バプテストの歴史
2004年1月3日

 

1月3日 神がデラウエア人に御手を伸べられたとき
      みことば イザヤ55

 「チャールズ・ジャーニーケイク牧師 1817年12月16日誕生。1894年1月3日召される。親切で愛に満ちた父親、また困窮している者のよき友。彼は純粋で正直な人として、主のために長い間の忠実な奉仕を続け、デラウエアの人々の中心的な助言者として生きた後、天に召される。」 これは、ライトニング・クリークにある古い墓地に建てられている今日の主人公の埋葬地点を示す白い大理石のモニュメントに刻まれている碑文の一部です。

 チャールズ・ジャーニーケイクは、純粋な混じりけのないデラウエア原住民の父と、英語以外に何種類かのインデイアンの方言を話すカウカス人の母、サリー・ジャーニーケイクから生まれました。彼女はその能力のゆえに専門の通訳者となりました。メソジスト・ミッションがデラウエア族の保留区に隣接したワイアンドット族の保留区で働きを開始すると、サリーはその通訳者となりました。そのころ、その地域にはクリスチャンのデラウエア人はひとりもいなかったのです。

 その後、1827年、ジャーニーケイク夫人が重い病にかかり、彼女の主人は助けを求めに出かけていきました。彼が出かけている間にもジャーニーケイク夫人は瀕死の状態が続いていましたが、まもなく昏睡状態から立ち直って神をほめたたえ始めました。そして、かつて通訳をしながら聞いた神のみ言葉が聖霊の力によって指し示され彼女は救われたのでした。その後すぐに、彼女は主のために生きる者と変えられました。そして、若いチャールズが育てられたのはちょうどそのころだったのです。彼の母親の証は彼の若い生活に大きな影響を与えました。そして、ついに1833年に彼は救われ、デラウエア・インデアンの中で最初のバプテスマ受領者となったのでした。その後すぐに彼の両親がバプテスマを受け、デラウエア族の間のバプテスト教会の核が形成されたのでした。

 それから数年後、ジャーニーケイクは、シャウニー、ワイアンドット、セネカ、オッタワの各方言とともに、彼自身の言語で説教をするようになりました。同族の人々の間で、彼の信望はますます大きなものとなり、最終的にジャーニーケイクは彼の部族の重要な族長に選ばれ、自分の民のためのアメリカ合衆国政府との影響力の強い交渉者となりました。生涯の間にデラウエアの代表として彼は24回もワシントンDCに赴いています。

 まぎれもなくジャーニーケイクは「顕著なネイテイヴ・アメリカ人のバプテストの働き人」でしたが、55歳で同族の人々の求めに応じるまで按手を受けることなく、デラウエア・バプテスト教会の牧師として主に仕えていました。やがて百名以上の会員を収容するために新しい会堂建設工事が始まり、1872年9月22日、新会堂が献堂されました。その翌日、彼は按手を受けたのです。ジャーニーケイクはなおも説教を続け、1871年から1880年までにいろいろな原住民部族の中で266人にバプテスマを授けました。1893年の彼の妻の死に続いて、彼の健康は急激に衰え、一年も経たないうちに彼は主とともに永遠に過ごすため、彼の天のホームへと召されていったのでした。


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