のために助け合うべきである。そして、少なくとも心情

的には、ともにその病をになうべきである。どちらかが何かに欠けてい

て苦しんでいるときに、自分だけが豊かであってはならない。互いの良

い評判を増し加えなさい。夫がなりわいのことがらの責任を取るのは自

然で正しいことである。夫は妻を喜ばせ、妻もまた夫を喜ばせるのであ

る。(第1コリント7:33−34) このような方法によって自分た

ちの信仰に栄光を、生活に慰めを、そしてすべての点で祝福をもたらす

ことが出来るのである。彼らは親密な友として、ともに笑いともに泣く

べきである。彼らのつながりを分けるのは死以外には何もない。

 

9、                          お互いのために祈る。

ペテロは、「あなたがたの祈りが妨げられないためです。」(第1ペテロ3:7)と書いている。つまり、彼らがお互いに祈りあうべきであることを提案しているのである。「イサクは自分の妻のために祈願した。彼女が不妊の女であったからである。」(創世記25;21)言うまでもなく私たちはみんなのために祈るべきである。が、特に私たちの配偶者のためにそうしなければならない。もっとも純粋な愛は熱心な祈りによって表現されるものなのである。また祈りは愛を保つことができる。ともに祈る時間を見出しなさい。ブロットン氏は一日に二度プライベートで祈り、二度妻とともに祈り、二度彼の家族とともに祈った。祈りは、クリスチャンの結婚を異教徒の結婚や動物のつがいとは違ったものにすることが出来るのである。

 

 

   夫の特別な義務―――愛すること

 

 愛は、妻に対する他のすべての義務の土台である。すべてはここからあふれ出る。愛がなければ、妻に対するすべての義務の表現は難しい。優しさ、尊敬、配慮、親切などはどれもこの愛の太陽から放たれる光線にすぎない。

 

1、敬虔な夫の愛の大きさ。

夫の妻に対する愛は、この関係独特のものである。それは、親の愛や欲望とは区別されるものである。

 

 A,その愛の土壌。結婚をしたすべての夫に対して、神は自分の妻を愛するように命じられる。この事実のみが変わることなくいつまでも続くのである。なぜなら、妻はいろいろな点で魅力的ではなくなることがありうるからである。

 

   B、その愛の領域。夫は妻の肉体とたましいの両方を愛すべきである。ゆえに、人はその妻をただ見かけだけではなく、その人間的、霊的に魅力のある妻を選ばなければならない。でなければ、人はその妻にひどい仕打ちをすることになってしまうであろう。

 

  C、その愛の程度。それは他のどのようなものにも勝っていなければならない。彼の両親、子供、そして言うまでもなく家族以外の誰よりも妻を愛さなければならない。「いつも彼女の愛に夢中になれ。」(箴言5:19)

 

  D、その愛の期間。「いつも」(箴言5:19:上述) 公のときばかりでなくプライベートのときも、単に一週間、一ヶ月、一年間だけではなく、死が二人を分けるまでである。夫の愛は年を重ねるごとに増していかねばならない。あなたは妻の美しさと健康を享受した。ならば、彼女のしわと病気をも甘んじて受けなければならない。内的美しさは、しばしば外的美しさが減少するときに増し加わるものである。夫の妻に対する永遠の愛の聖書的根拠はいとまがない。

 

2、                          敬虔な夫の愛のかたち。

 A,イエス・キリストの教会に対する愛。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25) 私たちはキリストと等しいところまで到達することは出来ない。が、私たちの愛の質においてはキリストと等しくなければならない。ではキリストはどのようにご自分の教会を愛しておられるのか。

1) 真実で偽善のない愛。キリストの愛は真実で真剣あったがゆえ

に、主は教会のために死なれた。

 

