バプテストの歴史 2004年4月3日

 

4月3日 英国に避難したオランダ人たちが迫害される
       みことば マタイ10:22−42

 フィリップ2世の時代、オランダではアナバプテストの原則に立っている人々に対する迫害が強化されていました。フィリップ二世は法王の味方の長、16世紀後半プロテスタントを阻止するのに活躍したイエズス会の長でもありました。フィリップ二世は、自分が正しいと信じていた信仰を用いて、非常な残酷さに訴えてオランダにおける自分の立場を回復させるために努力しました。彼はオランダに無慈悲なアルヴァ公爵を派遣しました。この公爵の振る舞いは盲目で残酷ということばとほとんど同義語にするほどひどいものでした。(注1)
 アルヴァは、10000人からなる重装備をしたスペインの兵士たちによって構成された強い軍隊を率いて出かけました。彼は、フィリップ王に対する忠誠心に疑問があると思われるすべての者に対する裁判を素早く行い判決を下すために、特別の法廷を設立しました。これは、英国とヨーロッパの「肉屋総督」の血とアルヴァ公爵の会議として広く知られています。迫害を受けた者たちは英国なら安全だと思いました。確かに多くのプロテスタントたちはそこで避難所を見出しました。けれどもアナバプテストたちに対する迫害はそこにおいてさえ同じでした。
 1575年4月3日、オランダ人のアナバプテストの小さな群れロンドンの町はずれの個人の家で集まりました。彼らが礼拝していたとき、警官が彼らの礼拝を妨げ25人を行政官のところに連行して行きました。そしてこの行政官は彼らに投獄を言い渡しました。25人のアナバプテストは、柱に縛られたままで二日間そこに拘留されました。そして、出廷を求められたときには必ず出頭することを約束して、釈放されました。
 このことは女王(エリザベス一世)に告げられ、王任委員会は、このアナバプテストたちを尋問し処分するために、ロンドンの主教であったサンデーとそのほかの数名の者に託されました。アナバプテストたちは委員たちの前に出頭しました。そこでかれらの信仰告白は拒絶され、彼らは、自分たちの信仰に反する四つの項目を受け入れ、署名をするように求められました。もちろん、その中には幼児洗礼の項目も含まれていたのです。言うまでもなく、この忠実な信者たちは、自分たちの前にたたきつけられたこれらの項目に署名することを拒絶しました。
 サンデーは言いました。「(彼らの)悪行はあまりにもひどいものであり、神の哀れみを享受できるものではない。・・・そして彼は彼ら全員に、マーシャルシーの監獄に投獄されるべきであると言い渡した。」その監獄は後に、「クイーンズ・ベンチ」と呼ばれるようになりました。オランダ教会やそのほかの人々が、屈服して自分たちの主張を取り消すように説得しました。けれどもアナバプテストたちは言いました。「ジョリス裁判長がここに来て、もしも私たちがオランダ教会に加盟しさえすれば鎖ははずされ、自由の身になれると言いました。主教がかれにそうする権威を与えたのです。けれども、私たちはイエス・キリストの真理にとどまり続けました。主こそが私たちの唯一の主であり、他にはいないからです。そうです! 私たちは主にのみ信頼を置いているのです。」(注2)
 「無言の人」と呼ばれたオレンジのウイリアムが、フィリップ2世とローマから、オランダの北部プロヴィンスを取り上げたのは興味深いことです。後に英国の非国教徒たちがオランダに迫害からの逃れ場を見出すことになるのです。イエスは弟子たちに、「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。」(マタイ10:23)と言われました。これは、しばしば神がお用いにある、福音が伝えられる方法です。バプテストたちは逃げまどい、福音を伝える人々でした。彼らのすべての苦しみを通して神の主権的な御手を見て、信者たちは喜び、自分の悲しみに引きこもる代わりに、その機会を捉えて前進したのでした。

注1 J.H.Breasted and J.H.Robinson, History of Europe, Ancient and Medieval (New York: Ginn and Co., 1914) pp. 538-39
注2 J.M.Cramp, Baptist History (London: Elliott Stock, 1870). Pp.270-71


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