バプテストの歴史 2004年3月28日

 

3月28日 植民地アメリカのオネシモ
       みことば ピレモン

 ジョン・ジャスパーは黒人でした。1812年7月4日に奴隷として生まれ、学校に行く特権は与えられませんでしたが、彼はまれに見る、生まれながらの雄弁の才能を持っていました。後に、ジャスパーは当時の偉大な説教者のひとりになったのです。実にいく千人もの人々が彼の礼拝堂で心を動かされました。そして、あざ笑うために来た多くの人々が、彼の説教の終わりには公然と泣きながら立ち上がりました。彼の話を、わずかな紙面での描写で紹介するのはほとんど不可能です。でも彼のすばらしい生涯の概観を紹介できるかもしれません。

 ジョンが生まれる前に、奴隷のバプテスト教会の牧師であった彼の父は死にました。そして母ティナはジョンを主にささげました。彼女は祈り続けました。「主よ、もしも、あなたが私に送ってくださる子が男の子でしたら、どうぞ彼には主を賛美する歌を歌う以外は何もさせないでください。」と。(注1)彼女は彼が生まれたときに、「バプテストのヨハネ(ジョン)」の名をとってジョンと名づけるように要求しました。
  
 ジョンはただのわがままな若者でした。けれども彼の母は我慢強く祈り続けました。ジャスパー一家は、未亡人メリー・ペレ・ピーチーに、ピーチーが死ぬまで所有され、彼女の死後は彼女の息子であったジョン・ピーチーに所有されていました。ピーチーが死んで後、ジョン・ジャスパーはサムエル・ハートグローブに買い取られました。彼はリッチモンドのファースト・バプテスト教会の執事でした。ハード・グローブは、ジョンを煙草の葉柄を除く工場で働かせました。ジョンの母親は彼のために祈り続けました。主はジョンの生活の中で、確信を与えられました。彼の証は生き生きとしています。「私は6週間神様を求めました。私はおろかで道が見えなかったからです。」(注2) 1839年7月25日、ジョンは煙草工場で救われました。そして喜び叫び始めました。奴隷監視人が何の叫びかと見に来ました。そして、彼はジョンをしかりつけました。同時にハードグローブがその場に入って来ました。そして、ジョンを自分の事務所に連れて行きました。ジョンの証を聞いて、ハード・グローブはジョンに、友人や隣人に証を分け合うようにと、その日は仕事を免除してやりました。

 ほとんどすぐに、ジョンは奴隷たちの葬式で説教をし始めました。そして神の力ははっきり表されました。人々は悲しみを慰める言葉を聞くために彼に群がったものでした。そして彼の描写的な雄弁をもによって、彼らは神の御臨在のもとに引き上げられました。そしてまもなく、白人たちをも彼の葬式の雄弁に夢中にさせました。ジョンは読むことを学べるように祈りました。そして7ヶ月の間他の奴隷、ウィリアム・ジョンソンが、ぼろぼろになった本「ニュヨーク・スペラー」を使って、彼に尽力して教えてくれました。すぐにジョンは熱心な聖書の読者になりました。彼は他の人の説教を聴く機会を捜し求めました。そして地方のバプテスト牧師であるウィリアム・ハッチャー博士と親しい友好を深めました。“主人サム”(サム・ハードグローブ)とハッチャー博士へのジョンの愛は彼の説教の中で明白です。ハードグローブはジョンに説教をする自由を与えました。そして彼は説教し続けました。ジョンは第6マウント・ザイオン・バプテスト教会を創立しました。彼は9人のメンバーで始めましたが、彼の死ぬときには2000人以上がいたと報告されています。(注3) 白人たちも、彼の説教を聞くために群がり、彼のユーモアが常に飛び散っていました。バージニア州議会がこの教会の総会に参加したとき、ジョンは叫びました。"パロはひどいうそつきだった。ほとんどの政治家がそうであるように!」(注4) 1901年3月28日、点に召され「植民地アメリカのオネシモ」、ジョン・ジャスパーの思い出のために神様に感謝します。

注1 Richard Ellsworth Day, Rhapsody in Black(Valley Forge, Pa.:Judson Press,1953). P.40
注2 Ibid.,p.55
注3 William E.Hatcher, John Jasper(New York:Fleming H.Revell Co.,1908), p.105
注4 day, p.116


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