第9章 キリストとニコデモ(まとめ)

ヨハネ3:9−21

 

私たちはこの章で学ぶ記事の分析から始めましょう。

 

1,ニコデモの鈍感さ  9,10

2,ニコデモの不信仰 11,12

3,キリストの偏在性 13

4,キリストの死の不可避性 14,15

5,神の語り尽くせない賜物 16

6,キリストを世に送られた神のご目的 17

7,有罪宣告の基盤 18,19

 

前章において、ニコデモのキリストとの会見について詳細に見てまいりました。そしてその中での主のおことばの意味を理解しようとつとめました。救い主が新生の絶対的必要性をどのように主張されたかを見てきました。すなわち、たとえニコデモがパリサイ人でサンヒドリンのメンバーであろうが、新しく生まれない限り神の国を見ることは出来ない、言い換えれば、神のことがらについて知ることはできないのだと言うことでした。また、主が、「水と御霊によって生まれ」る新生の性格についてどのように説明されたかについても見てきました。すなわち、回心は改善のプロセスや、古い人の改良ではなく、まったく新しい人の創造であるということでした。「肉によって生まれた者は肉」であって、人間のいかなる工夫によっても決してこの創造をなすことは出来ないということでした。もし人が神の国に入りたいのなら、彼は新しく生まれなければなりません。最後に、救い主が、新生における聖霊のお働きを、主権を持ち、かつまったミステリアスな「風」の働きになぞらえられたことを学びました。救い主は率直なおことばをお用いになっておられ、教養ある人がその意味を取り損なうことなどあり得ないものでありました。では次の節に移りましょう。

 

ニコデモは答えて言った。『どうして、そのようなことがありうるのでしょう。』(3:9) これが生まれつきの人間です。なるほどニコデモは教養ある人でした。そればかりではなく道徳的にも優れた人物であったことでしょう。けれども、神のことがらを理解するためには教育や道徳以上の「何か」が必要なのです。神は明白にまた簡単な用語を用いてお語りになってこられました。ところがそれにもかかわらず、生まれつきの人間は、自分の力では神がその聖なるみことばのうちに語っておられることがらを受け入れる能力はないのです。神は受肉して下さり、人間のことばを用いて語って下さいましたが、それでも人は主を理解することは出来ませんでした。このことは、この福音書の中で繰り返し繰り返し述べられています。キリストはご自身のみからだの神殿を建てることをお話になると、彼らは、それをエルサレムにある神殿のことだと思いました。主はサマリヤの女に、「生ける水」についてお語りになると、女はそれをヤコブの井戸の水と取り違えました。主は弟子たちに、「あなたがたの知らない食物」についてお話になっても、弟子たちは物質的な食物のことしか考えることはなかったのです。(4:32) 主はご自身について、「天から下ってきた生けるパン」であるとおっしゃり、またそれが「世のいのちのための、わたしの肉です。」とお語りになったとき、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることが出来るのか。」と言ったのでした。(6:51,52) 主は、「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」と宣言されると、聞いていた者たちは、「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。」(7:33−35)、と言いました。また、主は、「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」と言われたとき、ユダヤ人たちは、「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」と言ったことが記されています。(8:21−22) 主は、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われると、彼らは、「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」と聞くありさまです。(8:31−33) このような例を、この福音書全体から取り上げることが出来るでしょう。人間の教養についての何たる注解でありましょうか! 人間の愚かさと盲目さの何たる証拠でありましょうか!

 

ニコデモとてその例外ではありませんでした。彼はイスラエルの師であったかもしれません。けれども、それでも霊的なことがらの「いろは」についてさえも無知であったのです。なぜでしょうか。 生まれつきの人間の愚かさの原因は何なのでしょうか。彼が暗やみの中にいたからではなかったでしょうか。「悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。」(箴言4:19) 新約聖書の証言もまた明白です。「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4:18) 何というみすぼらしい状態でしょうか。 人間の空虚な知恵と教養に対する誇りの愚かさの暴露に他なりません。生まれつきのままの人間は、その盲目のゆえに暗やみの中に置かれているのです。ところが、今日の講壇から、この人間の愚かさの語られることはまれです。今日の聖書教師のほとんどが、生まれつきの人間の盲目について、また神のお働きの必要について強調することはありません。こういったことがらは、私たちが知って決して心地よいものではありませんし、またそのようなことがらの忠実な解釈は、それを説教する者の人気にはつながらないものです。けれども、それはまた、今日のようなラオデキヤ的自己義認の時代において非常に必要とされていることがらでもあるのです。救い主が私たちに残して下さった模範に従いたいと願う者は、主がどれほど多くの場所で人間の堕落について語っておられるかを、一気に四福音書を読んで調べていただきたいと思います。ほとんどの読者が、その結果に驚かれるに違いありません。

 

「ニコデモは答えて言った。『どうして、そのようなことがありうるのでしょう。』  ニコデモは、少なくとも正直ではありました。彼は自分の無知をさらけ出すことを恥とは思わず、質問をしました。他の多くの人々も彼と同じようであったならと思います。あまりにも多くの人々が、光を追究することを妨げる自分の愚かなプライドのために無知のままでいるのです。これは学びたいと思う者にとってもっとも大切な必要でもあります。このことは未信者と同様、信者にも適用することが出来ます。もしもクリスチャンが自分自身をへりくだらせることを拒むなら、「私の見ないことをあなたが私に教えて下さい。」(ヨブ34:32)という態度を軽蔑するなら、神によって教えられた人からの助言を受けることを欲しないなら、そして何よりも、日々、神に向かって「私の目を開いてください。私が、あなたのあなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」(詩篇119:18)と祈り求めなかったら、彼は決して真理の知識に成長することはない、いやできないでしょう。

 

イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」(3:10) ここで主は、ユダヤ人の指導者としてのニコデモに対して、この会見の始めに彼がキリストに対して用いたのと同じことばをお使いになっておられる点は注目に値します。ギリシャ語でも、2節でニコデモが使った「教師」と、10節で主がお用いになった「教師」は同じ語です。短く要約されたこの会見の記録の中で、主はニコデモ自身が使ったのと同じ表現を主が7回お用いになっておられるということに注意を払うべきです。以下にその7つの表現をあげておきましょう。

1,ニコデモは「私たちは・・・・・知っています。」(2)と言い、キリストは、「私たちは、知っていることを話し・・・・」(11)と言われました。

2,ニコデモは、「あなたが・・・・教師である」(2)と言い、キリストは、「あなたは・・・教師でありながら」(10)と言われました。

3,ニコデモは、「神がともにおられるのでなければ・・・」(2)と言い、キリストは、「人は、新しく生まれなければ・・・・」(3)と言われました。

4,ニコデモは、「人は・・・どのようにして生まれることが」(4)と尋ね、キリストは、「人は・・・生まれなければ」(5)とお答えになりました。

5,ニコデモは、「はいって・・・」(4)と尋ね、キリストは、「はいることはできません。」(5)とお答えになっておられます。

6,ニコデモは、「どうして・・・」(9)と尋ね、キリストも、「どうして」(12)と尋ねられました。

7,ニコデモは、「どうしてそのようなことが・・・」(9)と尋ね、キリストも、「どうして(これらのことを)・・・」(10)と尋ねられました。

 

このような、ニコデモの使ったことばと救い主がお用いになったおことばとの間の特筆すべき一

致には驚嘆させられます。そしてこのことから私たちが学ぶべき重要な点があるはずです。最初ニコデモによって使われたことばがキリストによって用いられたことから私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。これはすべてのクリスチャン・ワーカーのための原則を教えていないでしょうか。このことを次のように述べておきましょう。キリストは、この男性自身の目線で会見をしてくださり、この男性自身のレベルのことばの媒介によって、彼の心にアプローチしてくださったと言うことです。実に単純ですが、実に重要な原則です。私たちは何としばしば、相手に対してどのようにアプローチしようかと途方に暮れるのではないでしょうか。どこから始めるべきなのかと悩んでしまうのです。実に、ここにその答えがあります。相手の話し方をその会話の出発点とすればいいのです。相手が使ったことばの周辺で相手に向かうべきなのです。そして可能なときはいつでも、それらのことばに対してさらに深い意味を与え、さらに深い応用をすべきです。

 

イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」(3:10) これは何という叱責でしょう! まさに主は次のように言っておられるのです。「あなたは教師ではないか。それなのに、自分自身を教えていないのか。あなたはあかりを持っている。なのに、今なお暗やみの中にいるのか。あなたはイスラエルの教師ではないか。それなのに、霊的真理のもっとも基本的なことさえわかっていないのか。」 何と鋭く、厳かな指摘でしょうか! これは著者と読者にとってもまた真実ではないでしょうか。 ああ! 私たちはみんな恥ずかしさのあまり自らの首を振らなければならないのではないでしょうか。知らなければならないことのわずかしか私たちは知っていないのです。霊的真理に対して盲目なのです。盲目であるがゆえに、私たちは真理へと導かれなければなりません。(ヨハネ16:13) 偉大な医師のもとに行き、霊的な「目薬」を調合していただき、目が見えるようになるために私たちの目に塗っていただくことこそが、私たちの痛ましい必要なのではありませんか(黙示3:18)。神よ、ラオデキヤニズム(傲慢主義)が私たちを妨げることを許したもうな!

 

次の節に進む前に、10節からもう一つの点を指摘しておきましょう。宗教の教師であっても神の真理について無知であり得えるという点です。これは、私たちがだれにでも信頼を置くことがないようにという、何とい厳かな警告でしょうか。ニコデモはサンヒドリンのメンバーでした。その時代のもっともレベルの高い神学校で学んだのです。しかし、それにもかかわらず霊的なことがらに関する眼識はありませんでした。悲惨的なことに、彼には多くの後継者がいます。説教者がある神学校から学位を受けて卒業したということは、彼が聖霊によって教えられた神の人であるという根拠にはなりません。人間の学びというものには依って立つところがないのです。ただひとつの安全な方法は、ベレアの信者に見習うことです。つまり、私たちが講壇から聞くことがらのすべてを、あるいは宗教的な書籍で読むことがらのすべてを、神のみことばで正しいかどうか試し、聖なる書に明らかに教えられていないことがらのすべてを拒絶するということです。

 

まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかし

しているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。」(3:11) 前述の通り、これはニコデモが会見の初めのところで述べたことがらに対するキリストのお答えです。「私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」ということばは、サンヒドリンを代表しています。そして、その返事として今、主は言われます。「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししている。」と。 この会見の中でニコデモは、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」(9)と尋ねました。新生についてキリストが述べられたことは、このユダヤ人の指導者には不可解なこととしか思えませんでした。それゆえ、この厳かで語気の強い宣言、すなわち「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししている。」が必要であったわけです。キリストは、ユダヤ教の学者たちが好んだ形而上学的思索や神学的仮説を扱ってはおられません。そうではなくて、主は神として知っておられることを主張し、実際的な存在として見られ観察されることを証言しておられたのです。すべての神のしもべたちの前に、何というすばらしい模範を主は与えてくださっていることでしょうか! 神のみことばの教師は、自分自身にまだ明らかではないことがらを説明しようとすべきではありません。十分な知識なしに神のことがらについて推測すべきではなく、自分自身さえ経験していないようなことがらについて話すべきではないのです。むしろ、知っていることを話し、自分で見たことを証言すべきなのです。

