第8章 キリストとニコデモ

ヨハネ3:1−8

 

 最初に、いつものようにこの部分を簡単に分析しておきましょう。次のように分けることができます。

 

1、ニコデモ  1節

2、ニコデモの公の立場   1節

3、ニコデモの臆病さ 2節

4、ニコデモの論法  2

5、ニコデモの無知 4

6、ニコデモのおろかさ  4節

7、ニコデモへの教訓 5-8

 

 

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」」(3:1−2) ニコデモは「ユダヤ人の指導者」でした。それはおそらく彼がサンへドリンのメンバーであったということを意味しているのでしょう。いずれにしても、ここで彼は、そのような立場の典型的な人物として示されているのです。彼は当時のユダヤ教の霊的状態のもう一つの面を教えてくれています。第1に、彼は「夜、イエスのもとに来」ました。(2節) 第2に、彼は霊的識別力がまったくありませんでした。(4,10節) 第3に、彼は咎と罪とに死んだ者でした。だからこそ彼には「新しく生まれる」必要があったのです。(7節) そのような者として、彼はまさに典型的なサンへドリン、すなわちイスラエルの最高機関の1人でありました。何という光景でありましょう! まさにこれはユダヤ教の姿を暴露しているのです。サンへドリンは夜を迎えていました。彼らはやみの中に置かれていたのです。そして、彼らの典型としてのニコデモがそうであったように、サンへドリンは霊的な識別力を欠いており、神に関してまったくの無知の状態にいたのでした。ニコデモがそうであったように、彼の仲間たちもまた霊的な理解力に欠けていたのです。これまた、当時のユダヤ教の姿を示しているのです。今までに、盲目の祭司職(1:21,26)、喜びのない国民(2:3)、汚された神殿(2:16)などをみてきました。そしてここで、霊的に死んでしまったサンヒドリンを見るのです。

 

この人が、夜、イエスのもとに来て」 なぜニコデモは夜イエスのもとに来たのでしょうか。主のもとに来るのを人に見られるのが恥ずかしかったのでしょうか。彼は、くらやみに隠れて内密のうちにキリストに近づこうとしたのでしょうか。これが一般的に考えられている理由です。そしてそれは間違ってはいないでしょう。しかし、彼が「」来たと書かれる必要が他にもあったのでしょうか。この福音書の中でこの後も、ニコデモが「」イエスのもとに来たことがくり返し述べられていることはご存知のとおりです。ヨハネの福音書7章50節と51節には次のように書かれています。「彼らのうちのひとりで、夜(新改訳では省略されている)イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」 また、ヨハネの福音書19章39にも、「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。」と書かれています。ここで注目すべき点は、ニコデモについてその勇気ある言動が記録されているという点です。すなわちサンへドリンの間違いを叱責する勇気、またすべての弟子たちが逃げてしまったときも、アリマタヤのヨセフに同伴するほどの大胆さを持っていました。聖霊はこのようなニコデモの勇気ある行為を、最初おそるおそる行動していたことを思い起こさせることによって、強調しておられるかのように思われます。もう一つの注目すべき点は、最初にニコデモが救い主にお会いしたときの彼の人称代名詞の使い方です。「「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と彼は言いました。彼自身の考えであることを表現することによって自分の態度を明らかにするのをさけるために、彼は複数代名詞、“私たち”を用いているのではないでしょうか。

 

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」」(3:2) これは確かなことでした。と言うのは、キリストの奇跡は、今までも、またその頃行われていた他の奇跡と呼ばれるものとも根本的に異なっていたからです。ですから、まさにこの事実から、私たちはいわゆる奇跡を行う人々の資格を注意深く試さなければならないことがわかります。誰かが奇跡を行うなら、その人が神のもとから来た者であり、神が彼とともにおられるということの確かな証拠となるのでしょうか。ある人々は、これは疑問の余地さえない証拠だと考えています。この問題について肯定的に答える人々が多いのです。つまり、「神がともにおられるのでなければ、このようなしるしは、だれも行うことができません。」、と考えるのです。表面的な理由付けが広く行きわたっている今日こそ、この点を強調する必要があります。また、今日、「神から遣わされ」てはいない多くの人々が奇跡を行っているので、この問題に関してさらに説明が必要なのです。

 