2) 無代価、前にも後にも条件のない愛。キリストはご自分の教会

をきよめるためにご自身をささげられた。それは、彼女(教会)が愛される前に美しさを持っていなかったことを暗示している。夫は自分の愛によって、彼女から愛を引き出さなければならない。真実の愛は愛を与える者を豊かにするというより、愛の対象を豊かにするものなのである。

 

3)きよい汚れのない愛。キリストがそうされたのは、みことば

により、水の洗いを持って、教会をきよめて聖なるものとするためであり」(エペソ5:26)このみことばは、夫が自分の妻のさらなるきよめのために熱心に労しなければならないことを教えている。

 

4)偉大で比類のない愛。人がその友のためにいのちを捨てると

いう、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)これこそが、キリストがご自分の教会のためにしてくださったことなのである。(エペソ5:25)

 

5) 不断で変わることのない愛。主がご自分の前に栄光の教会を立

たせてくださるときまで、主は変わることなく愛してくださる。キリストは教会によって幾度となく斥けられてきた。しかし、それでもなおキリストは教会を愛し続けておられるのである。夫は主の模範に習わなければならない。妻のいかなる欠点といえども、妻を愛することをやめる根拠とはなりえないのである。

 

6) 行動的で無視することのない愛。これを養い育てます。」(エ

ペソ5:29) それが妻の必要であれ、助けであれ、継続的な友情であれ、あるいは病気の看病であれ、夫は最善を尽くさなければならない。

 

  B、夫の自分自身に対する愛。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」(エペソ5:28) 「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。」(5:33) 夫の愛が、ご自分の教会に対するキリストの愛ほど大きくはありえないが、理解するのは容易である。

 

1)やさしさ。私たちは自分自身の痛みや悲しみを他のだれよりも優しく扱うものである。「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえってこれを養い育てます。」(エペソ5:29) 妻は、クリスタルガラスのようなもので、優しく扱われなければ割れてしまうものである。女性は男性よりも恐れやすく、感情的で、悲しみに陥りやすいのである。

 

2)こころよさ。だれでも自分自身ほど助けやすいものはない。一番の友人であっても、あなたを助け損ねることはある。が、あなたは自分自身を助け損ねることはない。同じように、あなたの妻を助けるべきなのである。あなたを黒雲が取り囲むとき、あなたの愛によってそれをおいはらうべきである。あなたは、自分自身に対してそれほど長く腹を立てることはあるまい。仲介者など必要とはしないのである。

 

 

3、                          敬虔な夫の愛の実践

 A、ことばによって。

1) 夫は妻を教える。わきまえて妻とともに生活しなさい」(ペ

テロ第1、3:7) 妻は「もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってふさわしくないことです。」(第1コリント12:35) 自分の妻を教える意志も能力もない夫がいるとしたら、それは悲劇ではないか! 夫は、そのどちらの場合でもそれを獲得すべきなのである。でなければ、妻は地獄で永遠に彼をのろうであろう!

 

2) 夫は妻を戒める。愛は多くの罪をおおうからです。」(第1

ペテロ4:8) ゆえに夫は多くのあやまちを許すべきである。ちょうど剣は常用されることによってその切れ味が鈍るように、叱責もまたそうである。常に叱責があればその切れ味はほとんどなくなるであろう。しかし、真実の愛は時として非難を要求することもある。が、それは考えられる最も大きな知恵と優しさをもってなされるべきである。決して他人の前ではなく、家族の前ということもほとんどありえない。おもにに罪のためであって、その他の場合はほとんどありえない。まず初めに、賞賛、そして非難。叱責は短くあるべきである。迅速で軽い平手打ちのように。(もちろん、これは譬えである。夫が自分の妻を打つなどということが決してあってはならない。)もし薬が強すぎるなら、益よりも害をもたらす。ヨブの模範に習わなければならない。彼は「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。」(2:10)と言っただけであった。温和な叱責が最も効果的に、彼女を悔い改めへと導くものなのである。(箴言25:15)

 