 

 「あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。」(3:11) この宣言と前節に書かれていることがらとの間には明らかな関係が見られます。前節で、キリストは、神の真理についての無知のゆえにニコデモを叱っておられます。そしてここでは、そのような無知の理由を述べておられます。人が神のことがらについて無知である理由は、それらについての神の証言を受け入れないからなのです。この順序を述べておくことは非常に重要です。まず受け入れ、その次に知識です。まず、神が言われたことを信じること、それからそれを理解するのです。このことはへブル書11:3にも記されています。「信仰によって、・・・・悟り」  これは、かの素晴らしい信仰の章においてまず最初に述べられていることがらです。信仰は理解の土台なのです。私たちが神のみことばを信じるとき、神は私たちに私たちが信じたことがらに関する知識を与えることによって報いてくださるのです。そして、もしも私たちが神のみことばを信じないなら、神のいかなることについても理解することはないでしょう。

 

あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」(3:12) これは前節と密接につながっています。前節で主イエスは、神のことがらについての無知の原因について述べておられました。そして、ここで主は、知識がまし加えられる条件を明らかにしておられます。霊的な領域における神の法則は、自然世界におけるそれと一致しています。まず葉、次に穂、そしてその穂の中に穀物が実ります。まず初めに、より初歩的な真理を自分のものとするまで、神は私たちにさらに深い真理をお示しにはなられません。このことこそが、キリストがここで述べておられる原則なのです。「地上のこと」とは明らかなことがらであり、比較的わかりやすいことがらです。けれども「天上のこと」は目に見えないことがらであり、神が明らかにしてくださらないかぎり、私たち人間の理解を超えたことがらです。この世のことがらや私たちのまわりの言及については、私たちは「地上のこと」によって理解します。この地上において起こる新生、そしてこの新生をもたらす聖霊の働きの例として、主は「風」に言及されました。これらのことがらは、エゼキエル36:25−27から、ニコデモがもう知っているはずのことがらでした。もしもニコデモが地上のことがらについての神のみことばを信じていなかったなら、キリストが「天上のこと」をお話になったとしても何の意味があったでしょうか。ここで、私たちはこの原則を自分自身に応用するために立ち止まって考えてみようではありませんか。

 

神のことがらについての私たちの進歩は、どうしてこんなにも遅いのでしょうか。真理の知識においての成長を妨げているものはいったい何なのでしょうか。このような、あるいはこれに類する質問の答えは上述されていないでしょうか。「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」 「地上のこと」とは、この地上という領域に関係があることがらです。それらは、この地上における私たちの生活と関係のあることがらを指しています。それらはこの地上での日ごとの私たちの歩みのための規則としての神の命令です。もしも私たちがこれらのことを信じなかったなら、言い換えれば、もしも私たちがそれらを充当し、それらを私たち自身に服従させなければ、さらに高い奥義、すなわち「天上のこと」はどうでしょうか。言うまでもないことです。それは私たちの不信仰を助長するのみであり、豚に真珠と言わなければなりますまい。

 

みことばの多くの預言的な部分について、なぜ私たちはほとんど光を持っていないのでしょうか。今、「主とともに」天にいる人々の状態について、私たちはなぜ多くのことを知らないのでしょうか。永遠の未来において私たちがどのようになるのかについて、どうして私たちはこれほど無知なのでしょうか。聖書の預言が明確ではないからなのでしょうか。神が中間的および永遠の状態についてほとんど明らかにしておられないからなのでしょうか。もちろんそうではありません。私たちがこれらのことがらについて解明を受ける状態にないからに他なりません。私たちが「地上のこと」(私たちの地上での生活に関することがら、私たちの地上での歩みに関する神の教え)に真剣に注意を払うことがないので、神は「天上のこと」がら、すなわち天の領域に関するさらに素晴らしい知識を与えてくださらないのです。神のみ前にへりくだってひれ伏し、私たちのあわれな状態を告白しようではありませんか。そして、私たちの歩みが主のみ力によってもっと豊かにされるために必要な恵みを求めようではありませんか。私たちの第一の願望が、神の奥義の理解力にではなく、神が求めておられることに対する絶対的服従にありますように! 私たちが神のみことばにむかうとき、私たちの主要な動機が、みことばの難解な問題についての知識を得ることにではなく、神の御心を行うために私たちに対する神の御心が何であるかを尋ね求めることにありますように! 「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(へブル5:14)であるということを覚えておきましょう。

 

だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(3:13) この節と前節との関係はおおよそ次のようなものです。主が言及された「天上のこと」はそのときまで、まだ人には明らかにされてはいませんでした。「天に上る」という神の隠された真理を理解するということは、堕落した人類にはまったく不可能なことだったのです。天こそが本来のみ住まいである御子のみが天上のことがらについて現わすことが出来る資格を持っておられたのです。

 

しかし、主が「だれも天に上った者はいません。」とおっしゃったとき、それはどのような意味があったのでしょうか。この節は、いわゆる「たましいの睡眠状態」説や「死後絶滅説」をとる人々が好んで用いる節です。死と復活の間、人は存在しなくなると信じる人々がいます。彼らはこの節を取り上げ、アベルやダビデさえ、まだ天に行っていないということをこの節が教えているのだと主張します。けれども、キリストはここで「だれも天に入ったものはいな。」と言っておられるのではなく、「だれも天に上った者はいません。」と言っておられることに注意を払わなければなりません。これらはまったく異なった事実です。今までにも、また将来においても「上った(あるいは上る)者(ascended up)はいません。」今、私たちの前にあるものは、詳細で驚くべき正確さを有するみことばの多くの記録の例の一つに過ぎません。ああ、不注意に大急ぎでみことばを読む大多数の人々はその意味を見失ってしまうのです。エノクについては、「エノクは死を見ないように天に移された。」(へブル11:5)と記されており、エリヤについては、「エリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。went up)」(第2列王2:11)と記されています。またキリストがおいでになるとき天にあげられる聖徒たちについては、「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ」(第1テサロニケ4:17)と書かれています。キリストについてだけ、「天にのぼった。」という表現が用いられています。これは、まさにキリストの独自性を現わし、「ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられた」ことを示しています。(コロサイ1:18)