今日、人は誰でも立ち上がって、まったく誤った教理を教えることができる時代です。そして、彼らは癒しの奇跡を行う力をその教理の証明として差し出せば、彼らは広く受け入れられ、神のしもべとしてあがめられるのです。けれども、サタンもまた奇跡を行う力があるのだという事実が見落とされています。そしてしばしば、この恐るべき偽りの父は、確信のない人々を惑わし、彼らをその誤りで固めるためにこの奇跡の力を用いるのです。エジプトの魔術師たちが、ある時点まではモーセの奇跡を真似ることができたと言う事実を忘れないでおきましょう。そして彼らがこの力を、かの古い蛇、悪魔から得たのだと言うことを! コリント第2の手紙11:13,14に書かれている聖霊による警告を忘れてはなりません。「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」 もう一つ、みことばに反キリストについて次のように書かれていることを忘れてはなりません。「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、」(第二テサロニケ2:9) そうです、サタンは奇跡を行うことができるのです。また、その力を人に施すこともできるのです。したがって、ある教師が奇跡を行うことができると言うことが「神から遣わされた」ことの証拠とはならないのです。

 

このように、「キリストの使徒に変装している」サタンの「にせ使徒」によってだまされる危険性があるからこそ、「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出てきたからです。」〈第1ヨハネ4:1〉とすすめられているのです。また、キリストが、「使徒と自称しているが実はそうではない者たちをためして、その偽りを見ぬいた」(黙示録2:2)という点で、エペソの教会をおほめになっておられる点を見落としてはなりません。“ですが”「キリストの御名を名乗って私たちのところに来る者たちを、いったいどのようにして試すことができるのですか。」という質問が起こるでしょう。確かにそれは非常に重要でタイムリーな質問です。この質問に対して、私たちは次のように答えましょう。まず、神から遣わされたと主張する者たちの個人的な性格によって判断すべきではないということです。と言うのは、第二コリント11:14,15で、「サタンさえ光の御使いに変装するのです。」と書かれているからです。ですから、サタンの使いたちが義の働き人に変装したとしても驚くことではないのです。また、奇跡を行う力によって判断すべきでもありません。では、どのように試すべきでしょうか。神の霊感による答えはこれです。「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばによって語らなければ、その人には夜明けがない。」〈イザヤ8:20〉 人は、書かれた神のみことばによって試されなければなりません。神の僕であると公言するその人は、聖なるみことばによって語っているのか。またその人は、すべてのことばに「主が言われる。」と言明しているのか。もしそうではないなら、その人の人格がどんなに魅力的であろうと、またその人の教えがどんなに満足できるものであろうと、あるいは彼がどれほど大きな奇跡を行おうと、神のご命令は、「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。」(ヨハネ第2:10)なのです。ベレアの人々の模範に見習おうではありませんか。使徒17:11には、「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」と書かれています。 

 

さて、主はどのようにニコデモをお受けになったのでしょうか。主は彼を一人の傍観者として拒むことはなさらなかった点に注目すべきです。夜のことでしたし、救い主は忙しい一日をお過ごしになったことは疑う余地もありません。けれども、主は断るための言い訳をお探しになるようなことはなさいませんでした。主の御名をたたえましょう。罪人が救い主を捜し求めるとき、受け入れられないときなどないのです。夜でしたけれども、キリストはニコデモを温かく迎えてくださったのでした。福音書を読んで、著者が感動を受ける一つの点は、主イエスにいつでもたやすく近づくことができたという点です。主は、付き添いのボディガードで身辺を固めて、プライバシーを守り、危害を加える者たちから自らを守るようなことはなさいませんでした。いいえ、たやすく主に近づくことが許されていたのです。今日私たちが知っている“偉大な”説教者たちとはまったく違っていたのです。

 

では、ニコデモの挨拶に対するキリストの返事はどのようなものであったかをみて見ましょう。この「ユダヤ人の指導者」は、主を「神のもとから来られた教師」と呼びました。そしてそれが神から遣わされたキリストについての彼の唯一の概念だったのです。しかし、罪人がキリストに向かうべき最初の一歩は、教師としてのキリストではありません。罪人の必要は「新しく生まれる」ことであり、そうするためには救い主が必要なのです。そして、主はまさにこのことをニコデモに話してくださったのでした。13節と14節をご覧ください。「自分の罪過と罪との中に死んで」いる者に、また聖なる神の御前に罪に定められている者に対してどれほど教えたとしても、それにいったいどれほどの価値があるでしょうか。救われた者に対する教えなら理にかなっています。しかし、救われていない者に必要なのは、教えではなくみことばの宣教です。宣教は人々の堕落を暴露し、救い主の絶対的必要性を示し、さらに彼らを救うことのお出来になるお方を明らかにしてくれるのです。

 

キリストは、ニコデモの挨拶を無視されました。そして、実に率直に、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われたのです。新生に関する主の教え、まさにこれこそが、この部分の中心的な真理です。主はここで、第一に新生の最重要性(3節)、第二に新生の手段が「」であること(5節)、第三に、新生を生み出してくださるお方が「聖霊」であること(5節)、第四に、新生の絶対的必要性(5節)、第五に、新生が性質的に“霊”であること(6節)、第六に、新生の絶対的重要性(7節)、第七に、新生の過程(8節)について述べておられます。これらの点を個別に見ていきましょう。

