バプテストの歴史 2004年2月27日

 

2月27日 信仰の故に解雇された大学の学長
       みことば ミカ6:8

 ヘンリー=ダンスターは1612年ころ英国で生まれ、幼くして救い主を知るようになりました。彼は次のように証しています。「主は私に注意深く聞くことのできる耳と、説教を理解することのできる心を与えてくださいました。・・・主は私に、自分の罪とキリストによる和解を示してくださいました。・・・そして、私にとって、このみことばは世界のどんなものにもまさってすばらしいものでした。」(注1) 1630年に、ケンブリッジ大学を、学士の学位で卒業し、1634年には修士課程を終えました。その後英国国教会で按手を受けたようです。けれども、彼の心は、教会の腐敗のゆえに悲しみに満たされていました。そのために、彼は英国を去り、アメリカへの航海に出たのでした。
 ボストンに着くとすぐに、ダンスターは満場一致でハーバード大学の学長に選ばれました。1640年8月のことでした。彼の指導力は高く評価され大学は彼の在職の初期には非常に成長しました。
 そのころ、英国国教会においてある人々はまだ浸礼を実行していたことを指摘しておかなければなりません。ダンスターはその中の一人だったのです。彼はケンブリッジ教会に加盟しました。教理上の唯一の相違点は浸礼という点でした。1641年、彼は牧師の未亡人と結婚し、彼女の5人の子供を育てる責任を負いました。その2年後、今度は彼がやもめとなりました。そして1644年に再婚します。そして5人の子供が与えられました。
 1648年から1653年の間に、彼は、「明確な信者のみにバプテスマが授けられるべきである」という確信に至ります。問題が勃発したのは1653年であったと考えられています。ダンスターは生まれたばかりの自分の子供に水がふりかけられることを拒みました。そのころ、ケンブリッジ教会の牧師はミッチェル牧師でした。彼はこの大学学長に会い、何とか彼を説得しようと試みます。ところが、ダンスターの理論は非常に強かったので、この若い牧師は、彼が「幼児洗礼は人間の作り上げたものである。」という彼の考えに飲み込まれるのではないかと恐れて去っていきました。ダンスター学長は幼児洗礼に反対する説教を続けました。そして1654年2月2日・3日に、特別ボストン地区牧師会が開かれ、ダンスター学長が呼び出されました。そこで彼は自分の立場をみごとに弁証しました。けれども牧師たちは誰も感銘することはなかったのです。「ハーバード大学の歴史」には次のように書かれています。「ケンブリッジ教会の幼児洗礼の礼典をかき乱したことを大陪審員たちによって非難され、訓戒の刑に処せられ,良い振る舞いを保証するように言い渡された。ダンスターの苦難は、1654年10月に、学長の地位から強制的に追われることによって最高潮に達した。」(注2)
 ダンスター学長は、住まいをそのように急に変えることは難しいので、しばらくの猶予が必要であると法廷に訴えました。結局、法廷はそれを認め翌年の春までとどまることが赦されました。
 彼の堅い確信のゆえに、ダンスターはケンブリッジを去りました。初期バプテストが受けたこのような迫害を私たちは想像できるでしょうか。私たちは生活の中で、彼のように自分の確信しているところを主張できるでしょうか。神が私たちを、ご都合主義者ではなく確信に満ちた者としてくださいますように! ヘンリ=ダンスターは1659年2月27日、マサチューセッツのシチュウエートで死に、すべての疲れがいやされる天で目覚めたのでした。

注1、Albert Henry Newman, A History of the Baptist Churches in the United States (Philadelphia: American Baptist Publication Society, 1915), p.138
注2、 Josiah Quincy, The History of Harvard University (Cambridge: John Owen, 1840), 1:18

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