 

主は、さらに明確に「すなわち(天にあるKJV)人の子です。」と言われました。ニコデモとこの地上で話しておられるにもかかわらず、「天に」もおられるお方なのです。これはもう一つの神性の証拠です。主の偏在を現わしています。この福音書の中で、神の不可欠な属性のすべてがキリストに帰せられている点は注目に値します。この福音書の特別な目的は主の神としての完全性を明らかにすることなのです。主の永遠性は1:1で論じられています。主の神としての栄光は1:14で言及されています。また主の全知性は1:48、2:24,25に見られます。主の計り知れない知恵に関しては、7:46で証言されています。主の変わることのない愛については13:1で述べられています。このように際限なく例を挙げることが出来ます。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」(3:14) キリストはニコデモに対して、新生の絶対的必要性について話しておられました。生まれつきのままの人間は、とがと罪との中に死んだ者であり、いのちを得るためには新しく生まれなければなりません。新生とは、神のいのち、すなわち永遠のいのちを受けることに他なりません。けれども、永遠のいのちが人に与えられるために、人の子が上げられなければならなかったのです。いのちは、ただ死からのみもたらされ得たのです。キリストの犠牲としての働きこそが、聖霊のお働きと神の永遠のいのちの賜物の土台となるものです。ここでキリストは、人の子が上げられることについて話しておられるという点に注目していただきたいと思います。というのも、贖いは、罪を犯して堕落した「人」の要素がある者、すなわち「人」によってもたらされるべきものです。そしてただ、神の御子でありながら「人」となってくださったお方だけが罪人の身代わりとして、その身に罰を受けることが出来たお方でした。間違いなく、キリストがここでご自身の死を「上げられる」という表現でお話になったのには明確な理由があったに違いありません。ユダヤ人たちは「上げられる」べきメシアの到来を待ちこがれていました。ただ、主がここで述べられたのとはまったく異なる方法で上げられることを待ち望んでいたわけです。彼らは、主がダビデの王座に上げられることを期待していたのでした。けれども、その前に、主は、ご自分の民の上に下る神のさばきを耐えて、あの恥の十字架の上に上げられなければならなかったのです。

 

主の死の性格と意味と目的を描写するために、主はここで、民数記21:5−9に記されているイスラエルの荒野の旅の間に起こったよく知られている出来事に言及しておられます。イスラエルは主に向かってつぶやいていました。そのため神は燃える蛇を民の中にお送りになりました。その蛇は民に噛みつき、ある者たちは死に、ある者たちはその蛇の毒のために大きな被害を受けました。最終的に彼らは自分たちの罪を告白し、モーセに向かって助けを求めて叫びました。モーセは、神に向かって叫び求めると、神は彼に青銅の蛇を作り竿の先につけて、かまれたイスラエルの民に向かって、信仰を持ってそれを仰ぎ見るなら救われることを伝えるように命じられました。これらすべてのことは、罪のために死につつある者を「仰ぎ見る信仰」によって救うために十字架に上げられるキリストのひな形でした。ひな形は特筆すべきものであり、詳細に学ぶに値するものです。

 

「へび」は、死と破壊の力を表すのにもっともふさわしい型です。この「へび」は、その原形であるかの「へび」を表わしています。そして私たちはかの「へび」の子孫であるとみことばは教えています。かまれた者すべてを完全に汚染するへびの毒、および救済方法が何一つないその致命的な被害からの救済のために神が備えたもうた道は、明確に恐るべき罪の性格と結末を描写していました。神が備えたもうた救済方法というのは、実に破壊者が滅ぼされる姿の描写だったのです。では、なぜモーセが竿の先にかけたのは本物のへびではなかったのでしょうか。ああ! もし本物のヘビであったとしたら、それはこのひな型を台無しにしてしまっていたことでしょう。もしそうだったとしたら、それは罪人自身の上に下るさばきを表わすだけのものであったのです。そればかりではなく、もしそんなことであったなら、私たちのための罪のない身代わりである御方を誤って描くことになってしまっていたことでしょう。神がお選びになったひな型は、ヘビのかたちはしていましたが実際のヘビではなく、青銅で作られたヘビのかたちでした。同じように、罪人の救い主は、「罪のからだのかたちをしたものとして」(ローマ書8:3。ギリシャ語)送られたのです。そして「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第二コリント5:21)

 

では、どういうわけでヘビが神の聖者を正確に表わしていると言うことが出来るのでしょうか。これはどう考えてもおかしいのではないかと思われるかもしれません。そのとおりです、主の本質的なご性質から考えても、その完璧なご生涯から考えても、「へび」が主のひな形ではあり得ません。青銅のへびは、ただ「上げられた」という点においてだけキリストのひな形であったのです。上げられるというのは明らかに十字架を指し示していました。ではその「へび」は何だったのでしょうか。それはのろいを表わすしるしでありました。それは、最初の人間を堕落に導き、聖なる神ののろいのもとに全人類を置いたあのいた古いヘビ、悪魔のすがたでした。そして愛する読者よ! 十字架の上で、聖なる神の御ひとり子、受肉したもうた御方が私たちのために呪いとなってくださったのです。もしもみことばが明確にそうだと断言していなかったら私たちもまたそのような断言はすべきではありません。ガラテヤ3:13には次のように記されています。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」  ですから、このひな形にはいかなる欠陥もありませんでした。このひな形は完璧なものであったのです。「へび」は、私たちのために呪いとなってくださった受難の救い主を正しく予表していたのでした。