1、        新生の最重要性3節)このことがここでは多くの方法で明らかにされています。まず、この

福音書において、新生が主の教説の第一の課題として取り上げられているということは非常に意味深いことです。最初の2章で、主が行われた多くの事柄が記録されています。けれども3章は、使徒ヨハネによって記録された最初のキリストの教説なのです。この福音書でキリストが最初に教えられたことは、私たちがどのように生きるべきであるかというようなことではなく、人がどのようにして霊的に生きる者とされるのかということでした。言うまでもなく、人は生まれることなしに生きることはできませんし、死んだ者が生活を送ることなど到底できるわけがないのです。人は新しく生まれ変わらなければ、神のみことばを生きることなどできないのです。ですから、この福音書で、主の教えの第一番目として、新生の重要性が述べられているのです。だからこそ、新生がすべてのことがらの土台であり、基本的な重要性として教えられているのです。

第二に、キリストがお話になったときお用いになった厳粛な用語によって、ことに主がご自身の教え

の導入としてお使いになることばによって、新生の重要性が宣言されています。主は、「まことに、まことに、」、すなわち「真実に、真実に、」という表現をもってこの教えを始められました。キリストはこの表現を、なにか重要な事柄を述べようとされるときにのみお使いになっておられます。二重の「まことに」はこれから述べようとすることが非常に厳粛で重要なことであるということを意味しているのです。この福音書においてのみ見出すことのできる救い主の「まことに、まことに、」というおことばに続くことがらに対して、私たちは特別な注意を払わなければなりません。

 

 第三に、キリストはここで、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3節)と断言することによって、新生の重要性を率直に表現しておられます。人が新しく生まれない限り、神の国を見ることができないのだとすれば、新生はアダムの子孫であるすべての人間にとって不可欠なことがらであるということになります。 

 

人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)ここで「神の国」が厳密には何を意味しているのかという質問が出てきます。第一に、この表現はヨハネの福音書では3:3,5以外には見出せません。第二に、この福音書は霊的なことがらを扱っています。こういわけで、ここでは「神の国」は寓意的に用いられていると考えられます。ローマ人への手紙14:17が私たちが今学んでいることばを理解するための助けとなるでしょう。「なぜなら神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」 第三に、ニコデモは新しく生まれなければ神の国を見ることはできませんでした。ですから、ヨハネの福音書3章の「神の国」とは、神に関することがら、霊的なことがらを意味していると考えられます。新生した者がこの地上で享受できるところのことがらなのです。(第1コリント2:10,14)「見る」ということばはギリシャ語では「エイドン」が使われており、「知る、…と知り合いになる」という意味のことばです。ですから、ニコデモに対するキリストの最初のおことばの真意は次のようなものです。「新しく生まれなければ、ひとは神のことがらについて知るようになることはありえない。」 そのようなわけで、新生は非常に重要なことがらであるということがわかります。

 

ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(3:4) これこそ、主がニコデモに対してたった今言われたことの証明ではなかったでしょうか。このユダヤ人の指導者は完全に霊的洞察力を欠いており、神のことがらについてまったく知ることはできなかったのです。救い主はご自身をわかりやすいことばで説明されました。けれどもこのイスラエルの指導者は主が語られた意味を会することはできなかったのです。「生まれながらの人間は神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」とみことばがかたるとき、まさにこれは真実ではありませんか。そして、霊的な洞察力をいただくために、人は新しく生まれなければならないのです。それまで、人は盲目であり神に属することがらを見ることはできないのです。

 

2、        新生の手段。イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と

御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(5節) 新生は「」によって生まれることです。この表現に関しては、神学者の間でいろいろな違った解釈が見られます。儀式主義者たちは、バプテスマによる新生という彼らの教理の根拠としてこのみことばを使います。けれども、彼らの説を主張するためにこの個所を使わざるを得ないということこそが彼らの主張の弱さを明らかにしているのです。しかしながら、ここでしばらく立ち止まって、広く信じられているこの間違った教理を聖書から矯正しておいたほうがいいのかもしれません。

 