3) 夫は妻を励ます。妻がよくやったときは妻をほめるべきである。

これは非常に重要な点である。なぜなら、あなたが彼女を戒めなければならないとき、あなたの愛の真実さを認識する助けとなり、その叱責はもっと意味のあるものとなるからである。

 

4) 夫は妻を慰める。彼女が精神的に、肉体的に病んでいるときは

特にそうである。ハンナに対するエルカナの優しさは、食欲のなかったハンナに食事をとらせた。(第1サムエル1:8−9)夫の優しい一言は妻にとって良薬のようなものである。決してこのことを軽く見てはならない。

 

  B、行為において。

1)夫は妻にその必要を供給する。妻にその必要を供給するのは主に夫の義務である。(出エジプト記21:10) 言うまでもなく妻もその出来る限りを尽くして夫を助けるべきではあるのだが。弱い器としての妻に対して夫が与える賞賛が、彼女を励まし支えるのである。(第1ペテロ3:7、マタイ15:6、第1テモテ5:3)夫は、キリストがご自分の教会にそうされたように自分が生きている間だけではなく召された後まで、妻の必要を準備するべきである。もしも主がおできになるなら、「雀の涙ほどの相続」であっても彼女に残すべきである。それをもって彼女は自分の子供やその家の者たちを養い励ますことができるのである。

 

2)夫はその妻に優しさを示す。これは特に、危険、試練、苦しみ、非難、侮辱などから妻を守るとき、また問題に直面したときの妻に対する同情において示されるべきである。

      

3 夫は妻のよき模範である。妻というものはたいてい、地獄にも天の御国にも夫について行くものである。彼の模範は、夫が考える以上に大きな影響を及ぼすものである。ソロモンは自分のことを「若いころの導き手(英訳)」(箴言2:17)と呼んでいる。それゆえ、敬虔、まじめさ、愛、知恵そして善良さにおいてよき模範を示しなさい。妻はあなたの祈りから祈り方を学ぶであろう。あなたの生活そのものが、彼女の規則となりまた法となるのである。

 

4 夫は妻の妥当な願いをかなえる。ダビデは、息子の王座を求

めたバテシェバの願いをかなえている(第1列王記1:15−31)イサクは、ヤコブのために敬虔な妻を求めたリべカの願いに答えている(創世記27:46、28:1)。そしてイエス・キリストはご自分の教会の請願にお答えになっておられる。夫は妻の要求を前もって予測できるほどでなければならない。そして、彼女が求める前に与えるべきである。また、エルカナとアブラハムがそうであったように(第1サムエル1:23、創世記21:12)夫は妻の助言を求めることもすべきであろう。そして、彼女が正しい時はそれに従う必要がある。

 

5)家庭の仕事において妻に信頼する。夫の心は彼女を信頼

し、彼は『収益』に欠けることがない。」(箴言31:11)特に、妻が家庭の仕事を導くに十分なセンスがある場合にそうである。夫は、家事よりもしなければならない重要な仕事がある。もちろん妻はしばしば夫に相談することになる。そうすれば、事がうまくいっていないと言うことが明らかになったとき、妻は非難からまぬがれるであろう。けれども、ふだんは、夫は家庭の仕事の領域の外に自分自身を置いておくべきである。そして、妻がその領域に自分の位置をしめ、その「巣」の中での仕事を果すべきなのである。

 

6) 夫は妻の上にその権威を働かせる。全知全能の神は、最初の

夫に権威をお与えになった。(創世記2:23)そしてこの権威は、彼の堕落によっても彼から取り去られることはなかった。(創世記3:16) 自然と福音書の光もまたこのことを示している。(エステル1:22、第1コリント11:3) 自尊心が強くて無知な女性だけがこのことに反対するであろう。けれども夫はこの権威を使わなければならない。

 a、賢く使う。夫は、真に霊的でまじめであることによって、また男らしい振る舞いによってのみ、この権威を保つことができる。もしも夫が神を敬っていないなら、妻がその夫を敬うのは困難である。もしも彼が軽々しくまためめしいなら、その権威を失うことであろう。