 

では、なぜ「青銅」のへびだったのでしょうか。これもまたひな形の完全さ示しています。「青銅」は二つのことを表わしています。みことばにおける象徴として、青銅は神のさばきのしるしです。旧約の時代に犠牲の動物がささげられ、その上で天からの焼き尽くす火が下った青銅の祭壇はこの事実を描写しています。また、申命記28章で主はイスラエルにむかって、もしも彼らが「主のみ声に聞き従わず、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら」(15)、主ののろいが彼らにのぞむ(16)と宣言されました。そして神のさばきの一つとして、「あなたの頭の上の天は青銅とな」(23)ると仰せになりました。また黙示録1章では、七つの教会の真中に立っておられるキリストはさばき主として描かれています。そして次のように書かれています。「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり・・・」(15)。「へび」は、罪がもたらすのろいを示し、「青銅」は、私たちのために罪を負ってくださったお方の上に下った神のさばきを表わしているのです。さて、青銅によって示されているもう一つの点があります。青銅は鉄や銀・金よりも強い金属です。ですから、青銅が示すもう一つの意味は、恐るべき神のさばきにも耐え得たキリストの全能の強さです。単なる一被造物のかたちを取りながら、まったく罪のないお方は、私たちの罪のために完全にその贖いの業を成し遂げてくださったのです。

 

以上の点から、神がモーセに青銅の蛇を作り、それを竿の先につけ、かまれたイスラエルにたいして、それを仰ぎ見るならば生きると言うようにお命じになったとき、それはまさに神の恵みの福音そのものでありました。今、イスラエルに対してするように命じられなかった七つの点を上げてみたいと思います。

 

1、       彼らの傷口を治療するために何か塗り薬を作るようには命じられませんでした。疑いの余

地なく、そうするほうがずっとわかりやすかったに違いありません。しかしそうするならひな形は崩されてしまうのです。宗教的医師たちは霊的ローションの発明に大忙しですが、そのようなものに癒しの力はありません。このような方法での霊的癒しを探し求めている人々は、ちょうどあの福音書の中に言及されている貧しい女性のようなものです。「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」(マルコ5:26)

 

2、       彼らは、自分が癒されるために、他のかまれた者たちに尽すようには命じられませんでし

た。そう命じられた方が、ただ竿の先につけられたへびを仰ぎ見るよりも、人の心情にはより実際的に、また強く訴えることが出来たでしょう。事実、ただ単に竿の先につけられたへびを仰ぎ見るというのは、もっとも不合理な方法に思えたに違いありません。人がもし自分自身泳ぐことが出来ないなら、溺れている人を救うために深い海に飛び込むことに何の意味があるでしょうか。自分自身が死につつあり、その死から自分自身を救うことが出来ないなら、どうしてその人が同じ状態にある他人を救うことが出来ましょう! そして、そうであるにもかかわらず、今日多くの人々が、たましいの中で働いて死に至らせる罪のヴィールスを減殺しようとして、むだな期待をかけて慈善事業に専念しているのです。

 

3,   彼らや毒ヘビと戦うようには命じられませんでした。もしも、当時、現代人がこの現場にいあわ

せたら、たぶん彼はモーセに、「毒ヘビ根絶委員会」を組織して対策を考えようと進言したことでしょう。しかし、すでに毒へびにかまれ、死につつある人々にとってそのような対策がどのような意味を持っていたでしょうか。へびにかまれた者たちがそれぞれ1000匹のヘビを殺せたとしても、彼ら自身は死から免れることはなかったのです。罪と戦って、それが何を生み出すというのでしょうか。そうです、罪と戦うことで、肉の力のはけ口となるのです。けれども、これらすべての放縦、冒涜、不道徳に対する改革運動というものが社会をよくした試しがありません。またそのような運動がただひとりの罪人をもキリストに導くことは出来ませんでした。

 

4,   彼らは、竿の先のへびのために献金をささげるようにも命じられませんでした。神はかれらに

癒しのお礼として、いかなる支払いをもお求めにはならなかったのです。そのようなことは、決してあり得ませんでした。もしも、癒しをもたらしたことのために支払いがあったとしたら、もはや恵みが恵みではなくなってしまうからです。ところが、なんとしばしばこの点で、福音がゆがめられていることでしょうか。そんなに以前のことではありませんが、著者は、まったく救いを受けていない人に向かって人類の堕落について説教をしていました。私は神の助けによって、不信者の状態がどんなにひどいものであり、来るべき神の怒りから救い出してくださる救い主の必要がどれほど必要なものであるのかを示そうとしました。説教を終えて席に着くと、その教会の牧師は立ち上がり、見当違いの賛美歌で会衆を導き、神に再献身をするように人々に勧めまし   た。あわれな人よ! それが彼の知っていた最善のことでした。悲惨的な盲目者! ある説教者たちは、失われた聴衆にむかって、「あなたの心をイエスにささげよ!」と勧めます。もうひとつの曲解です。神は罪人に何も求められません。ただキリストを受け入れるように求めておられるのです。

 

5,   彼らはヘビに祈るようには命じられませんでした。多くの伝道者たちは、「懺悔者席」あるいは

「告解者いす」に行って、神に赦しのあわれみを嘆願するように勧めます。そして、彼らがすっかり動かなくなったところで、彼らの祈りを主は聞いてくださっていたと信じるようにうながされます。もしもこれらの「より良い人生の探求者」が、その説教者の言ったことを信じるなら、つまり、彼らが「祈り通すことによって」「救いを受けた」と感じて至福を味わい、しばらくの間、軽い心で、きれいな「大路」を歩みます。ところが、このような人のほとんど例外のない結末は、以前よりももっとひどい生活に逆戻りをするということです。愛する読者よ、キリストへの信仰の代替えとしての「祈り」という致命的な間違いを犯さないでください。