バプテスマは救いのための必要要素ではありません。それは神が罪人に要求しておられる条件のひとつではないということは明らかです。 第一に、もしもバプテスマが救いの条件だとしたら、バプテストのヨハネの時代以前には誰一人救われる者はいなかったということになります。なぜなら、旧約聖書の始めから終わりまでどこを探してもバプテスマに関する言及が見出せないからです。回転のかげもない神は、エデンの園においてアダムとエバが罪を犯して以来今日まで、唯一の救いの方法を保ってこられました。ですから、もしバプテスマが罪の赦しのために欠くことのできない必須条件であったとしたら、アベルからキリストの時代までに生きた人々は全員救われなかったということになるのです。ところが旧約聖書はそのようには記録してはいません。

 

 第二に、もしもバプテスマが救いのために必要であったとすれば、バプテスマを受けずに死んだこの時代の信者は永遠に失われた者となったことになります。そうだとすれば、大部分の信者がバプテスマを受けていないクエーカー教徒や救世軍のメンバーばかりでなく、かの強盗に対しても天国のドアは閉じられていたことになります。しかし、これは信じがたいことではありませんか。

 

 第三に、もしもバプテスマが救いのための条件であったとしたら、救いは行いによってではなく恵みによるものであり、無代価の贈り物であって罪人の功績で買うことのできるものではないと教えている神のみことばを完全に無視しなければなりません。もしもバプテスマが救われるために不可欠であったとしたら、「ご自分の民をその罪から救う」ためにおいでになったキリストご自身が、誰一人にもバプテスマをお授けにならなかった」(ヨハネ4:2)というのは奇妙なことではありませんか。もしもバプテスマが救いのために不可欠であったとするなら、ピリピの獄屋の看守が、「救われるために何をしなければなりませんか。」と尋ねられたとき、使徒パウロは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」と答えたのは不思議ではありませんか。さらに、もしもバプテスマが救いのための必要条件であったなら、使徒パウロがコリントの教会に当てた手紙の中で、「私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。」(第1コリント1:14)といっているのは実に奇妙ではありませんか。

 

 さて、もしも「水によって生まれる」というキリストのおことばがバプテスマの水ではなかったとしたら、それはいったい何を意味しているのでしょうか。直接この質問に答える前に、「」ということばがこの福音書のほかの個所ではどのように使われているのかを見る必要があります。井戸のほとりで、キリストはひとりの女に、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)と言われました。これは文字通りの水でしょうか。前述の問題を正しく理解するためにはこの質問に答えておかなければなりません。明らかに、ここで「」は象徴的に使われています。また、ヨハネ7:37、38で、主は次のように言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 ここでも、「」ということばは文字通りに理解されるべきではなく、象徴的に理解されるべきです。ヨハネの福音書におけるこれらの記録は、ヨハネ3:5で使われている「」を象徴的意味にとることに正当な理由を与えてくれています。

 

 さて、主イエスはヨハネ3:5で、「」を象徴的にお使いになったのであるとすれば、このことばで何を現そうとされたのでしょうか。それは神のことばであったと答えましょう。神のことばこそ神が新生のためにお用いになってこられた手段でした。新生の手段が述べられているところどこででも、神のことばが言及されています。詩篇119:50には、「これこそ悩みのときの私の慰め。まことにみことばは私を生かします。」と書かれています。またコリント第一の手紙4:15で使徒は「この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」と述べています。また、「父はみこころのままに、(何によってですか。バプテスマによってですか。いいえ、そうではありません。)真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」(ヤコブ1:18)とも書かれています。ペテロは、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(第1ペテロ1:23)と宣言しています。 

 

 ですから、新生は神のみことばによるものなのです。そして神のみことばのひとつの象徴が「」なのです。神はご自分のみことばの性質をあらわすためにいろいろな象徴をお使いになっておられます。みことばは、明るくするところから「ともしび」にたとえられています。(詩篇119:105) またそれは「金槌」にもたとえられています。(エレミヤ23:29) 硬い心をも打ち砕くことができるからです。また「」にもたとえられています。清めることができるからです。(詩篇119:9、ヨハネ15:3、エペソ5:26を読んで下さい。「水によって生まれる」とは、神のみことばの清めと純化によって生まれることを意味しているのです。

 

3、        新生を生み出してくださるお方。「水と御霊によって生まれ」(3:5)聖霊こそが生み出

してくださるお方であり、神のみことばこそが聖霊がお用いになる「」です。(第1ヨハネ3:9) 「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(3:6) また、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(6:63) これ以上明らかな表現はありません。神のみことばなしで罪人がいのちをいただく方法はないのです。

 

