バプテストの歴史 2004年2月22日

 

2月22日 高貴な愛を持った令嬢
       みことば 第2ヨハネ

 卿夫人デボラ=ムーデイは、英国ウイルトシャーにあるガースデンのヘンリー卿の未亡人でした。けれども、故郷での宗教的迫害のためにアメリカ植民地に逃れました。現代の世代にとってアメリカの初期のバプテストが反対に苦しみ、不公平を耐え、広く広がった迫害を経験したという現実を理解するのは難しいことです。一部のピューリタンは、これこそ自分聖書的であると考えた方法で神を自由に礼拝するために新大陸に渡ってきたにもかかわらず、この大陸で他の人々が正しいと考えた方法で神を礼拝することを許さなかったのです。
 ムーデイ卿夫人はマサチューセッツのリンで、治安判事のひとりであったヘンリー=ハンフリーの地所を買い、そこに住みました。彼女はここにずっと住む意志を持っていました。ところが、そこに住むようになるとすぐ、彼女はバプテストの信仰を奉じるようになりました。1642年12月、ムーデイ卿夫人、スワンプスコットのキング夫人そしてジョン=テイルトンの妻は、彼女たちが「幼児洗礼は神の定められた礼典ではない」という主張を持っていたために、クオーターリー裁判所で審議にかけられました。おそらくムーデイはその社会的地位のために、マサチューセッツから追放されることはなかったのでしょう。けれども、彼女は不快感を覚え、外国人の中に避難することを決心します。そういうわけで、1643年、彼女はニューアムステルダム(ニューヨーク)に移り住みました。住まいをロングアイランドに決め、公有地譲渡証書を取得しました。公有地譲渡証書というのは、他の行く地下の点とともに、「人々の上に権力を持つと主張するいかなる治安判事や行政官、あるいは牧師によっても、いかなる妨害や邪魔がはいることのない良心の自由」を保証していました。
 ジョン=ウインスロップ総督は、彼女が「友人たちみんなの助言に逆らって去った。他にも多くの人々が再浸礼に影響されて向こうに移った。」と述べています。彼女は後に、セイラム教会から「除名され」ました。1644年2月22日の日付で、ジョン=エンデイコットがセイラムからウインスロップ総督に書き送った手紙によると、彼女は帰りたがっているが、「国教会に対する反対することが罪であることを認め、その背後にある考え方を捨てない限り、私はそのことに反対しています。と言うのは、また彼女は非常に危険な人物だからです。私の兄弟ルドウは、彼女は、イートン夫人に一冊の本を送ることによって、自分の受けたバプテスマにさえ疑問を抱いていることをほのめかしています。彼女があの間違った考え方を悔い改めるかどうかは非常に疑わしいものです。ずいぶん深く没頭しているからです。」と、ノリス氏が自分に知らせたということです。
 マサチューセッツからの途中、ムーデイ卿夫人はしばらくニューハヴェンに滞在しました。そしてそこで何人かの人々を信者のみのバプテスマの教理へと導き、もう一度宗教的反論を明らかにしました。ニューハヴェン植民地の初代総督の妻であったイートン夫人もその中の一人でした。そして彼女もまた、ニューハヴェンの組合教会の手によって苦しめられました。彼女は「割礼の代わりのバプテスマ、幼児に施されるバプテスマ」を堅く拒否したということが、記録に残されています。
 ロングアイランドがインデイアンの侵略を受けたとき、40人のオランダ人がオランダ人の名誉にかけて、自分たちの命の危険の中で、ムーデイ卿夫人の家を守りました。ムーデイ卿夫人は1659年ころロングアイランドで亡くなったと言われています。
 アメリカが今日のように自由になったことを、またバプテストがその始まりから信教の自由を勝ち取るための要因として用いられたことを神に感謝しようではありませんか。

注1, Thomas Armitage, The History of the Baptists (1890; reprint ed,. Watertown, Wis. Maranatha Baptist Press, 1976), 2:747


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