 b、温和に使う。夫の立場は優越ではあるが、そのたましいはまったく同等であることを覚えておかねばならない。妻はあなたの配偶者である。ゆえに王が自分の召使を扱うように彼女を扱うことはできない。そうではなくて、頭とその体全体の関係のように扱わなければならない。エヴァは、アダムの頭や足から取られたのではない。そうではなく、彼の心臓から近いあばら骨から取られたのである。彼の態度は友好的で、言葉は甘く、命令は気配りと丁寧さを忘れずに、またその叱責は親切に行なわれるべきである。(コロサイ3:16)妻の上に権威を振るうことを脅かしだと考えるべきではない。もしも知恵の温和さが彼女を説得することができないなら、あなたはこの世界で未熟なのである。

 

 

 

    妻の特別な義務―――敬うこと 

 

   これは妻の特別な資格でもある。たとえ彼女がどれほど美しく多くの知識をもっていたとしても、もし自分の夫を敬うことができないとしたら彼女は決して良い妻ではありえないのである。創造のみ業がそれを語っている。妻は夫よりも後で(第1テモテ2:13)、また夫から(第1コリント11:8)、しかも夫のために(第1コリント11:9)造られたのである。この命令は男によってなされたのではない。神によってである。堕落の後においてさえ、神の命令は変わっていない。「彼は(夫は)、あなたを支配する。」(創世記3:16)新約聖書もまた、これを承認している。(コロサイ3:18、第1ペテロ3:1−6)たとえ彼女が最もすばらしく、その夫が最もみすぼらしい場合でも、彼女はその夫を敬わなければならない義務がある。第1に、彼女は自分の立場が夫の上にあるものではないのだということを心に銘記しておかなければならない。

 

1、                                                                                                                                                                                                         敬虔な妻の尊敬とは

 A、彼女は夫を高く重んじる。女たちは、身分の高い者から低い者に至るまでみな、自分の夫を尊敬するようになりましょう。」(エステル1:20) 夫の人格のすばらしさを考えなさい。そしてそれを正当に評価しなさい。そしてもしも彼がそれに到達していないなら、そのときは、「神の栄光の現われ」(第1コリント11:7)としての彼の位置について考えるべきである。あなたが彼を自分の夫として彼と結ばれたとき、あなたは彼を重んじたはずである。そして、それをいつまでも続けるべきなのである。ミカルがダビデを敬わず、その結果神からのさばきを受けたことを思い起すべきである。(第2サムエル6:16,23) 彼女が自分の夫を敬うとき、彼女の家族や隣人は彼女をも敬うであろう。このように、彼をほめることによって、彼女は自分自身をもほめることになるのである。

 

 B、彼女は心から夫を愛する。このような敬いは、愛によって可能となる。愛することもまた、彼女の義務なのであるが。(テトス2:4) サラ、リベカ、ラケルたちは、それぞれの夫を愛するがゆえに、親や友人、また自分の国を離れたのである。クララ・セルヴェンタと言う名前の若い女性は、ヴァルダウラという男性と結婚をした。この男性はからだ中が病気で、誰一人彼に触れようとする者はいなかった。けれども彼女は一生懸命に彼の傷口に包帯を巻き世話をした。そして自分の衣服や宝石を売って、彼の治療費に当てた。やがて、夫は死んだ。彼女を慰めに来た人々に彼女は言ったという。「私は、夫を取り戻すためになら自分の5人の子供さえ犠牲にしたい。」と。彼女は自分の夫に対する愛を彼に対する尊敬以上にうまく表す方法を持ち合わせてはいなかったのである。

 