神によってなされる新創造の順序は、ちょうど旧い創造からの再創造において神がとられた方法と同じです。このことの明確な記述は創世記1章に見られます。創世記の最初の節は、神の初めの創造に言及しています。第二節は、崩壊した後の状態を述べています。創世記1章の第1節と2節との間に何かある惨事が起こったと考えられます―おそらくサタンの堕落だったのではないでしょうか―そして神のうるわしい御手の業はだいなしになってしまったのです。創世記1:2をへブル語で字義的に読むと、「そして地は荒れ果て廃物となってしまった。」となります。けれども、アダムの創造の六日前に、神は改修の働きに着手されました。神が行われた創造の順序は注目に値します。まず、「やみが大いなる水の上にあり」ました(創世記1:2)。第二に、「神の霊は水の上を動いてい(へブル語では「覆っていた」)。」ました(1:2)。第三に、「神が、『光よ。あれ』と仰せ」られました(1:3)。そして第四に、「すると光ができ」たのです。この順序は、新しい創造とまったく同じです。まず、改心していない罪人は、霊的な死という「やみ」の中にいます。第二に、聖霊は彼の上、すなわち神がいのちを与えようとしておられる者の良心と心の上を動いています(覆っています)。第三に、神のみことばが力を持って働きかけます。第四に、みことばの働きかけの結果は光、すなわちその罪人はやみから神のうるわしい光の中へと移されるのです。ですから、聖霊こそが新生を生み出してくださるお方なのです。

 

4、        新生の絶対的必要性。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって

生まれなければ、神の国にはいることができません。」(3:5) 人はその最初の誕生によってこの世、罪に満ちた世界に入ります。それゆえ、人は神から切り離されるのです。改心していない者について、次のように言われています。「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4:18) これは非常に厳粛な事実です。アダムとエバが堕落したとき、彼らはパラダイスから追放されました。ですから、彼らの子孫はみなエデンの外で生まれたのです。罪が人を神の聖なるご臨在から締め出してしまったという事実は厳かにイスラエルの民に教えられました。モーセ(仲介者)に律法を与えるために神がシナイに降りて来られたとき、民のためにシナイ山の周囲に境が設けられ、民はかろうじて死から免れました。神がこの選ばれた民の真中にご自分のみ住まいを設けられたとき、至聖所の中にみ座を置かれました。そこは幕で仕切られ、大祭司が年に一度あがないの血を携えて入る以外、誰も入ることは許されていませんでした。このように、人は神から切り離されているのです。人は生まれつきのままでは、まさにあの放蕩息子のように、自分の故郷からも父の家からも遠く離れており、新しく生まれない限り、神の国に入ることはできないのです。

 

人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」 これは、決して気まぐれな命令ではありません。そうではなくて、不変の原則の宣言なのです。天国はととのえられた民のためにととのえられた場所です。そしてこれは至極当然のことです。霊的なことに喜びを覚えない改心していない者、信者との交わりを退屈に思う者、聖書に興味を示さないばかりか何の感動も覚えない者、恵みのみ座を知らない者が天国に行くなら、何と惨めな思いをすることでしょうか。そのような者が神のご臨在のもとで永遠をすごすことなどできるはずがありません。魚が水の中からすくいあげられ、金の盆の上に置かれ、甘い香りの花に囲まれ、美しい音楽が流れているのを想像してみてください。その魚は幸せを覚え、満足するでしょうか。そうではないのは言うまでもないことです。ではなぜでしょうか。それは、それが魚が好む環境ではないからです。その魚は、自分を取り囲んでいる状態に耐える能力を持ってはいないからなのです。

 

もう一度繰り返しましょう。新生は絶対的必要なのです。なぜなら、生れつきのままの人間はまったく霊的いのちを欠いているからです。彼が無知で説明を必要としているというようなことではありません。彼が衰弱しているので活力が必要なのでもありません。彼が病にかかっていて治療を必要としているのでもありません。彼の状態は、それどころではないのです。彼は咎と罪とに死んでいるのです。これは詩的表現ではなく、厳粛な現実なのです。しかも大多数の人々はこの現実に気づいていません。罪人は霊的にいのちがなく、それゆえいのちが与えられる必要に迫られています。彼は霊的な不具者であり、死からいのちに移される必要があるのです。彼は、神ののろいの下にある古い創造の中にある者で、キリストにある新しい創造に入れられない限り、永遠の滅びに至るのろいのもとにおかれたままなのです。生まれつきのままの人が、何にもまして必要なのはいのち、神のくださるいのちです。そして誕生こそがいのちへの入り口ですから、彼は新しく生まれなければならないということになります。新しく生まれなければ、神の国に入ることはできないのです。これこそが最終的なことなのです。

 

