第7章 キリストの宮清め

ヨハネ2:12−25

 

その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。」(2:12) この節は、カナの婚礼と宮清めの出来事の間の挿入のかたちで出てきます。この章のほかのどこにおいてもそうであるように、この出来事は二つの見地、すなわち直接的応用と将来的な応用の見地から学ぶことができるでしょう。その両方の見地において、「カペナウム」の言及が鍵となります。そして、この「カペナウム」は二つのことがらを表わしています。すなわち神のあわれみと神のさばきです。マタイ1123を参照してください。

 

まず直接的応用から取り上げてみましょう。この節は、ほんのしばらくの間イスラエルが神の特別なあわれみのもとに置かれていたことについて述べています。イエスの母は(本書の前章ですでに見たように)イスラエルの国、ことにイスラエルに与えられていた特権を表わしています。というのは、彼女はすべての女の中でもっとも恵まれたものであったからです。また、「主の兄弟たち」はイスラエルの国の不信仰を表わしています。このことはヨハネ7:5によって明らかです。「弟子たち」は主を信じたイスラエルの中の残りの者を表わしています。2:11を読んでください。このような人々といっしょに主イエスはカペナウムに行き、「長い日数ではなかったが、そこに滞在された。」のでした。神の特別なあわれみをイスラエルが経験したのは決して長い期間ではありませんでした。キリストはすぐに彼等から離れていかれるのです。

 

 この12節はまた預言的な意味も含んでいます。この二重の応用が含まれていることは「カペタナウム」ということばの二つの意味から明らかです。カペナウム、それは天にまであげられたのですが、また地獄までおとされなければならなりませんでした。ですから、主は「カペナウムに下って行き」と書かれているのです。このように、カペナウムがイスラエルの国を表わしていることは確かです。彼らはおどろくほどの神のご好意を享受していました。そしてそれゆえ彼らはまた厳しく罰せられるべきでした。彼らは懲らしめの場に降るべきなのです。これこそがカペナウムが私たちに教えていることがらです。そして、これはまさにユダヤ人がこのクリスチャンの時代に置かれている場所です。

 

さて、この個所、宮清めの記事の要約と簡単な分析をしておきましょう。

1、宮清めの時期    13節

2、宮清めの必要性   14節

3、宮清めの方法    15,16節

4、宮清めの理由    17

5、ユダヤ人たちのしるしの要求とキリストの回答 18―22節

6、エルサレムでのキリストの奇跡と、そのおもわしくない結果  23−24

7、人の心を知っておられるキリスト  25

 

 私たちはこの記事を学ぶために、ヨハネ2章の前半を学んだのと同じ方法を取りたいと思います。まず第一に、この宮清めの持つ比喩的な意味について考察し、第2にその実際的指針について学ぶことにしましょう。

 T 比喩的な意味

 読者の皆さんに本章の学びの準備として考えていただくために、前章末に掲げた最初の質問は、「宮清めの記事がどうしてここに置かれているのか」というものでした。注意深く学んでおられる読者は、ほかの福音書では宮清めが主の公生涯の終わりに、つまり主が逮捕される前に行われたご行為として扱われていることに気づいておられることでしょう。しかし、聖霊はこの福音書においては、主の宮清めを公生涯の初めの部分に置くようにされました。大多数の注解者は、この二つの出来事はまったく別の出来事であり、その間には3年間の時間の経過があるのだと言っています。この考え方を支持するためのいくつかの妥当な理由があげられていますが、それらの理由のすべてが妥当かどうかは疑問の余地があると思います。個人的には、マタイ21:12−13に記録されている出来事はヨハネ2章に記されている出来事と同じであり、聖霊は、ご自身のある重要な理由のために、(この福音書の中でしばしば見られるように)その時間的順序を無視して記録させてくださったのだと固く確信しています。その理由を以下にあげてみたいと思います。その前に、私たちがなぜこのヨハネ2章に記されている宮清めと、マタイ21:12−13に記されている宮清めとが同一のものであると信じるのかについて述べておきたいと思います。

 この二つの記事の類似性は、これらが別の出来事であるという反論することができない証拠がない限り、これらがひとつの出来事であったと言うことを信じるのが妥当であると思えます。七つの類似性をあげてみましょう。

 第1に、マタイはその宮清めを過ぎ越の祭りの始まりに置いています。そしてヨハネも、「ユダヤ人の過越の祭りが近づき」と言っています。(2:13)

 第2に、マタイは、神殿で「売り買いする者たち」(21:12)について言及しています。ヨハネもまた、「牛を売っている者たち」(2:14)について書いています。

 第3に、マタイは「鳩を売る者たち」と言い、ヨハネも「鳩」に言及しています。

 第4に、マタイは、キリストが「両替人の台・・・を倒された。」(21:12)ことに言及し、ヨハネもまた、「両替人の金をまき散らし、その台を倒し」(2:15)と述べています。

 第5にマタイは、キリストが「宮の中で売り買いする者たちをみな追い出」されたことについて記録し、ヨハネもまた「境内から追い出し」になったことについて述べています。ギリシャ語では両方とも同じことばが使われています。

