C・H・スポルジョン

 1834−1892

                         

 

「産業革命たけなわのロンドン。百万の人口を抱えるこの大商工業都市で、全教会合わせての座席数はたったの一万五千!しかも、日曜日にそれらが満席となることはなかった。教会が時代の変化に対応できず、人々の教会離れを助長した一例。福音的リバイバルは座席数の急増を促した。一八六一年建設のメトロポリタン・タバナクルはその好例。毎聖日、六千の座席を埋める聴衆がスポルジョンの説教に耳を傾けた。語られたメッセージは、変わりばえのしない十字架と新生の福音であった。」

キリスト教2000年(いのちのことば社)

 

              

               若き日のスポルジョン

現在、スポルジョンについては書籍等においても数多く紹介されています。そのほとんどが、多くの会衆を集め多くの慈善事業をしたということに重きを置いているのはある意味残念なことです。彼について誠実に紹介すべきことは彼の神学でありましょう。1.彼は徹底的なピューリタニズムであったこと。2.強固なカルビン主義バプテストであったこと。3.アルミニウス主義や自由主義神学と剣を交えたことです。神さまがスポルジョンをお用いになられたのは彼のこの確信の上に大胆さと勢いをもって福音を語ったからにほかなりません。かれは事前事業や人集めの上に基礎をおいたのではなく、神さまのご主権の上に全ての基礎をおいたのです。ロンドンに住むアメリカ人クリスチャンが朝にはパーカー博士の説教を、晩にはスポルジョン氏の説教を聞きに行きました。彼の朝の批評は「堂々たる説教、驚くべき講壇の雄弁」と言い、晩の批評は「おお!イエスの何と驚くべき救い主であることよ」と言ったそうです。次に彼の神学的立場を表明した一節を紹介します「我々の事を、人々は、危険な過激派(つまりハイパーカルヴィニストとして)だと非難し、やじり倒そうとする。我々の言葉に耳を傾ける教職者もいなければ、我々に好意的な発言をする教職者も殆どいない。なぜなら、我らは強固な、絶対恩寵の教理を持っているからである。すなわち、我らは、至高の神の絶対主権と御自身の絶対恩寵により、神が御自身の民を選び給うこと、そして、神は御自身の民を特別な愛をもって愛し給うことを、かたく信じているからである。」

 

         

              タバナクルでの説教

つぎに彼の少年時代を、大正六年に出版された「スポルジョンの生涯」という本をもとに紹介します。「スポルジョンは田舎に生まれぬ。彼が生まれしはエセックス・ケルブドンの孤村なりき。ケルブドンの寒村は、倫敦(ロンドン)を去ること餘り遠からざる所にあり。只見る山河秀麗にして楽園の如く欝々したる蒼林は、千古の苔を帯びて、翡碧滴るが如し。地には千花萬渓、駘蕩たる春天に花を開きて、紅白黄紫、研を競い美を闘はす。ここにケルブドンの小童は花を拾ひ蝶を追い、天地の美音を聞きてその心を慰めにき。」

 

           

                スポルジョンの生家

スポルジョンは生まれてすぐに会衆派の祖父のもとにあずけられました。祖父からはピューリタンの著作を意味が分からなくても読ませられ、祖母からはアイザック・ワッツの賛美歌を一曲覚えるごとにおこずかいをもらうという教育を受けていたようです。のちに彼はこのことを大変感謝していて「わたしが今でも説教の中で自由に賛美歌を引用できるのはこのことのためである」と後述しています。子供時代の愛読書はロビンソン・クルーソーの「漂流記」と、生涯を通して100回は読んだといわれるバニヤンの「天路歴程」です。7歳ごろに父母のところにもどりそこにいたアンおばさんの影響を大きく受けたことが知られています。

      

          父                母

14歳のとき、英国国教会の学校で授業中に司祭の先生と交わしたやりとりで幼児洗礼の間違いと、信仰者のバプテスマという聖書の教えに気づき、罪との葛藤を経て15歳の1月の猛吹雪の朝にプリミティブメソジスト教会の説教を聞いて回心します。バプテスマを受けることの大切さを感じた彼は1850年3月アイルハムのバプテスト教会で全身浸礼を受けます。彼は自身のバプテスマのことをこのように証言しています。「私は教会に加入するために、またバプテストになるために外的儀式を遂行したのではありません、使徒たちのやり方にならってクリスチャンになるために行ったのです。使徒たちは信じてバプテスマを受けたからです。」

 

         

               アイルハムのラーク川

その後若干18歳でウオータービーチバプテスト教会にまねかれ、20歳にしてロンドンのニューパークストリート・バプテスト教会に牧師として招かれることになります。この教会はロンドンでも3本の指に入るくらい歴史のある教会で、過去に3人の偉大な牧師を輩出しています。バプテスト教理問答を編集したベンジャミン・キーチ。次に全7巻の重厚な聖書注解と組織神学体系、実践神学体系などの膨大な神学書を著したカルビン主義の偉大な戦士ジョン・ギル。肖像画のギルの鼻が曲がっているのはアルミニウス主義に反駁しているからだとスポルジョンは冗談で言っていたようです。3番目は音楽の賜物としっかりした神学を有していたジョン・リッポン。1853年スポルジョンはこの由緒ある教会の説教者として神と会衆の前に立つこととなります。