 

6,   彼らはモーセを見ないように命じられました。彼らはずっとモーセを見続けてきました。そして

自分たちのために神に祈るようにモーセに頼みました。神がこのモーセの叫びの答えとして、人々の目をモーセからお離しになり、青銅のへびを仰ぐように命じられたのです。モーセは律法の授与者でした。そして何と多くの人々が、今日、自分の救いのためにこのモーセを仰ぎ見ていることでしょうか。彼らは、天国に入るために、神の律法への自分自身の不完全な従順により頼もうとしているのです。言い換えるなら、彼らは自分自身の働きにより頼んでいると言うことです。けれどもみことばは強調して次のように述べています。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5) 「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したから」(ヨハネ1:17)です。ですから、キリストのみが救うことのおできになるお方なのです。

 

7,   彼らは、自分たちの傷を見るようにとは命じられませんでした。ある人々は、救いのために必

要な条件としての悔い改めの程度にまでいたるためには、自分の邪悪な心を調べることにもっと努力を払わなければならないと考えています。彼らは、雪を見て心を変えようとしたり、暗やみの中で何とかして光を見ようとするかのように、自分自身を眺めて救いを得ようとしているのです。自分自身に目を向けるとき、ただ神が有罪宣言をし、すでに死の宣告がなされているということだけがわかるのです。ですが、次のような疑問が起こるかもしれません。「キリストを信じる前に、私たちに悔い改めをもたらすような敬虔な悲しみがあるはずではないか。」それは間違いなのです。敬虔な者になる前にどうして敬虔な悔い改めが起こるでしょうか。そして、人はキリストを信じることによって自分自身を神にお任せし、主に従うまで、決して敬虔な者となることなど不可能なのです。信仰こそが、すべての敬虔の始まりなのです。

 

以上、私たちの敵が多くのたましいを欺いている謀略のいくつかを指摘するために、七つの点を挙げてみました。今日教会の中には、真剣に自分たちがクリスチャンであると考えているにも関わらず、完全に間違っている多くの人々がいるということはまさに危惧すべきことです。自分が億万長者であると信じることによっては真に億万長者になれないように、自分が救われていると信じることがその人を救うことは出来ません。悪魔は、目覚めさせられた罪人がキリストよりも何か他のもの、例えば良い働き、悔い改め、感情、決心、バプテスマそのほかどのようなものでも、キリストご自身以外のものを仰ぐとき、大喜びをするのです。

 

さて、間違いを指摘することから、もう一度正しい教えに戻って、ひな形自体について簡単に考えてみましょう。第1に、モーセは神から、青銅のへびを作るように命じられました。つまりそれは主が供給してくださったものであったわけです。そしてその霊的な意味についてはすでに学びました。第2に、モーセは、そのへびを竿の先につけるように命じられました。これこそが公に示された神の救済策でありました。すべてのイスラエルがそれを仰ぎ見て癒されるためにです。第3に、神の約束は、「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(民数21:8)ということでした。このように、神はただ単に救いが罪人にもたらされる手段を予表されたばかりではなく、罪人がその救いを得る方法、すなわち、自分自身から目をそらし、神が命じられた信仰の対象、主イエス・キリストを仰ぎ見るとくこともお示しになったのです。何という素晴らしいことでしょうか。弱くて竿によじ登ることさえ出来ない者も、あるいは嘆願するためにその声を上げてもとどかないあわれな罪人も、神の約束を信じ、ただ仰ぎ見るなら癒されることが出来るように、青銅のへびは「上げられた」のです。

 

 ちょうどかまれたイスラエルが仰ぎ見る信仰によって癒されたと同じように、罪人も信仰によってキリストを仰ぎ見ることによって救いを得るのです。救いに至る信仰は、人が自分自身に、神に対して救いの祝福を要求する権利を与えるために、難しくて称賛に値するような働きではありません。神が私たちを救ってくださるのは、私たちの信仰に基づいてではなく、私たちの信仰という手段を通してであります。信じることによって私たちは救われるのです。それはまさに飢えている人について考えればよくわかることです。この食べ物を食べるなら飢えの苦痛から解放され、その結果気分はさわやかになり力がつきます。食べるという行為はまったく称賛に値するような、努力を要するような行為ではありません。けれども自然の法則から、飢えを免れるためには、食べるという行為は絶対不可欠です。人が信じるとき、救われるという真実は、罪人中の罪人、下劣な悪人の中の悪人さえも例外ではありません。主イエス・キリストに対する個人的な信仰、つまり聖なるみことばの中にご自身の御子について神がお記しになったことがらを受け入れることこそが唯一の救いの道なのです。そうするとき、その瞬間、罪人は救いを受けます。それはちょうど神がモーセに仰せになったとおりです。「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。

 

 「すべてかまれた者は」 何回かまれたのか、どれほどの毒がその人の体内にあるのかといったことは関係がありません。人は「仰ぎ見れば、生きる」のです。これこそ、福音の宣言です。「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、」 例外はないのです! 地上でもっともひどい悪人、人類の中でもっとも低いと見なされ、もっとも軽蔑された人間、もっともみじめであわれな人間であったとしても、キリストを信じるなら、神によって永遠の救いをいただき、救われることが出来るのです。罪ではなく、不信仰が救い主への道を閉ざしてしまうのです。あるイスラエル人は神がお与えになった救済方法を聞いたとき、それを軽く考えたかも知れません。またある人は青銅のへびを仰ぎ見ることによって救われるという宣言に疑いを抱いたかもしれません。またある人々は一般的な方法で回復することを願ったでしょう。そうであったとしても、そのうちに被害が増大して、信仰の目を持って、神によって立てられた方法を信じたなら、彼らもまた救われたのです。あなたは、頑固でかたくなに不信仰と悔い改めない心で生きてこられたのでしょうか。たとえそうであったとしても、神の驚くべき恵みは、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と宣言しています。今なお「恵みの時」であり、「今は救いの日」なのです。(第2コリント6:2) 今、信じてください。そうすれば、あなたも救われるのです。

