3月22日 バプテストのマルテイン・ルター
みことば エゼキエル22:30
ウイリアム・ベル・リレイは、魅力的なリーダー的存在の背が高く著しくハンサムな男であったと述べられています。彼の朗々とした声は人を引きつけました。そして彼にはすばらしいユーモアのセンスがありました。これが、彼の時代における最も重要な根本主義者であったと言われています。1947年12月9日の彼の葬式で、リチャード・V/クリーンワーターズ博士は彼のことを「プロテスタントのマルチン・ルーサー」であると述べています。(注1)
W・B・リレイは、ちょうど南北戦争の前、1861年3月22日に、インデアナ州のグリーン郡に生まれました。彼の父親は南軍のシンパであったため、ケンタッキーに移りました。そこで若いリレイは育てられました。17歳のときに彼は改心しました。そしてインデアナ州のハノーヴァ大学で大学教育を受け、1885年に卒業しました。若いリレイははじめ、法律の仕事に携わりたいと考えていました。と言うのは彼は討論を好んでいたからです。けれども、説教者としての召しを受け、訓練を受けるために南バプテスト神学大学に入学し、1888年に卒業しました。
いくつかの小さな教会を牧会した後、ミネソタ州のミネアポリスにある第1バプテスト教会からの招聘を受けます。そしてそこで、1948年に引退するまで45年間牧会の奉仕をしたのでした。彼の働きに期間に、教会は585人から3500人に成長しました。リレイは説教者、牧師、著者、伝道者、行政官、討論者、市民指導者、市民評論家として活躍しました。そして第1バプテスト教会はさらに成長し続けました。1902年、ノースウエスタン聖書・宣教トレーニング・スクールを創設し、その学生は800人にまで成長しました。1938年には、ノースウエスタン・エヴァンジェリカル・セミナリーを加えました。そして1944年、彼はノースウエスタン大学を創設したのです。彼の学生時代に接触していたD・L・ムーディは彼の人生に大きな影響を及ぼしたことは疑いの余地がありません。一年に四ヶ月間、教会は彼に伝道者としての働きを許しました。彼は国内の至るところへ伝道者として出かけていったのでした。
リレイは60冊の書物を著しました。その中には、40巻からなる「解釈者および伝道者のための聖書」が含まれています。これはまさに彼の10年間の礼拝メッセージの収録されたものです。
論争を恐れず、リレイはその討論の能力を自由主義神学、進化論およびアメリカのカルトに立ち向かうために用いました。リレイは北部バプテスト・コンヴェンションから自由主義をのぞきたいと願い、その戦いのために力を結集しました。このようにして、彼は1920年から1940年代まで続いた根本主義対自由主義の戦いのリーダーとなりました。限界を知らないエネルギーをもってリレイは、1919年に、世界クリスチャン根本主義協会を形成するために参加し、その委員長として仕えました。1920年にはバッファローで根本主義バプテスト・フェローシップの創立集会で説教しました。1923年、彼はバプテスト・バイブル・ユニオンの創設に協力しました。リレイはまた1944年から45年にかけて北部バプテスト協議会の州代表であった時期に、ミネソタ・バプテスト協議会を独立させてしまいました。
自分の確信に正直であるため、また北部協議会の方向を変えることが不可能であることを悟り、牧師としての在職期間にその教会を協議会から離脱させることに失敗したので、1947年5月に、W・B・リレイは個人的に北部バプテスト協議会を離脱しました。それは、彼が1947年12月5日に召される7ヶ月前のことでした。「リレイの死に直面したときのシカゴにあるムーデイ・メモリアル教会のハリー・A・アイアンサイド牧師の讃辞に対して、リレイの友人も敵もともに同感せざるを得ないであろう。・・・"神は決して同じことを繰り返されない。・・・神は継続するために別の人を起こされるであろう。けれども、第二のリレイ博士は二度と現れないだろう。"」(注2)
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注1 Dr.R.V.Clearwaters, "The passing of Dr.W B Riley," Central Baptist Wuarterly., Spring 1961, p.11
注2 C.Allyn Russell, Voices of American Fundamentalism (Philadelphia: Westminster Press, 1976), p. 80
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