2月12日 ボヘミア人ジャドソン
みことば 使徒 20:20〜24
レセトブ・チェコスロバキヤは宗教改革の時に宗教改革運動の主要な中核地でありました。多くの秘密のプロテスタントの集会がその付近でもたれていたことが知られています。17世紀の中頃、ローマカトリック教会は強い力を持っていましたが、その教えに反対する人たちも残っていたのです。そして、多くの秘密集会が持ち続けられていました。そのような状態の中で、ヘンリー・ノボトニーが1846年7月12日に生まれます。ヘンリーの母は彼がまだ7歳の時に亡くなりました。しかし彼の父は家族の世話をよくしました。ヘンリーはまだ若いうちにプロテスタントの秘密の集会を訪れました。そして感銘を受けて、定期的に出席したいと願うようになりました。彼は禁制の聖書とほかの文献を喜んで読み始めました。そのうちに、その小さなグループの1人が死にました。カトリックの神父に葬式を司式してほしくない彼らはヘンリーに司式するように頼みました。まだカトリックに所属していたヘンリーは、行うべきかどうかと迷いましたが、最終的に承諾しました。そして、その葬式での彼のメッセージが、その小さな群れを掻きたてたのでした。そのとき以来ヘンリーはそのグループの説教者となります。やがて若いボトニーは大切な決断に迫られました。ローマ・カトリックに属しながらプロテスタントの説教者でいることはふさわしくないからです。しかしカトリック教会は彼が去るのを公に認めることはありませんでした。疑いと迫害を引き起こしました。ついに彼はその小さな群れに打ち明けました。"私は神の助けによってローマ教会を去りプロテスタントになります。"と。会衆は彼の勇気に動かされました。ヘンリーの説教の賜物は神が彼を伝道のために召しておられると言う確信を彼に与えました。1870年11月彼は神学校に入学するためにスイスに行きました。スコットランドのエジンバラの奨学金を受けて学びを終了しました。彼はプラハの組合教会の宣教師になりました。
ペルギーにいる間にノボトニーはババリア州(ドイツの南部の州)のバプテストのアウグスト・ミイレイスに出会います。二人は友達になり、みことばを学び、文献の交換をしました。そしてノボトニーは信じる者ののみの浸礼を受け入れる立場をとるに至ったのでした。彼は1885年2月12日に、ロシアのポーランドのロッブでバプテスマを受けました。その後すぐに彼はジェラドウで宣教師に任命されました。彼は残りの生涯をボヘミアで主に仕えて過ごしました。彼は改宗者を、宣教師や留守中に彼の働きの代わりをするように訓練しました。バプテストは嫌われ、軽蔑され、迫害され、投獄されていました。そして教会の土地を所有することさえ許されてはいなかったのです。ノボトニーは挑戦に立ち向かって、知恵を持って障害を乗り越え、彼らの影響を広げるように人々を導きました。"ヘンリー・ノボトニーは良き神学者、牧師、説教者というだけではなく、神の祝福により3人の息子と3人の娘の良き父親でもありました。すべての子供たちは何らかの伝道活動に従事しています。"私たちはこの日をヘンリー・ノボトニーの記念日として尊重します。"ボヘミアのジャドソン"、彼のバプテスマにおける主への忠誠を覚えましょう。
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