バプテストの歴史 2004年4月6日

 

4月6日 教理的な大惨事
       みことば エペソ4:14−15

 良心の自由および神のみことば以外のいかなる権威からも自由であるという主張こそ、ほかのどのような教派よりもバプテストが最も明確に示してきた相違点であると言えます。適例の一つがダニエル・パーカーです。彼はバプテストの一つの小さなグループのリーダーでした。パーカーは1781年4月6日ヴァージニアのカルペッパー郡で生まれました。彼がまだ幼いうちに彼の家族はジョージアに移りました。パーカーはそこで、極貧のうちに正式な教育を受けることもなく育てられました。パーカーは鋭敏な頭脳を持っていました。そして、やがて能力のある討論者として成長したのです。ジョージアのフランクリンにあるネイルスクリーク教会から説教をする資格が与えられました。その後、彼はテネシーに移り、すぐに按手を受け牧会の働きをしました。そしてそこで、彼は「予定論」と出会うことになります。そしてこの予定論が彼の生涯の色彩を決定したのです。パーカーは1817年にイリノイ州に移りました。

 1815年まで地域の協会の議長として仕えている間に、彼は当時の伝道、神学校、聖書協会のあり方を責めました。そして1820年に、彼は反宣教運動のリーダーとなって、その説を書いたパンフレットを出版しました。彼の働きはノースカロライナ、テネシー、ケンタッキー、イリノイ、インデイアナ、テキサスへと広がっていきました。パーカーが予定論から編み出した「二つの種」の教理は彼の思いの中で完全に広がっていきました。そしてすべての人は、良い種か悪い種として生まれこのことによってその人の運命が決定してしまうのだと言う彼の考えを2冊の本にまとめました。そしてその結果として、宣教の必要性を否定してしまったのです。ここに彼の問題点がありました。宣教は主が教会にお与えになったご命令であるにもかかわらず、それを否定することによって予定論の真の意味を見失ってしまいました。パーカーは彼の編み出した教理で多くの教会に影響を及ぼしてしまい、宣教の指導者であったルーサー・ライスやジョン・メイソンの働きを難しくしてしまったのでした。

 バプテスト事典はパーカーのことを礼儀をわきまえない、服装においてだらしない、またそのいでたちにおいて好印象を与えない人物として紹介しています。彼の熱狂ぶりはほとんど精神的な病があるような状態でした。彼は宗教的な新聞、トラクト、書籍などを非難していたにもかかわらず、2年間、彼自身が「Church Advocate」という月刊誌を編集し出版していたと言う事実は非常に興味深いところです。彼はその月刊誌において、予定論の誤った解釈と宣教に対する反対論を主張し続けました。

 ダニエル・パーカーは、正式な訓練がなかったにもかかわらず、鋭く非常に明快な頭脳を持っていました。 この事実はテキサスにおける非カトリック教会を組織することを禁止する法律が通ったことに対する彼の反応に見られます。

少なくとも、一人のバプテストは非カトリックの信仰をその地域に伝える方法を発見した。・・ その一人の抜け目のない人物こそ、最近イリノイから移ってきた、「二つの種」バプテストの創 立者であるダニエル・パーカーであった。非カトリック教会の設立は確かに禁じられているかも 知れない。けれども、この州への移住を禁止する法律はない、と彼は言った。そういうわけで、 彼はイリノイ州のクラウフォード郡に戻った。そして1833年7月26日、テキサスから出てきた7 人のメンバーとともに、「予定論レギュラー・バプテストのピルグリム教会」を設立した。パーカー 牧師の導きのもと、その教会は途中でもう11人のメンバーを獲得した。そして1834年1月20 日、ピルグリム教会はオースチン植民地で最初のカンファレンスを開いたのであった。(注1) ダニエル・パーカーは1844年12月3日、テキサスのエルクハートで召されました。

注1 L.R.Elliott,ed., Centennial Story of Texas Baptists (Dallas: Baptist General Convention of Texas, 1936). P.21


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