2月2日 ひとりのアメリカ愛国者
みことば へブル12:1−2
サムエル・フランシス・スミスは1808年10月21日に、マサチューセッツ州のボストンに生まれ、やがて優秀な学生となりました。彼はボストン・ラテン語学校で準備をしたあと、1829年にハーバードを卒業するとすぐに、アンドーバー神学院に入学しました。23歳のバプテスト神学生として、彼が愛国的賛美歌「アメリカ」をしたためたのは1832年2月2日のことだったのです。彼は机にむかってドイツの讃美歌を翻訳している時、一つの曲が目にとまりました。(注1)彼はそれを翻訳しながら、そのすばらしい愛国的な賛美歌に感動を覚えます。そこで彼は、自分自身の大いなる国について考え始めました。そして、"我らに、/自由の創造者よ。/あなたにむかって我らは歌う。/我らの国がいつまでも輝きつづけますように。/自由の聖なる光によって。/我らを守りたまえ。/大いなる神、我らの王よ。/"と書き始めたのです。やがてアメリカの愛国者の愛唱歌となるこの賛美歌の4節を書き終えるころには、外はすっかり暗くなっていました。
神学院を卒業すると、バプテスト・マガジンの編集長となりました。また、彼は牧会においても成功していましたが、同時に海外宣教の働きにおけるバプテストの新しい関心の引き起こした偉大な唱導者となりました。そして、当時のすばらしい宣教賛美歌「朝日は昇る」を書いたのです。7年間、彼はクリスチャン・レヴューの編集長として仕えたあと、ミッショナリー・ユニオンの編集長兼翻訳者として、15年間働き続けたのでした。絶え間なく動きつづけるスミスのペンは、世界の宣教地における必要について人々の心を奮起させました。そして、彼自身がビルマ、インド、セイロン、フランス、ドイツ、デンマーク、スエーデン、オーストリア、トルコ、ギリシャ、イタリア、スペインを訪問し、宣教師達に仕えたのです。サムエル・スミスにとっては、宣教は単に興味のある課題であるだけではなく、心に焼き付けられた使命でもあったわけです。彼の息子、D・A・W・スミスは、1863年にビルマで主に仕えるために出かけていきました。サムエル・スミス博士は、アメリカ・バプテスト史の中で非常に有名であったヒゼキヤ・スミス博士の孫娘と結婚しました。ですから、彼の息子もそのようなすばらしい伝統を引き継いで主に仕えるだろうと誰もが予測したに違いありません。しかし、ビルマに出て行きたいという彼の意志は、彼の父親、サムエル・スミスの世界宣教のヴィジョンの象徴であったといえるでしょう。
今日、サムエル・フランシス・スミスに思いをはせる時、アンドーヴァーのキャンパスが思い出されます。そして、質素な造りの部屋の中で、その心が自分の国への愛で満たされ机に向かっている一人の若い学生が目に浮かぶようではあいませんか。その国はまだ若く、多くの人々が自由を守るための戦いに参戦する必要がありました。この若い神学者は、自分たちの自由が、「自由の創始者」であられる神から出てきたものであることをよく知っていたのでした。私たちの国の建国100年祭の時、「S・F・スミス牧師の書きあげた"我が祖国"は、いかなる批評にも揺り動かされることのない人気を得ているのだ。」と言われました。(注2) アメリカの初期バプテスト指導者のこの愛国心のために心から神に感謝しましょう。今日、祖国への愛がもう一度私たちの心に甦りますように。
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注1、William D. Blake, An Almanac of the Christian Church(Minneapolis: Bethany Hous Pub.1987)p.41
注2、Lemuel Moss, ed., The Baptists and National Centenary(Philadelphia: American Baptist Publication Society 1876),p.283
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