 

 人類は「見ること」によって失われた罪人となりました。私たちの最初の親の堕落に関して、エバの記録は次のようなものです。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く・・・」(創世記3:6) そして、失われた罪人もまた同じ方法、「見ること」によって救われるのです。クリスチャン生活は「見ること」から始まります。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22) さらに、クリスチャン生活は見ることによって継続されます。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2) そして、地上におけるクリスチャン生活の終わりにおいてもなお私たちはキリストを仰ぎ見ています。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20) 初めから終わりまで、求められているひとつのことがらは、神の御子を仰ぐことなのです。

 

 しかしここで、罪人は、困惑し身震いをしながら最後の声を上げるかもしれません。「先生、正しい方法で仰ぎ見ることなんて、はたして出来るのでしょうか。」 愛する友よ、神はあなたが自らの力で「見ることを」求めておられるのではありません。ただキリストを仰ぎ見ることを求めておられるのです。へびにかまれたイスラエルの大群衆の中には、若い目も年老いた目あったに違いありません。ある人々は視力が良かったでしょうし、ある人々は悪かったでしょう。ある人々は、竿の先につけられたキリストのひな形を近くから見ることが出来たでしょうし、ある人々は遠くからであったためはっきりと見ることは出来なかったでしょう。けれどもみことばは次のように記しています。「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(民数21:8) それは、今日でも同じです。主イエスは言われます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28) 主は、主のもとに来る方法を限定しておられません。あわれな罪人が手探りで、身震いしながら、転びながら来たとしても、ただ主のもとに「来」るなら、彼は暖かく迎え入れられるのです。そしてそのことが、今私たちが学んでいるみことばの述べているところなのです。「「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、」 ここには、その人の信仰の力や知識についての限定などまったく述べられていません。なぜなら、人を救うのは、その人の持つ信仰の性格や程度ではなく、キリストご自身であるからです。信仰はただ単に、主イエスを仰ぎ見るためのたましいの目にすぎません。ですから、あなたの信仰に頼らないでください。あなたの信仰にではなく、救い主ご自身に頼ってください。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16) キリストはご自身の死について言及されたばかりでした。そして、十字架がどうしても必要なことであることを断言されました。それは、「御子は上げられるであろう。」ということではなく、「上げられなければなりません。」ということでした。他の選択の余地はなかったのです。神の王権の要求が満たされるためには、義の要求が満足させられるためには、罪が取り去られるためには、誰か罪のないお方が、救いを受ける者のかわりに罰を受けるほかに方法はなかったのです。神の義がこのことを要求しました。すなわち、御子が「上げられなければなりません。

 

しかし、キリストの十字架には神の義の提示以上のことがあります。それは神の驚くべき愛の表現です。16節は、その最初のことばが示しているように14節を説明しています。16節は、私たちをすべての土台へと連れ戻してくれます。大いなる犠牲が愛によって備えられたのです。キリストこそが、神の愛の贈り物でした。これは、かつてある時期に流行した説が間違いであったことを証明しています。その説とは、キリストは、神が気の毒に思い人を救ってくださるために死なれたというものです。真実はこの説のまったく反対なのです。神が人を愛され、信じる者を救うと定められていたので、キリストは死んでくださったのです。キリストの死は、神の愛の最高の現れです。聖なる三位一体のご人格の中で、人の救いに関して議論は起こりえませんでした。神のご意志は間違いなくただ一つでした。贖いは、神の愛の原因ではありませんでした。しかし神の愛の結果だったのです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第1ヨハネ4:9−10) 神がキリストをお与えになったのは、他のどのような理由からでもありません。ただ愛から、純粋は主権的慈愛からだったのです。

 

