バプテストの歴史 2004年3月4日

 

3月4日 気まぐれな議院たちとの生活
       みことば 詩篇57:5−6

 17世紀初期の英国で、サミュエル・オーツは「エセックスへの旅をしその地域や隣接する国で説教をし、多くの人々にバプテスマを授けた非常に有名な説教者であり、偉大な論争家」でした。
 「オーツ師がバプテスマを何百人もの人に授けたときの出来事です。アン・マーチ ンという一人の若い夫人が数週間後に死にました。それは彼女が冷たい水につけら れたことが原因だと言われました。彼らはそれを口実に、オーツを牢屋に入れるよ うに治安判事を説得しました。そして、次の巡回裁判で彼を引き出すために、彼に 殺人者のように手かせ足かせをかけたのです。彼はケルムスフォードで尋問されま した。・・・多くの信用できる証人が送られました。・・・・そして若い夫人の母 親がこのように証言しました。・・・・アン・マーチンはバプテスマを受けた後数 日のほうが、受ける前の数年間よりもはるかに元気であったと・・・陪審員は・ ・ ・評決は無罪・・・だと宣言しました。けれども、オーツに反対する敵は非常 に多く、彼がエセックスのダンモンへ行ったのは、このあとすぐのことでした。町 のある人々は彼のいる家から彼を追い出して川に投げ入れました。彼らは彼を完全 に沈めたことを自慢しました。」(注1)
 "ヘンリー=デニー氏(もう一人の議論をまき起こした説教者)が6月に、説教したこととバプテスマを授けた嫌疑で逮捕され、リコルンシェアーのスパルデイングに投獄されました。"(注2)  1647年3月4日、領主と議員たちは本質的に信教の自由を与えるという、バプテストにとってわくわくするような声明を発表しました。それは以下のようなものでした。
「ドイツでアナバプテストと名付けられた人々は、その突拍子もない見解のゆえに ほんとうに多くのの非難を受けた。私たちが忌み嫌い憎むその見解としきたりは、 政府とすべての州の平和に混乱を起こす傾向がある。けれども、幼児へのバプテス マに対する反対がなければ、それは単にオーデイナンスを行う時間の違いの問題だ けである。この点では、昔から学識のある人々の双方の見解とその実践において相 違があったことである。我々はすべての人々が満足し、この点で我々の判断と実践 に従うことを望むものであるが、人は腕力や、暴力によってではなく大いなる寛容 と判断を持って、神のみことばによって確信するのがふさわしいと考えるものであ る。」(注3)
 バプテストの平和は長くは続きませんでした。しかし、1648年5月2日:領主と議院は国会に集まって、ぼうどくと異端の処罰に対する規定が発布しました。「誰でも幼児洗礼は不法であるとか、そのようなバプテスマはむなしいとか言うなら、また、そのような人はもう一度バプテスマを受けるべきだというなら、侮辱された教区の改宗の面前で自分の間違いを認めないなら、間違いについて出版したり表明したりしないと保証されるまで投獄されるものとする。」(注4)
 私たちの時代は何と自由なのでしょうか! アメリカが持つような宗教的多元論、今日でも世界中で自由に取り入れられているわけではありません。信教の自由を神に感謝し、その価値に無頓着にならずに、それを断固として守り抜こうではありませんか。

注1 Joseph Ivimey, History of the English Baptists (London ; Bruditt and Morris, 1811), pp. 197-98.
注2 Ibid., p.198
注3 Ibid., p.200
注4 Ibid. pp. 200-201


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