 

             

             キーチ      ギル     リッポン

ここで彼の説教の様子を紹介します。当時有名な俳優であり、劇作家でもあったシェリダン・ノールスはスポルジョンのことを他の俳優たちに「彼は世界におけるもっとも驚嘆すべき説教者である。彼の演説振りは絶対的に完全であり、その演技法もまた熟達している、彼は私からも、またほかのどのような俳優からも学ぶ必要を感じない。実に彼は完全そのものであって、全ての事を知っており、いかなる事もなすことができる。私はかつてドルーソー街の劇場を借りていたことがあったが、もし今もその劇場を借りているのであったならば彼にそれを提供して舞台に立ってもらい一興行をしてみたいと思うくらいである。」

また当時発行していた「イーブニング・スター」誌においてカーライル博士は「スポルジョン氏のように言葉をもって語るよりも、手を以ってさらに多くのことを語ることのできる説教家は未だかつて存在しなかったであろう。彼はそうしたことを本能的に知っている。彼は聖句を読み終えたなら、いつ時までもその場所に眼を留めておき、その手を講壇クッションに付けておくということは決してしない。彼が語りだすと同時に、彼の手は活動を始める、それは舞台の上に立っている者のようではなくて、路上で諸君と語り合っているようである。彼の態度は目の前の全ての人たちと親しい握手を交わし、極めて自由な気分に全ての聴衆をおいているようである。」このことに対してスポルジョンは次のように語っています「私は決して演説家ではありません。ただ私の心から湧き出てくるものを語るにすぎないのです。」

 

            

                 説教の様子

神学において彼はカルビン主義を掌中の珠のごとくに大切にしていました。選びの教理を明確に宣言しない牧師の説教を「まるでロバがトゲの付いたアザミを食べるように語っている」と非難しています。またあるときは説教のなかでウエスレー兄弟の賛美歌をとりあげ、一節一節を説明して後「賛美歌の作者はアルミニウス主義者だが、この歌詞の教理はカルビン主義である」と聴衆を笑いの渦に巻き込んでいます。自由主義神学に対して沈黙していた時代の中にあって、彼は眠りから覚めた戦士のように勇敢に立ち上がり、剣をとってこれを喧伝する悪鬼らと戦いました。

「堕落に堕落を重ね、俗化に俗化を重ねてきた現代の神学が段々俗了されてきて、ホイットフィールド時代のものと比較して天地の差のあるようなものになってきた。これを名づけて新神学と称するが、いずこに新の字をつける値があるのか、神学の神学たるゆえんを没却してまったく俗化してしまったのである。神学には違いないが神を抜きにした一種の“学”になってきて、神の教理ではなくて、人の作った教理を宣伝するようになった。今日において、リバイバルは先ず第一に健全なる教理よりはじめねばならない。」

 

       

 

彼の著作において有名なものは「メトロポリタン・タバナクル講壇」と題する説教集でありましょう。全63巻あり、3561話の説教が収められています。この説教集は彼の死後も残っていた速記をもとに刊行され、第一次世界大戦の物資不足で紙が不足して中止されました。世界大戦がなければさらに刊行されていたものと思われます。次は「ダビデの宝庫」という詩篇の注解書です。この注解書は出版当時は6巻であったものが現在は3巻にまとめてあり、内容においても1500ページ近い大著となっています。スポルジョンはこの詩篇注解を作成するにあたり専門の秘書を雇いイギリス中の図書館本屋を調べ、詩篇に関する珍書、奇説を集めました。その他に注解書についてコメントした著作や蝋燭に関する説教、農業に関する説教や神学校の学生のための講義集などがあります。

 

          

                神学校の図書室

スポルジョンは正規の神学教育は受けませんでしたが、しっかりとした教理の基礎をもっていました。またピューリタンに対する造詣も深く、カメラのような目でピューリタンの著作を読んでおぼえたといわれています。彼の説教や著作のなかで出てくることですが、トーマス・マントンとサムエル・ラザフォードの著作を特に読んでいたようです。また彼は信仰告白や教理問答を大切にして、キーチの作成した「バプテスト教理問答」を教会と教会員につかわせていたことがしられています。「家庭における良い教理問答書の使用は、この時代に増大しつつある誤りに対するたいせつな保護手段である」と述べています。教理的立場では1689年版の第二ロンドン信仰告白の立場を堅持していました。

 

   

ラザフォード         マントン

 

最後にスポルジョンに関する最も有名な聖句で彼の紹介を終わりたいと思います。

 

「地の極なるもろもろの人よ、

なんぢら我をあふぎのぞめ然ばすくはれん 

われは神にして他に神なければなり」

似賽亞書42章25節

 

 

<参考文献> 「スポルジョンの生涯」 平瀬達吉著 日本キリスト教興文協会

       「スポルジョンの生涯」 スクロギイ著 いのちの光社

       「C・H・スポルジョン」 フラートン著 いのちのことば社

       「キリスト教2000年」 丸山忠孝著  いのちのことば社

       「新キリスト教事典」 スポルジョン項  いのちのことば社

       「バプテスト教理問答」 鈴木昌編訳   東京聖書教会

       「神の主権による恩寵の教理」 シートン著 鈴木周訳 聖書真理刊行会