5、        新生の特質 では、新生とは何でしょうか。罪のうちに死んだ者と死からいのちに移された者

とを正確に区別する点はいったい何でしょうか。この点について多くの混同と無知があるようです。一般的な人々に対して、新しく生まれる必要があることを伝えるとします。するとその人は、その生活の方法を改善するか修正しなければならない、あるいはよく考え直してみなければならないとい言っているのだと思うでしょう。けれども改善とはその外面的なことにかかわるものです。ところが、人間の問題はその内側にあるのです。例えば、私の時計の主ぜんまいが壊れたとします。そのとき、新しいガラスをつけ、その時計の表面を顔が写るようになるまで磨いたとしたらどうでしょうか。それは何の助けにもなりません。と言うのは、問題はその時計の内部にあるからです。罪人についても同じことが言えます。その人の立ち振る舞いは申し分なく、道徳的正性格を見てもしみさえ見つけられないかもしれません。また、ことばを制する力もあり、ことばで罪を犯すようなことはないかもしれません。けれども「何よりも陰険で、・・・直らない」(エレミヤ17:9)心を持っている限り(そして神はそう言っておられるのです。)、それらすべては何の役にも立ちはしないのです。ですから新生とは、改善以上のことでなければならないのです。

 

またある人々、実は多くの人々が、新しく生まれるとは宗教的になるということだと考えています。教会に通っている一般的な人に、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言ってみてください。彼は、これらの厳粛なことばに少しも驚くことはないでしょう。彼はきわめて平静です。と言うのは、自分が新しく生まれた者だと思い込んでいるからです。彼は自分がずっとクリスチャンであると言うに違いありません。小さいころからキリスト教を信仰し、定期的に教会に出席し、そればかりではなく、自分は教会員であり、福音の働きの支援のために貢献しているとさえ言うかもしれません。彼はとても宗教的なのです。彼は常に幸福感を覚えており、いつも祈りをささげ、日曜日には聖書を読みます。これ以上彼に何が必要だというのでしょうか。このように、多くの人々はサタンにあやされて寝かしつけられているのです。もしもあなたもそのように考えておられるのなら、ちょっと立ち止まって、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と救い主が言われたのは、非常に宗教的なニコデモに対してであったという事実を真剣に考えていただきたいと思います。ニコデモは、ただ単に宗教的であったばかりではありません。彼は説教者でさえあったのです。そのニコデモに対して主は、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ」ならないと言われたのです。

 

 また、新生とは心を変えることだと考えている人もいます。そして彼らを納得させるのは非常に困難なことです。彼らは多くの説教者の説教を聴きました。正統派の説教者が、新生とは心を変えることだというのを聞いてきたのです。ですから、そのような教えが聖書的ではないにもかかわらず、この表現に意義を申し立てることなど考えたこともありません。創世記から黙示録までどこを探しても、「心を変える」などといった表現を見つけ出すことはできません。悲しいことに、「心を変える」というようなことは聖書的ではないばかりか反聖書的でさえあり、不真実であり、誤解を招くものです。新しく生まれた者には「心の変化」があったのではなく、その内と外の両方においていのちの変化があったのです。新しく生まれた者は、今まで彼が憎んでいたものを愛するようになり、今まで愛していたものを憎むようになるのです。その結果として、彼のふるまいのすべてに根本的な変化が生じてくるのです。ところが、それにもかかわらず、古い心(何よりも陰険で、・・・直らない)は最後までその人のうちにとどまり続けるということもまた事実なのです。

 

 それでは、新生とはいったい何でしょうか。新生とは、罪人から何かが取り去られるとか、罪人のうちに起こる変化とかいったものではないということです。そうではなく、それは罪人に対するある種の伝達、賦与です。新生とは新しい性質の賦与なのです。人が生まれるとき、その両親から性質を受け継ぎます。同じように人が新しく生まれるとき、神からそのご性質を受けるのです。ペテロ第二の手紙1:4に書かれているように、神の御霊は私たちのうちに、霊的な性質を与えてくださるのです。「その栄光と徳とによって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びをまぬがれ、神のご性質にあずかる者となるためです。

 

 ものは、まさにそのものの性質に似たものだけを生み出すことができるというのが基本的な原則です。創世記において、この不変の原則が繰り返し繰り返し述べられています。「それで、神は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ紀を生じた。」(1:12)と書かれています。また、「それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。」(1:21)とも書かれています。この聖書の宣言と異なった見解をするのは、ある種が別の種を生み出すことができると断言する無神論的進化論者たちの盲目さと敵対心のみです。植物から生まれるものは植物であり、動物から生まれるものは動物です。そして罪深い人間から生まれるものは罪深い子供なのです。悪い木がよい実を結ぶことはできないからです。「肉によって生まれた者は肉です。」 それ以外のなにものでもありえないのです。どれほど高い教育を受けようが磨こうが「肉」は肉のままです。水はその水位を超えることはなく、にがい泉が甘い水を供給することもできません。肉によって生まれた者は肉です。たぶんよく手入れされた肉かもしれません。美しいかもしれません。あるいは宗教的でさえあるでしょう。けれども、それはしょせん「肉」なのです。それとは対照的に、「御霊によって生まれた者は霊です。」 子は親の性格を受け継ぐものです。人から生まれた者は人であり、神によって生まれた者は神に似る者なのです。人によって生まれた者は罪深い者であり、神によって生まれるものは霊的なのです。