 第6に、マタイは、キリストが、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」と宣言されたことを述べ、ヨハネもまた、「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2:16)と言われたイエスのおことばを記録しています。主がこれら両方の宣言を同じ関係に置いて述べられたことは確かです。ただヨハネは主の御子性を強調して記録しているのです。両方の宣言に置いて、キリストは神殿が神のものであることを述べておられるのです。

 第7に、マタイは、どのようにキリストがベタニヤで夜を過ごし、次の朝エルサレムに戻られたのかを記し、神殿で教えておられたとき、祭司長や民の長老たちは「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか。」と尋ねたことを記しています。(21:23) ヨハネもまたキリストが宮を清められたとき、ユダヤ人たちが「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか。」(2:18)と、キリストに尋ねたことを記しています。

 

 もしも私たちの結論が正しいとすれば、宮清めは主の公生涯の最後の部分でなされたことになります。そして最初の質問が再び起こります。なぜ聖霊は、この出来事を時間的順序から切り離して、水をぶどう酒に変えられた奇跡の次に置かれたのでしょうか。この質問に対する答えはそれほど難しいものではないと私たちは信じています。カナの婚礼の記事と並列してこの記事が置かれたのには二つの理由があります。第1に、ユダヤ教の悲惨的な堕落のさらなる証拠をあげるため、第2に、ヨハネ2章が示す王国におけるキリストの預言的な描写を示すためです。これらの点について詳しく述べましょう。

 前の章において、ヨハネの福音書最初の部分において二つのことがら、すなわちユダヤ教が除外されたこと、およびユダヤ教からキリストに向けられたことが繰り返し述べられていることを指摘しておきました。このことは前章においてかなりの紙面を使って強調しておきました。そこで、カナの婚礼でぶどう酒がなくなったこと、また六つのかめがそこにからの状態で置かれていたことは当時のイスラエルの霊的状態、すなわち彼らが結婚の喜びを失い、霊的な生活を欠いていたということを表しているのだと述べました。

 

 私たちが今読んでいるこの箇所では、さらに悲惨的な絵が私たちの目に飛び込んできます。ここではすべての影や象徴はなくなり、ユダヤ教のみじめな状態が直接的に指摘されています。この段階に至るまで、イスラエルの霊的な悲惨さは消極的に表現されていました。メシヤは今や彼らのまっただ中におられました。けれども、主の先駆者はエルサレムから使わされた使節団に対して、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(1:26)と言わなければなりませんでした。また、第2章の最初の部分で「ぶどう酒がなくなった」(2:3)と書かれています。ところが、ここ2章の後半においては、存在していた積極的な悪がありのまま記されています。すなわち神殿はけがされていたのでした。

 

 「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。」(2:13) ここに最初の鍵があります。「主への過越」(出エジプト12:11)は「ユダヤ人の過越の祭り」と化してしまっていました。けれども、これは、特に今私たちが指摘したいことがらではありません。特別に注意を払っていただきたい点とは、ここに記されている「時」です。二つのことがらが互いに結びついています。過越と宮清めです。今、読者は、過越を守るために神が求められたことの一つは、神の民の家の中からすべてのパン種が取り除かれることであったことに気づかれることでしょう。過越の時期というのはすべてのユダヤ人家族にとって忙しいときでありました。それぞれの家族はきびしい検査を強いられていたのです。パン種というかたちの儀式的汚れが見出されなければなりませんでした。「あなたの家からパン種を取り除け!」こそが律法の要求であったのでした。

 さて、イスラエルの中心的な清さは父の家、神殿にありました。イスラエルは神殿において神を礼拝しました。それこそが、彼らを神に愛されている民として他の国から大きく分ける中心的なことがらの一つであったからです。彼らのまっただ中に宿っておられるヤーウエについて他の国々の人々は何を話すことが出来たでしょう。そして今や、彼らのまっただ中に、ヤーウエご自身が受肉していたもうのです。何という光景が主の御目に映ったことでしょう! 祈りの家が商売の家と成り下がってしまっていたのです。礼拝のための聖なる場所が今では「強盗の巣」となっていたのでした。暗やみの中に輝き、ことの真相を明らかに指し示している光を見てください。間違いなく神殿の擁護者たちは、この非難に対して言い訳をしたことでしょう。このような、神殿の庭で商売をしていた両替商人家畜を売る者たちは、礼拝のために神殿を訪れる人々の便宜をはかってそこで商売をしていたのだと反論したことでしょう。けれどもキリストは彼らの本当の動機を暴露されます。「強盗の巣」とは金銭への愛、どん欲を示すことばです。

 では、どん欲とは何なのでしょうか。どん欲のための神の象徴は何でしょうか。これらの質問にみことばの光を当ててみましょう。第1コリント5:6−8で述べられていることに注意を払ってください。聖霊は使徒パウロを通してコリントの信者に対して次のように言われました。「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」  彼がここで「パン種」という比喩をもって言及していることは何なのでしょうか。この続きに注目してください。「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。」(第1コリント5:9−10) ですから、ここで「パン種」はどん欲、略奪を示しているのです。たて、ヨハネ2章にもどりましょう。過越の祭りは間近に迫っていました。それはイスラエルの民の住まいの中からすべてのパン種が取り除かれなければならないときでした。そんな時期に、神殿の中に、どん欲に駆りたてられ、略奪を行っていた家畜を売る者や両替商人がいたのです。何という恐るべき光景でしょうか! 神の神殿にパン種があったのです!