 C、彼女は切に夫を喜ばせようとする。エペソ書5:33の「敬う」ということばは、文字通りに訳すと、「おそれる」という意味である。彼女は「恐れかしこむ」(第1ペテロ3:2)ことを続けなければならない。なぜならこの恐れなしでは彼女は不適格だからである。この恐れとは、決して卑屈を意味するものではない。そうではなくて、喜ばせることを切望し反抗することを拒む態度を意味しているのである。「私は最善を尽くして彼を喜ばせよう。私は彼の手を恐れているのではなく、彼の不満を恐れているのだ。私の夫を悲しませるくらいなら、むしろ全世界を悲しませたい。」

 

2、                                                                                                                                                                                                         敬虔な妻の敬いのかたち

 A、キリストに対する教会の尊敬。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」彼女の服従は教会のキリストへの不可欠な従順のようでなければならないのである。

1 すべてのことにおいて。大きなことであるか小さな事であるかに関わりなくである。また彼女にとって賛成できるかどうかにも関係がない。彼女が夫の要求を拒むことができるのは、ただ神が禁じておられることを彼が求めるとき、あるいは神が求めておられることを彼が禁じるときだけである。彼女にとって不都合なことがあったときは、夫と相談することができる。しかし、もし夫を説得することができなかったなら、またそのことが罪になるようなことでなかったなら、彼女は夫に従わなければならない。

       

2 自発的に、しかも心から気持ちよく。クリスチャンが主にささげる奉仕というものは善意を持ってなされるものである。(エペソ6:7)同じように妻も、あたかも夫の心と一つであるかのように、自分の夫に従うべきなのである。レアとラケルは、ヤコブにまるで彼の影のように従った。(創世記31:16)サラは自分の夫を「主人」と呼んで、誠実に夫を尊敬した(創世記18:12)そして、まさにこれがクリスチャンの妻の模範なのである。(第1ペテロ3:6)ゆえに不承不承の従順というようなものは認められない。そして、たいていの場合、抑えられないプライドと自尊心からそのようなものが生まれてくるのである。たとえ夫が辛辣であっても、あなたは自分の義務を果すべきである。そして彼のさばきを神に任せよ。

 

   B、かしらに対するからだの尊敬。夫は妻のかしらであるからです。」(エペソ5:23)からだのすべての気管が、かしらはそのからだ全体のために有用であることを認める。手は頭を守るためなら喜んで傷を受けるだろう。どのようなことであろうと、頭が決めたことを、からだ全体はない得る限り行なおうと務めるのである。これこそが、まさに妻が、神の次に夫をあがめる方法なのである。かしらがある方向に向かい、あばら骨が別の方向に向かおうとしたり、一兵士が指揮官に命令を下したり、またつきが太陽の上に優越性を主張したりするのはこっけいなことである。ただ、夫が強靭の場合だけがこの例外なのである。「男が、ヴェルブム・アノマルム、すなわち愚か者でないかぎり、その家の中での権威を持っているのである。」(ルター)

 

3、                                                                                                                                                                                                         敬虔な妻の尊敬の実践

 A、言葉において

   「心に満ちていることが口から出るのです。」(マタイ12:34)もしも彼女が、心から夫を尊敬しているなら、彼女の言葉にそれが現われて来るであろう。「彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。」(箴言31:26、15:4) 

1 彼女は、夫のいないところでも夫に対して尊敬を現わす。自分の夫に対して「主」(第1ペテロ3:6)という呼び方で尊敬を現わしたサラの敬虔な模範に習う妻よりも偉大ですばらしい妻はいない。邪悪な妻は自分の夫を「おとこ」(箴言7:19のへブル語)と呼ぶのである。妻が夫をかげでこのように呼ぶのは最悪のケースである。

