2月24日 "コンゴの開拓者、探検家"
みことば 出エジプト14:14−15
ジョージ・グレンフェルは"偉大な宣教師であり、偉大な探検家"として歴史に名を残しています。彼はペンザンス(英国)の奥に広がるサンクリードで生まれました。(注1)
1852年にグレンフェル一家は英国のバーミンガムへ引っ越しました。しかしジョージは、機会があるごとにサンクリートに戻りました。都会の生活より田舎の生活のほうを楽しんだからです。グレンフェルの家庭は英国国教会の関係で宗教的な環境の中にありました。しかし、ジョージはヘニアジ・ストリート・バプテスト教会の日曜学校に魅力を覚え、すぐに若いグループの人々と共にクリスチャンの集会に没頭しました。とようどこの時期、彼はリビングストンの旅行記を読み、アフリカのためにその生涯を捧げるようになったのです。
グレンフェルはブリストル・バプテスト・カレッジに1873年に入学しましたが、訓練期間を終了する前に、(彼が尊敬していた宣教師の一人である)アルフレッド・サッカーが、最後であろうと思われる休暇で英国にいることを知りました。グレンフェルはアフリカの宣教師の働きについて、サッカーに手紙を書きました。サッカーは直ちにその手紙に返事を書きました。このようにして、グレンフェルはサッカーがカメルーンに戻るときに同行する決心をしたのです。そして彼は25歳を過ぎたばかりで、アフリカで彼のライフワークを始めたのでした。
アルフレッド・サッカーは奉仕を続ける困難に耐えられない状態が目に見えて明らかになりました。サッカーが英国に戻ったときグレンフェルは付き添いました。1876年2月11日に、グレンフェルは彼の婚約者と結婚し、翌年1876年2月24日に二人は、後にグレンフェルが"言語の開拓者、探検家"として知られるようになるアフリカに向けて出航しました。(注2)1年も経たないうちに彼の花嫁は赤痢に倒れ、彼は男やもめとなりました。時が過ぎゆくうちにグレンフェルは再婚しました。彼の妻ローズ・グレンフェルは彼と共にほとんどの冒険旅行について行きました。
1877年8月に、デイヴィッド・リビングストンを捜すために派遣されたヘンリー・M・スタンリーが、コンゴ川の河口に到達しました。彼の功績に世界は驚きました。と言うのは、スタンリーは発見した物を世界に伝えるために東海岸からアフリカに入り、約3年後に西海岸に到達したからです。コンゴ川はカメルーンの伝道地から600マイル南に当たります。しかし、グレンフェルは直ちに、この巨大な水路を使ってキリストの十字架のメッセージの種を蒔くことに引き寄せられました。神は福音をたづさえてアフリカの奥地を通るために使う船を手に入れるように英国のクリスチャン後援者の心に働きかけられました。グレンフェルは彼の生涯で、数えられないほどの犠牲と困難の伴う献身が広大な大陸を福音のために備えるという結果をもたらした。彼は自分の子供たちをアフリカの地に埋葬し、次々に起こる宣教師仲間の死を悲しみました。しかし彼は、"ONWARD! FORWORD!"(前進!前進!)と神様の指が指し示している、と記しています。彼の生涯で最も大きな痛みのもとは母教会の宣教師を送ることへの無関心でした。彼の伝道機関が撤退を考えたとき、「前進か後退か、もし後退なら私を含まないでいただきたい。私はその仲間にはなりません。私なしでそうしてください。」と、手紙を書いています。グレンフェルは1906年に死にましたが、私たちのメッセージをこれほど必要としている世界に直面していながら、今日の宣教結果の貧弱さを、彼はどのように考えるでしょうか?
-
注1 George Hawker, The Life of George Grenfell (London; Religious Tract Society, 1909), p.1.
注2 Walter Sinclair Stewart, Later Baptist Missionaries and Pioneers (Philadelphia; Judson Press,1928), p. 150
|