2月20日 200人の牧師がその葬式に参列した!
みことば イザヤ38:17
アンドリュー・ギフォードは1700年8月にイギリス、ブリストのクリスチャンホームに生まれました。彼の父、エマニュエル・ギフォードは国教会に異議を訴えたためにひどい迫害を受け、祖父は聖書を信じていたために4回も投獄されたことがありました。こう言うわけで、アンドリュー・ギフォードが幼い時期にイェス・キリストを信じ、15歳でバプテスマを受けていたことは驚きではありません。
訓練を受けた彼は、1729年2月5日にロンドンのリトル・ワイルド・ストリート教会の牧師になる前は、ノッチンハムとブリストルの両方で副牧師として奉仕をしていました。リトル・ワイルド・ストリートで難しい問題が生じ、1736年にギフォードとメンバーの大多数が教会を離れ、レッドライオン・スクエアのイーグルストリートに新しい教会を建てました。新しい教会は1737年2月20日に完成しました。そしてほぼ半世紀の間、ギフォード牧師は、その神の群れのために仕えました。増え続ける会衆を収容するために、その建物は二度拡張されなければなりませんでした。
ギフォードは古代の写本と硬貨の知識の豊かさにおいて早くから認められていました。彼の珍しい硬貨のコレクションはグレートブリテンでは最も価値のあるものだったようです。当時、ジョージU王は自分のものにするためにそれを買いとったくらいです。
1754年、ギフォードはアベルデン の マリシャル大学から神学博士の称号を受け、1757年に、第兵博物館の副図書館員に指名されました。しかし、彼は何よりもまず牧師であったので、博物館での仕事が牧師の仕事を妨げることを許しませんでした。ギフォード博士はジョージ・ホイットフィールドの親友だったので、あらゆる行事でホイットフィールドのために説教しました。
彼が召される少し前の1784年6月6日、ギフォード牧師は人々にこう伝えました。「この苦しみを受ける前に、私は心からあなた方とともにこの過越を受けたい。」 そして主の晩餐を終えると、彼は力を込めて言いました。「主よ、あなたは私のたましいを愛し、私のすべての罪をあなたの後ろに置いてくださいました。」 その次の夕方、彼は愛してやまなかったチャペルでヘブル書13章1節「兄弟愛をいつも持っていなさい。」からみことばを取り次ぎました。彼は元気な声で終わりのことばをかたりましたが、最後にもう一度このチャペルを振り返り、「さようなら」を強調して繰り返したのでした。
彼が召される3日前、「私はひどい苦痛のなかにある。しかし、神に感謝したい。なぜなら、これは地獄ではないのだ! ああ、主イエス・キリストの故に神に感謝します。」と言いました。死が近づいていたとき、彼はささやきました。「あぁ、神様がいなっかたら、私は今、何をしているだろう! イェス様に関心がなかったら、何をしているだろう!」と。(注1)
彼は1784年6月19日 土曜日の朝に召され、7月2日金曜日の午前6時にバンヒルに埋葬されました。彼は救い主の復活に対する信仰を再断言するために、早朝の葬式を望んでいたのです。葬式の説教は、200人の牧師と、神様とともに歩み彼の時代の多くの人々に貢献したギフォードに敬意を払うために参列した多くの群衆の臨席する中で、ジョン・ライランドによってなされました。ギフォード博士は遺言によって、彼の書物と写本とをブリストル・バプテスト大学に譲りました。
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注1, Alfred W. Light, Bunhill Fields (London: C.J.Farncombe and Sons. 1915), pp.65-66
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