   2 彼女は夫の前でも夫の対して尊敬を現わす。以下のことに気をつけなければならない。

    a、夫が話している間に割ってはいる、あるいは夫が一言を発する間に10語も語る。沈黙は話すことよりも女性の知恵を示すものである。知恵ある女性は控えめに話す。

    b、不敬な言葉使いや声調。「柔和で穏やかな霊」(第1ペテロ3:4)であるように努力すべきである。そのような言葉使いがあなたの夫をさらにひどくするのだということは驚くにおよばない。そうではなくて、神の知恵に頼りなさい。(第1ペテロ3:1、箴言25:15)神はすべての無益な言葉を聞いておられ、そのような言葉にさばきを下されるということを覚えておかなければならない。(マタイ12:36)言うまでもなく、夫も妻も怒るのに遅くなければならない。が、どちらかが引き下がらなければならないとき、引き下がるべき側は妻なのである。最後の一言を発するいかなる女性もほめられることはない。ある女性たちは、自分たちの唯一の武器は口であると主張している。しかし賢い人々は次のことを心得ている。すなわち、彼らの口がゲヘナの火によって焼かれるべきものであるということを。(ヤコブ3:6)ラケルがどのようにせき込んでヤコブに話したかを見られたい。「私にこどもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」(創世記30:1)彼女は二人の子どもを得るやいなやすぐに死んでしまうのである。(創世記35:18)それとは対照的に、アビガルは非常に邪悪な夫に対して慎重にふるまった。そしてそれが彼女の賞賛となったのである。

 

   B、行為において

1 彼女は夫の導きと制止に従う。サラはアブラハムに従った。それゆえ、彼女はすばらしい模範なのである。(第1ペテロ3:6)アブラハムは言った。「早く三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」(18:6)サラは直ちにその命令に従った。妻は、それが神の御意志に背かない限り、自分の夫に従う義務がある。そして、たとえそのような場合(神の御意志に背いている場合)においてさえ、妻は敬いをもってそのことを断るべきなのである。例えば、彼女は聖書を読むことや祈ることあるいは主日をきよく守ることなどを怠るようなことは受け入れられないであろう。たとえ夫がどれほど厳しく命じたとしてもである。家は彼女のいるべき場所であり、妻はその家の美しさである。また家にこそ彼女の安全性もある。ただ緊急な必要が生じた場合のみ、彼女はそこを出ることができる。自分の家に留まらないのは、売春婦の足である。(箴言7:11)妻は、その夫が良く治める家に住まなければならない。妻は、「夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み(ギリシャ語のOIKOROS、その意味は家の世話をすること)、優しく、自分の夫に従順である」べきなのである。(テトス2:4)

 

    2 彼女は夫と相談し、夫の叱責を聞く。リベカは、イサクに相談もせずにヤコブをラバンのもとにおくるようなことはしなかったであろう。(創世記27:46)サラは、アブラハムに相談もせずに召使ハガルを解任することはなかったであろう。(創世記21:10)シュネムの婦人は夫のアドヴァイスを受けずに預言者を自分の家に受け入れるようなことはしなかった。(第2列王記4:10)妻の最も困難な仕事は、彼女がほこりと争い好きの精神を持っている場合は特に、叱責を愛を持ってまた感謝をもって聞くということである。けれども、自分に落ち度があり、自分の夫ほどその落ち度をよく知っている者は他にはいないのだということを覚えておくべきである。ゆえに、夫の叱責に対して怒りを持って答えるのは、あまりにも恩知らずの愚か者であるということを示しているのである。もしも彼女が、本当に夫を愛しているなら、このことはずっと簡単なこととなるであろう。

 

4、彼女は常に、尊敬と気持ちよい態度とを取りつづける。夫が喜んで

いるとき、彼女は短気を装ったり、憂鬱な態度を持つべきではないし、また夫が悲しんでいるときにはしゃぐべきでもない。彼女は、夫が彼女によって満足を覚えるために最善を尽くすべきなのである。彼女は自分の置かれている立場に満足を表現すべきである。そうすれば夫は妻とともにその家庭で楽しむであろう。どのような食事、衣服、部屋、を夫が好むのかを学び、彼の楽しみに順応しなければならない。というの