 

 ですから、新生の性質あるいは特質とは次のようなものです。それは外面的な改善ではありません。あるいは生れつきのままの人間に対する教育でもありません。また古い人を清めることでもありません。そうではなくて、新しい人の創造なのです。それは神による誕生です。(ヤコブ1:18) それは聖霊による誕生です。(ヨハネ3:6) それは新しく造られることです。(第二コリント5:17) それは神の性質を受け継ぐ者となることです。(第二ペテロ1:4) それはまた神の家族として生まれることなのです。ですから、すべての新しく生まれた者は、二つの性質を兼ね備えて持っています。一つは肉的な性質であり、もう一つは霊的な性質です。この二つはお互いに対立するものです。(ガラテヤ5:17) その結果、クリスチャンの心の中で絶えざる闘争が引き起こされることになります。古い人を制御することのできるのはただ神の恵みです。新しい人を養うことができるのはただ神のみことばなのです。

 

6、        新生の必重要性。「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを

不思議に思ってはなりません。」(3:7) ニコデモは驚いたに違いありません。キリストが強調されたこの宣言に、彼は動揺します。新生の不可欠的重要さと絶対的必要性について、彼はこれまで良心を働かせたことも、真剣に考えたこともなかったからです。彼は救い主の突き刺すような宣言にただただ驚いたのでした。しかし、彼は驚くべきではありませんでした。彼が唖然としてその場にたたずむ理由などなかったのです。キリストは、「不思議に思ってはなりません。」と言われました。それはあたかも、「ニコデモ、あなたに言ったことは明白なことではないか。もしあなたが罪人なら、罪のために神のことについて盲目なら、もしも宗教的教養が人間の基本的性質を変えることができないのなら、あなたの一番の必要は新しく生まれることではないのか。」と言っておられるかのようです。「不思議に思ってはなりません。」 それは当然の帰結なのです。

 

 神の国への入国は、新生、すなわち神のご性質の受領によってのみ可能となります。そしてこれはほかのどんな王国(領域)ででも適用される法則です。音楽の領域も誕生によって始まります。私に娘がいるとしましょう。私は彼女が熟練した音楽家になってもらいたいと願うとします。私はできる限り有能な教師を探し出して娘につけます。彼女は毎日一生懸命に和声楽を学び練習を積みます。そうすれば、ある日、私の願望は達成されるでしょうか。彼女は熟練した音楽家になれるのでしょうか。それはただ一つのことにかかっています。彼女は音楽的な素質を持って生まれてきているかどうかと言うことです。すなわち音楽家は作り出されるものではなく、そういうものとして生まれてくるのです。また、私に息子がいて、芸術家になってもらいたいと願っているとします。私は優れた教師を息子につけます。彼はデッサンのレッスンを受けます。また色彩について学びます。彼を美術館に連れて行き、偉大な芸術家の作品を彼に鑑賞させます。結果はどうでしょうか。彼は才能ある芸術家として花開くのでしょうか。やはり、この場合も一つのことにかかっています。彼は芸術家の素質を持って生まれてきたかどうかと言うことです。芸術家は作り出されるものではなく、そういうものとして生まれて来るものなのです。この基本的原則を説明するのに、以上の例は十分でしょう。人が音楽の王国に入りたいのなら、音楽の性質を持っていなければなりません。もしも美術の領域に入りたいのなら、芸術の素質を必要とします。数学者になりたいのなら数学的素質が必要なのです。これは「不思議」なことではありません。当然、自明のことなのです。ですから、人は霊的な世界に入ることができるようになるには、まず霊的な性質を持つ必要があります。神の国に入るには、神ご自身の性質を持たねばならないのです。ですから、「不思議に思ってはなりません。」「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と、主は言われたのです。

 

7、        新生のプロセス。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから

来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(3:8) ここでは、聖霊が風にたとえられています。これらの間には二重の類似性が見られます。第1、両者ともその行為において主権を持っています。第二、両者ともその機能においては神秘的です。「・・・も」ということばの中に類似性が示されています。第1の点は「その思いのままに吹き」という表現の中に見られ、第二の点は「知らない」ということばに見られます。

 

