2月11日 アメリカ原住民のための生きた供え物
みことば 第Uコリント 12:14〜15
イサク・マッコイ師の墓石には次のようなことばが刻まれています。「退職するまでの30年間、彼の時間と活力はこの国の原住民と彼らの宗教的改良のために捧げられました。彼は、彼らの唯一の希望である寄留地のプランを計画し設立しました。この寄留地こそ、まさに彼の知恵とその親切さの朽ちることのない記念碑でありました。」(注1)
イサク・マッコイは「アメリカ西部原住民の使徒」と呼ばれています。(注2) 彼の質素で献身的な生活はインディアンの関心を引きました。
イサク・マッコイはペンシルベニアで1784年に生まれ、6年後に家族でケンタッキー
に移転しました。そして、そこで彼はキリスト・イエスを救い主として信じました。バプテ
スマを受け、バック・クリーク・バプテスト教会に加わったのです。1803年に結婚する
と、次の年に妻とともにイディアナに引っ越しました。彼はすぐにリーダーシップを発揮し
て説教する許可を得ました。彼はマリア・クリーク・バプテスト教会で按手を受け牧師とし
て仕えました。教会は牧師とともに成長していきました。「彼は片手には聖書もう一方の手
にライフルを持ってどこへでも説教に出かけました。『主は彼と共に働いておられた。』」
(注3)
1817年にマッコイはインディアナ州とイリノイ州のインディアンのための宣教師として任命され、彼の生涯の仕事がは始まりました。彼は今で言うニルス・ミシガンの西部だけの伝道団を設立し、偉大なかの宣教師の名にちなんで'カーレー'と名付けました。マッコイは馬の背にまたがって何百マイルもの荒野を走り、増水した川を泳ぎ、夜は湿った土の上で寝てインディアンに救い主を伝えていったのです。やがて大きな悲しみが彼をおそいます。彼が説教に出かけている間に、彼の家族に病と死が訪れたのです。また彼が留守をしていた別のときには、6人の子供のうち5人までが死んでしまいました。しかし彼は神の召命にひたすら打ち込んだのでした。犠牲なしには、主の召しは偉大すぎるのです。マッコイは福音を語るためだけに馬に乗ったのではありませんワシントンD.Cにも何度も足を運びました。インディアンの必要を議会に訴えるためです。1826年に彼はカーレー・ミッションの指導者を辞め、インディアンの地を測量し選別するためにさらに西へ行った。1833年には、気温が零下20度〜30度に下がる冬の困難と戦いながら、またインディアンの略奪に悩まされた旅から戻ると、マッコイはワシントンへ行くようにとの呼び出しを受けました。1834年2月11日の木曜日に、首都へ向かって出発しました。戦争の長官はインディアン協会についてのプランが提出されたことを大いに喜びました。
イサク・マッコイは多くの労作と多くの困難の中で、真の神を礼拝のためにインディアンに用いられる賛美歌を作曲しました。彼は印刷機を手に入れ、1835年3月1日にシューニー語(北部インディアン)で、最初のインディアンのことばの新聞が出版しました。旅行中、彼はシカゴかその近くで最初の英語の説教をしました。1842年、彼はトリニアル・バプテスト・コンベンションのアメリカン・インディアン協会の長官に任命されました。63歳の時、宣教から帰ったイサク・マッコイは雨嵐に遭い病気になり、数日後、1846年6月21日に主イエス・キリストと住むために彼の永遠のホームへ行ったのでした。
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注1 Walter Sinclair Stewart, Early Baptist Missionaries and Pioneers(Philadelphia:Judson Press, 1925), p.228
注2 William Cathcart, The Baptist Encyclopedia, ed. Louis H. Everts(Philadelphia: Louis H. Everts, 1881), 2:767.
注3 William T. Stott, Indiana Baptist History(n.p., 1908) p.53
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