バプテストの歴史 2004年4月1日

 

4月1日 ケンタッキーへのバプテスト侵入者
       

 ウイリアム・ヒックマンは、1747年2月4日にヴァージニアで生まれました。幼くして両親を失い祖母によって育てられたこの少年には、十分な教育を受ける余地などはありませんでした。けれども祖母は彼に聖書を与え,それを読むようにすすめました。14歳になると、商売を学ぶために奉公に出されました。そして9年後、彼の主人の娘、サラ・サンダ―ソンと結婚することが許されるほど信頼を受けるようになりました。結婚してまもなく、彼はその地域にバプテスト(当時はニューライトと呼ばれていました。)があることを知りました。彼の妻の願いに逆らって、彼はその説教を聞くために出かけました。そして翌日、改心者を「沈める」ということを聞き、彼は、妻がどれほど反対しようと、どうしても出かけることに決心しました。そのとき、ヒックマンはまだ救われてはいなかったのですが、確信をもつようになり、バプテスマが試行されるのを見たいと強く求めるようにさえなったのです。 次の年の秋に、ヒックマン家はケンタッキー州のカンバーランド郡に移りました。ウイリアムは確信を失いつつありました。けれども、主がご自身のしもべをその地域におつかわしになりました。そして彼の妻が近所の人々とともに改心したのでした。ヒックマンは妻がバプテスマを受けるのを数ヶ月の間させませんでした。彼は聖公会の教会へ行くように説得しました。そして彼女が幼児洗礼の妥当性を納得するように努力しました。この目的のために、彼は新約聖書を厳密に学び始めました。この研究によって、彼は幼児洗礼が聖書には教えられていないのだという結論に到達するのです。ついに彼は妻のバプテスマに同意することになります。(注1)
何度も投獄された経験のあるヴァージニアのバプテスト牧師であるデイヴィッド・テインスレーの説教を通して、ヒックマンは自分の罪のために苦しむようになり始めました。1773年2月21日、彼が主を求めているとき、神の平安が彼の心を満たしました。そして彼は満ち足りた喜びを知ったのです。2ヵ月後、ヒックマンはバプテスマを受けました。
 彼らの教会には牧師はいませんでしたので、何人かの若い改宗者たちが説教を担当していました。そして、そのグループからウイリアム・ヒックマンを含む5人の若者が、ケンタッキー州に霊的に侵入する道備えをした初期のバプテスト牧師たちの中に数えられているのです。1776年4月1日、ヒックマンと数名の同労者たちはハロッヅブルクに到着しました。そして記録されているケンタッキーで最初のバプテストの説教はトーマス・テインスレーとウイリアム・ヒックマンによるものでした。それは、ヒックマンにとって自分の家庭礼拝を除けば最初の説教でした。そしてそれは、神の御手が彼の上に置かれたことの証拠でした。2年後、彼はヴァージニアで按手を受け、そこで8年にわたる活動的な働きが続けられました。彼はこの期間に投獄されることはありませんでしたが、激しい迫害の分け前を受けました。
 1784年の夏、ヒックマン家は恒久的にケンタッキーへ移りました。そして、それから4年間、ヒックマンはあらゆる機会を使って働きました。1788年1月17日、ヒックマン牧師はエルクホーンのフォークスへ移ります。そして彼の救霊に燃えた説教の結果、エルクホーンのフォークス教会が誕生したのでした。そこで、召される1834年まで牧会を続けました。彼はその教会に2年間の空間を除いて45年間仕えました。その空間の二年間とは、「バプテスト・ソサエテイのメンバーによって大目に見られていた奴隷制度に反対したために教会から追い出されていた時期です。(注2) 大いなるリヴァイヴァルの時代、1800年から1803年までの間に、ヒックマン牧師は500人以上の改心者にバプテスマを授けました。このようにして、ほとんど教育も受けていなかった孤児が、私たちの主イエス・キリストの忠実なしもべとなったのでした。

注1 J.H.Spencer, A History of Kentucky Baptists from 1769 to 1885 (Cincinati: J.R.Baunmes, 1886) 1:154
注2 Norman Wade Cox, ed., Encyclopedia of Southern Baptists (Nashvulle, Broadman Press, 1958), 1:606-7


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