 「風はその思いのままに吹き、・・・御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 風はなにものによっても支配されることはありません。ですから、風はその行為において主権を持っていると言えます。風は、まったく人間の制御の手の届かない要素です。また風が人間の願いを聞くこともありませんし、人間の計画によって規制されることもありません。御霊も同じようです。風はその思いのままに吹き、御霊もまた思いのままに行為されるのです。

 

 また、風に抵抗することのできる者はいません。風がその猛威を振るうとき、その前にあるすべてのものは吹き飛ばされてしまいます。トルネードが通り過ぎたあとを見るとき、風の力がどれほど大きさなものであるのかを知らされるのです。御霊も同じです。御霊がご自身の持っておられる力をフルに発揮されるとき、人間の偏見を砕き尽くし、その反抗的な態度を征服し、すべての反対に打ち勝たれるのです。

 

 また風は不規則、変則的です。しばしば風は、木の葉さえ揺らさないほど非常にゆっくりと動きます。またあるときは、遠くからさえそのとどろきを聞くことができるくらい強く吹き荒れることもあります。新生についても同じことが言えます。ある人々に対して聖霊は傍観者には気づかないほど静かに働かれます。またある人々に対して、聖霊のお働きは実に力に満ち、急激で大変革がもたらされます。御霊のお働きは多くの人々に明白です。しばしば、風はある地域だけに吹き、あるときは広範囲に吹きます。御霊も同じです。今日は一人か二人の心の中でお働きなるかと思えば、明日は、あのペンテコステの日のように、群集全体の「心を刺す」ようなお働きをされるのです。けれども、御霊がごく少数にお働きになろうが多くの人々にお働きになろうが、御霊は人と相談されることはありません。御霊はご自分の思いのままにお働きになるのです。

 

 また、風は目に見えません。自然界の中で目に見えないものは非常にまれです。雨も雪もいなずまも目に見えますが、風は見ることができません。ですからそれはまさに御霊との類似点です。聖霊は目に見えないご存在なのです。

 

 風はまた、はかり知ることのできないものです。人間が説明することのできないものです。その起源、その性質、その動向などは私たちの理解を超えています。「それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」のです。そしてそれはまた聖霊のお働きについても同じです。聖霊の働きは、人間の理解を超えて行われ、また神秘的です。

 

 風は、絶対に必要なものです。まったくの無風状態が続くなら、植物は枯れてしまいます。風が全然なかったとしたら、私たちはすぐに弱りはててしまうでしょう。これは御霊の場合さらに深刻です。もしも聖霊がおられないとしたら、霊的ないのちは存在し得ないのです。

 

 最後に、風は元気を与え励ましてくれます。風のいのちを与える特質は、医者が患者に山か海辺で休息を取るようにすすめることから明らかです。聖霊についても同じです。聖霊は私たちの内なる者を強めてくださいます。聖霊は活力を与え、再生し、能力を与えてくださいます。ここでキリストがお用いになったたとえは実に的確でありました。「」という一語によって何と多くのことが暗示されていることでしょうか。上述のことがらを聖なるみことばの一つ一つのことばを深く学ぶことの重要性と価値の例としておきたいと思います。

 

神はいのちの始まりとその過程に関して、厚いベールをかけておられます。私たちが生きていることはわかりますが、ではどのようにして生きているのかを説明することはできません。いのちは自覚も認識もできます。けれどもその作用についてはおおいに神秘的です。このことは聖霊による新生においても同じです。この節で教えられていることを要約しておきましょう。「風はその思いのままに吹き、」 このことは明白な事実です。「が、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。」 ここに人間には不可解な事実が残されています。新しく生まれた者は、自分が新しいいのちを持っていることを知っており、その結果を享受しています。けれども、聖霊が私たちのうちでどのように作用してくださり、その頑固な意思をどのように砕いてくださり、どのように新しいいのちを私たちのうちに創造して下さったのかは、神のことがらに属するものなのです。

 

 次の章で私たちが学ぶ記事については、次のような質問にぶつかるでしょう。「真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人」(第二テモテ2:15)でありたいと願う読者は、この個所全体(3:9−21)を、自分で真剣に学んでいただきたいと思います。その際、とくに以下の問題を心にとめてください。

 

1、 9節はどのようなことを立証しようとしているのでしょうか。

2、 10節が示している厳粛な警告とは何ですか。

3、 地上のことと天上のことの違いは何ですか。

4、 エノクとエリシャについて考えると13節はどのように理解すべきでしょうか。

5、13節ではキリストのどのような神としての属性が見られますか。

6、14節とその文脈との関連は?

7、十字架上のキリストをあらわすために神はなぜ「へび」をお選びになったのでしょうか。 14節 民数記21章の最初の9節を注意深く学んでください。