神の愛! これは信者の心には何と麗しいものでありましょうか! 信者だけが神の愛を感謝できるのです。もちろん、彼らとて非常に不完全なかたちでしか感謝することは出来ないのですが。ヨハネ3:16には、神の愛について7つのことがらが記されていることに注目すべきです。第1に、解の愛の「時制」です。「神は・・・愛された。」 「神は・・・愛しておられる。」ではありません、「愛された。」です。今、神が私たちを愛してくださっているのは、私たちが神の子どもとされたからです。ある程度までこのことを理解することは出来ます。しかし、私たちが神の子どもとされる前に、神が私たちを愛してくださっていたということは私たちの理解を超えることではないでしょうか。けれども、確かに神は私たちを愛してくださったのでした。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8) さらに、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31:5)と書かれています。第2に、神の愛の大きさです。「神は・・・ほどに愛された。」 「ほどに」がどれくらい強く、どれくらい大きいものであるのかを誰も語り尽くすことは出来ません。神の愛の広さ、長さ、深さ、高さを誰も計ることは出来ません。第3に、神の愛の範囲です。「神は・・・世を愛された。」 神の愛はただ単にパレスチナの領域に限られていたわけではありません。それは異邦の罪人にまで広がっていたのです。第4に、神の愛の性格についてです。「神は・・・お与えになったほどに・・・愛された。」 愛、真実の愛は自分以外にもっとも高い興味を示すものです。愛は自分を否定するものなのです。それは与え尽します。第5に、神の愛の犠牲的性格です。「そのひとり子をお与えになったほどに・・・」 神はご自身の最高のものをさえ残してはおかれませんでした。神はキリストをお与えになりました。それも十字架の死にまでもです。第6に、神の愛の計画について考えましょう。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、」 どくヘビにかまれ多くの者が荒野で死にました。そして多くのアダムの子孫が、火の池で、永遠の死を苦しむことでしょう。けれども、神は、人々が「滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ように計画してくださったのです。このような人々は、神の御子を信じることによって明らかにされることになります。第7に、神の愛の豊かさです。「永遠のいのちを持つためである。」これこそ、神がご自身の属するすべての人に賦与してくださるものなのです。ああ、私たちは使徒とももに次のように宣言すべきではありませんか! 「御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(第1ヨハネ3:1) ああ、愛するクリスチャンの読者よ! もしもあなたが、神の愛について疑問を持つように誘惑されたなら、どうか十字架に戻ってください。そして主がご自身の「ひとり子」が残酷な死をおとげになることを許されたかを見ていただきたいのです。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17) この節は神の愛の善意にあふれた性質と目的が示されています。その性質において無私です。なぜなら、愛は「自分の利益を求め」ないからです。愛は、その対象の益を望みます。神がご自身の御子をこの世に遣わされたのは、私たちの予想に反して「世をさばくためではな」かったのです。世がさばかれなければならない理由をあげるのにこと欠くことはありません。異邦人世界でははユダヤ社会よりもひどい状況でした。パレスチナという限られた地以外においては、まことの生ける神に関する知識はほとんど完全に地上からかき消されていたと言っても言い過ぎではありませんでした。そして神について知られず、神を愛することもないところにおいては、隣人を愛する愛もまた見られることがありません。すべての異邦諸国において偶像崇拝と不道徳がはびこっていました。ローマ書1章の後半を読むなら、神がすべてを滅ぼし尽すほうきによってこの地上のすべてを一掃されなかったことに驚かされることでしょう。ですが、神はそうされなかったのです。その代わりに、神は別の計画を持っておられました。恵み深い計画でした。神はご自身のひとり子をこの世に遣わされたのです。それも御子によって「世が救われるため」にです。ここに使われている「救われるため」(KJVでは“might be saved”となっている)ということばは、不確かなことがらを指すものではないという点に注意を払ってください。これは、神の御子をお遣わしになった確かな目的を指すことばです。日常会話において「might 」ということばが使われるとき、偶然性を意味しています。これは一般の辞書で使われる方法を無視し、コンコーダンスを開いて、聖霊がみことばの中でそれぞれのことばをどのように使っておられるのかを調べることの重要性を示すもう一つの例です。「might」というこのことばはギリシャ語では動詞の一部分として訳出されることばなのですが、計画を表わしています。神が霊感によって「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」と書かせてくださったとき、その意味は「御子によって世が救われるべき(shoudld)ためである。」ということを意味しています。このような訳はRV(英語聖書の一つの訳の種類)に反映されています。このような用法の他の例として、第1ペテロ3:18をあげておきましょう。「私たちを神のみもとに導くため(might)でした。」とあるのは、不確かな結果を表わすのではなく、神の計画が必ず成し遂げられるということが強調されているのです。さらに、ガラテヤ4:5,テトス2:14,第二ペテロ1:4などを例としてあげることが出来ます。

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(3:18) 信じる者が「罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

なぜなら、キリストが彼に代わって罪に定められてくださったからです。私たちの平和のための罰がこのお方の上におろされたからです。けれども不信者は「すでにさばかれて」います。生まれつきのままで、彼はただ単に腐敗しているばかりではなく、「御怒りを受けるべき子」(エペソ2:3)なのです。人は罪を憎みたもう神ののろいのもとにこの世に生を受けます。人が福音を聞いてもキリストを信じないなら、その信じないということのゆえにさらに増大したさばきを負うことになります。罪人が自分の不信に対して責任を負っていることの明らかな証拠ではありませんか。

 

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(3:19) このみことばは人類の不信の原因を述べています。人はやみを愛しています。ですから光を憎むのです。これこそが人類の堕落の証拠です! 人はやみの中にいるばかりではなく、やみを愛しているということです。人類は真理の光よりも、無知、あやまり、迷信のほうを好みます。彼らがやみを愛し光を憎む理由は、彼らの行いが悪いからだとみことばは教えます。

 

悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(3:20−21) これは最終的な試しです。「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」 なぜでしょうか。「その行ないが神にあってなされたことが明らかにされ」るのを恐れるからです。ですから、人はみことばを読むことを拒絶するのです。神のみことばは彼らに罪に定めるからです。一方、「真理を行なう者(これはすべての信者の特徴です。)は、光のほうに来」ます。ここで使われている時制は完了形ではありません。つまり、信者は何度も何度も、繰り返し繰り返し、神のみことばの光のほうに来るというのです。ではその目的は何でしょうか。神を悲しませるような行いを捨てて、神に喜ばれる生活を実践するために、神のみこころを学ぶためにです。そしてまさにこれこそが、キリストが、ニコデモの誠実さに対してにお語りになった最後のおことばではなかったでしょうか。このユダヤ人の指導者は「夜」、イエスのもとに来ました。あたかもその行いが明るみに出ないことを願ってであるかのように。

 

次の章の予習をしたい読者のために以下の設問をあげておきましょう。

1,   「水が多かった」とは何を意味していますか。(23)

2,   26節でユダヤ人たちがヨハネのもとに来た真の目的は何だったのでしょうか。

3,   27節の意味は何でしょうか。

4, 29節に述べられているクリスチャンのための非常に重要な教訓について考えてください。

5, 33節の意味は何でしょうか。

6,   34節後半に書かれている意味は何でしょうか。

7,   35節はどういう意味でキリストの神性について教えているのでしょうか。