バプテストの歴史
2004年1月15日

 

1月15日 奴隷制度という国家的犯罪
       みことば ローマ2:1−4

 奴隷制度は1619年、ヴァージニアに取り入れられました。そして最初は南部植民地によって抵抗されていたのですが、やがてこの奴隷制度の悲劇は私たちの国が直面したもっとも大きな国を分けるような闘争となっていったのです。バプテストの指導者たちもこの問題について激しく分かれました。けれども、英国バプテスト・ユニオンの兄弟たちは、アメリカ合衆国のバプテスト教会の教職者や説教者に1838年1月15日、奴隷の全面解放をもたらすために彼らの影響力を用いるように懇願する手紙を書き送りました。

 議長のJ・H・ヒントンはその手紙で次のように書いています。「私たちは合衆国に奴隷制度があるということを知っていたばかりか、それに合意していました。奴隷制度が英国の影響、権威下、また模範によるものであったことをみとめ、恥ずかしく思います。しかし、最近まで、無関心と黙認、弁解によって、あるいは実際的な参与によってかかわっていながら、あなたがたの大陸で多くのクリスチャンと自称している人々の間にこれほど広がっているという概念を、私たちは持ってはいなかったのです。」(注1)

 本書の中で、私たちはあまり知られていない恐るべき奴隷制度の事実をいくつか扱うことになります。ここではイサ−ク・バッカスについて触れておきましょう。バプテストの牧師、歴史家として有名ですが、彼は、ニュー・イングランドの議事規定のメンバーとしても活躍していました。その議事規定の中で、組合教会派の諸教会は公式な州教会としての特権的立場が与えられていたのです。そのころは、「奴隷や召使として奉公に出されたインデアン少女を所有している家族」(注2)がありました。このように、18世紀の前半には、コネチカット州にも奴隷がいたことを知っています。そして、有名なイサーク・バッカスの「日記」には、マサチューセッツ州ミドルボローにあったバッカスの教会の会員の1人が所有していた奴隷の死についての記録が残っています。(注3)

 奴隷制度は南部ばかりではなく北部の州にもあったことは明らかです。けれども、南部の州に奴隷が移されていくのには二つの理由がありました。北部の寒い冬の気候にアフリカから連れてこられた彼らが順応するのは難しいことであったということです。ですから、奴隷制度は利益の上がらないものになってしまいました。けれどももっとも大きな原因が綿繰り機の発明であったことは疑いの余地がありません。1793年に発明された、この綿繰り機が、「今日有用に利用されている奴隷制度慣行の復活に寄与したのです。」「南部は最初は奴隷制度を拒否していました。その後この制度に対して反対し、1793年以降これを採用するように変わっていったのです。」(注4)

 誤解してはなりません。奴隷制度は犯罪でした。けれどもこの犯罪は、決してただ一部の地域の犯罪ではなく国家的な犯罪だったのです。福音がもたらす自由のゆえに神に感謝しようではありませんか。

注1:[The Baptist Quarterly] The Baptist historical Society (London*Baptist Union Publication Department, 1924-25)


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