2月15日 あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り・・・」
みことば 黙示録3:7−12
1600年代の中ごろ、マサチューセッツ湾植民地で大きな騒ぎが起こりました。移住民たちは、幼児洗礼を受けていても成人して信仰を表明していない親に生まれた子供たちの問題に直面していました。その論争の結果として、「一部契約」という妥協が生まれました。
その「一部契約」によると、もしも彼らの両親が教会の教理に賛同し、規則に従うなら、彼らの子供たちは、その両親と同じような「教会員」として認められました。このような教会員はバプテスマを受ける権利はありましたが、主の晩餐にあずかることも決議に参加することもできませんでした。1677年までに、多くの牧師たちは一部契約の会員たちにたいする完全な教会員の権利を与えることを支持していました。このことにより、教会は不信者の会員であふれ、力のない説教が行われるようになりました。そして人々が「神の国」入るために人間の働きに依存するという考えを広めることになってしまったのでした。(注1)
ロックスブリィ出身の敬虔な人ジョン・エリオットは、1646年、現住民にキリストを教えはじめました。そして、その働きを支えるためにひとつの協会が組織されたのです。エリオットは彼らの言語を習得し、聖書を翻訳しました。また、ほかの幾人かとともに、原住民の間に12の祈りのグループも立ち上げました。これらの祈りのグループは、流血の王といわれたフィリップ王の戦争で散らされてしまいました。迫害にもかかわらず、バプテスト、その戦争の間原住民とともに彼らの居住地を守るために勇敢に戦いました。ほとんどがバプテストによって組織されていた戦いのグループは、ウイリアム・ターナーによって導かれ、彼らはコンバットとは区別されていました。(注2)
バプテストは国教会の牧師たちを脅かすほど増えていました。国教会は、1672年に再発行されたバプテストを追放するための法律を持っていました。そしてしばしば、バプテストの違反者に罰金を科し、拘束しました。それらの国教会の牧師の一人、ウイリアム・ヒュバードは、その説教の中で、「疑う余地のない権限の一つがその領地の中でどの宗教が公に認められ崇拝されるかを決定することであるということは、学識のある賢明な筆者たちによって明確にされている。」と言いました。 彼はまた、幼児洗礼なしで、キリスト教を国の宗教として固定化することは道義的に不可能であるとも述べています。つまり、必然的に幼児洗礼を無視するかあるいは廃止することが直接的に国教の一掃につながるものであると彼は宣言したのです。
ボストンとその近隣で、さらに多くの人々がこの国教システムの中から出て、バプテストに加わり始めました。1678年2月、バプテストは彼らの集会所をボストンに建てることに決めました。彼らはすみやかにかつ慎重にこの計画を実行に移しました。彼らの敵の注目を浴びたくはなかったからです。一般大衆は。1679年2月15日、バプテストがそこに入るまで、それが何のための建物であるのかを知りませんでした。ジョン・ラッセルが彼らの牧師となりました。
今日政府は、ちょうどジョン・ラッセルによって牧会されていた小さな教会の将来を決めたのと同じ法的な道具としての法律、すなわち当局者が処分の自由を持つことができるような免許制と分類性を確立するための法律を制定しようとしています。神が私たちを助けてくださり、このような、私たちの後生から信仰の自由という相続を取り去るような法律の制定に対して強く反対することができますように!
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注1, James Donovan Mosteller, A History of the Kiokee Baptist Church in Geogia (Ann Arbor: Edwards Brothers, 1952), p.3
注2, Isaac Backus, Your Baptist Heritage, 1620-1804, (1844; reprint ed.; Little Rock: Challenge Press, 1976) pp. 87-88
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