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1月10日 アフリカ人のためにいのちを捨てた黒人医師
みことば ローマ書9:1−3
ルイズ("ルル")セレスチア・フレイミングは、幼いころ、彼女の祖父がアフリカで捕らえられフロリダで奴隷生活を送っていたことを聞かされていました。彼女は10代で主イエス・キリストを信じる信仰による救いに導かれ、1877年1月にバプテスマを受けました。子供のころからフレイミングは「自分の民」のもとに帰ることをずっと夢みていましたが、やがてそれを現実のこととして捉えるようになっていきました。彼女はノースカロライナのショウ大学で教育を受けました。ニューヨーク、ブルックリンの第6アヴェニュー教会のケルセイ博士の励ましと、"ヤングレデイズ・ホーム・ミッション協会"の経済的援助によって、フレミングはエステイセミナー・コースに入り、1885年に主席で卒業しました。
ときにコンゴでは、リヴァイヴァルが起こり、新しい改心者を訓練するために独身の女性たちが求められていました。フレミングはその招きに答えて、1886年1月10日に、西部女性アメリカ・バプテスト国外宣教協会によって宣教師として任命されます。そして、1887年3月にコンゴに向かって出航し、4月には現地に到着しました。彼女はパラバラで学校の女子生徒と教師達の寄宿舎の舎監として仕えました。フレミングは、1891年1月10日の日付の手紙で、「パラバラでの働きはこの1年間、その非常な困難さとすばらしい祝福で知られています。実に多くの人々が導かれ、彼らの幾人かは罪と暗闇から光へと入れられたのです。」
やがてフレミングの健康は衰え、1891年には本国に帰らなければなりませんでした。しかし彼女は回復すると、アフリカに戻る前に医学を学びたいと願うようになりました。そしてペンシルヴェニアにある女子医学大学に入学し、1895年に卒業しました。その後フィラデルフィア・めぐみバプテスト教会のメンバーとなり、教会によって完全に支援され、1895年にはコンゴに戻りました。医療宣教師として、フレミング博士は、文字通り自分自身を「自分の民」のためにささげました。そして恐ろしいアフリカ睡眠病にかかり、そのために命を落とすことになります。
フレミング博士は1899年6月14日、フィラデルフィアに葬られました。そして彼女の死後、次のような論説がだされました。「フレミング博士は強い性格の持ち主でした。そして宣教師生活の中で直面する幾多の障害をも克服し、自分自身をコンゴの人々と区別することなく近づき、彼らとともに泣き悲しみ、コンゴの人々をキリストに勝ち取るために用いられる有望な人材でした。」
フレミングの精神が私たちの時代にも広がることをどれほど願うことでしょうか。なぜなら、民族の不平等に対する本当の答えは、私たちの主イエス・キリストの福音にこそあるからです。DLC
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