 

 さて、もう一つの記事に目を向けてみましょう。コロサイ人への手紙3:5節には次のように書かれています。「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」 ああ! これはイスラエルの傲慢のむなしさを表してはいないでしょうか。彼らは自分たちが異邦の神々を礼拝してはいないこと、自分たちが唯一の神を信じていることを誇りにしていました。ユダヤ人は自分たちが偶像礼拝という姦淫の罪を犯していないことで傲慢になっていました。ところが、神の御子は、姦淫、すなわちむさぼりの罪を父の家でご覧になったのです。もう一度、第1コリント5:10の命令に注目してください。どん欲と略奪と偶像礼拝の三つが「パン種」の象徴するものとして述べられています。これこそが、聖霊がこの福音書の中で、この出来事をここにおいてくださった第1の理由なのです。それはそれ以前に示されていたことがらのクライマックスとして置かれているのです。そレら三つのものを並べ、それらが私たちに示すユダヤ教の絵を観察してください。第1に盲目の祭司職(ヨハネ1:19−26)、第2に喜びを失った国(ぶどう酒がなくなった、ヨハネ2:3)、そして第3に、汚された神殿(ヨハネ2:16)の絵です。

 

 では次の点に移りましょう。

U、実際的な教訓

1,   私たちはここで、父の家に対するキリストの聖なる熱心さを見ます。聖地から遠く離れた地域

から来る礼拝者たちにとって、犠牲のために使う動物を手っ取り早く買い求めることができるのは非常に便利でした。商人たちはこの需要に素早く反応し、聖なる境内のより近くへとお互いに競い合って侵入していったのでした。それも犠牲のため動物であるというもっともな理屈をつけて、神殿の外庭で商売をしていたのです。この庭は約14エーカー(5660平方メートル)の広さがあり、胸の高さほどの壁で中庭と分けられていました。この中庭には異邦人が入ることは許されず、入るなら死刑に値すると公示されていたのです。この外庭の周囲には豪華に装飾された大理石の柱廊が設けられており、それは四列に並んだ柱で支えられており、商売人たちのために広々とした日陰を作るために、ヒマラヤスギで屋根がつくられていました。

 

 家畜を売る者やはとを売る者ばかりでなく、両替人たちもいました。と言うのは、ユダヤ人たちはだれでも一年に半シェケルの税を神殿に払わなければならなかったのですが、この税金は神殿のための貨幣で支払わなければならなかったからです。外国の王に屈服しているしるしとしての外国の貨幣許は神殿を汚すものとして、神殿での使用は許されていなかったのです。このために、帝国の遠方から祭りのために上ってくるユダヤ人ばかりでなく、パレスチナに住んでいる人々のためにも両替が必要でした。当時一般的にはシェケルのかわりにローマの通貨が使用されていたのです。

 

 「家畜を売る者、両替人たちが利をむさぼっていたことは周知の事実でした。ですから主が『強盗の巣』という表現は当を得ていたので。あわれにも貧しい人々はだまされていました。そして神を礼拝することを助け豊かにするどころか、妨げられ、また虚弱化されていたのでした。神の御前に静まり、神との交わりを求めて遠くから神殿を訪れた礼拝者たちは、物売りたちの勧誘を断わり、家畜売り場から聞こえてくる口論や叫び声によって神への祈りの思いがかき消されてしまうのでした。多くの人々がこのことを悲しく思ってはいたのですが、だれひとり、この紛れもない冒涜を譴責し撤廃させるほどの勇気を持ってはいませんでした。」(ドッズ) けれども主イエス・キリストは、ご自分の父なる神様の家が汚されるのを見過ごすことはできませんでした。神への熱心は主を食い尽し、主は躊躇することなく、神殿を汚している者たちを一掃してくださったのです。

 

 2、「細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、」(2:15) キリストの神性はどのようにして表されたのでしょうか。第1に、主は、「父の家」とお呼びになった神殿とご自身とを同一視されました。そうすることによって、ご自身の御子性を表明されたのです。そのようなことはだれも夢にさえ考えたことのないものでした。モーセもソロモンもエズラも会見の幕屋や神殿を「父の家」などと呼んだことはありませんでした。キリストのみがこのように言うことのできる唯一のお方なのです。

 

 3、この出来事は、今日一般的にほとんど無視されているキリストのご性格の一面を私たちに示しています。私たちは主イエスが優しくあわれみ深いお方であると考えています。そして、それはそのとおりなのです。けれども、これが主のご性格のすべてではないと言うこともまた事実です。神は愛であると同時に光でもあられます。神は無限に恵み深いお方であると同時に、どこまでも義なるお方です。慈悲に富むお方であり同時に聖なる神なのです。このことを忘れるべきではありません。みことばは次のように述べています。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(へブル10:31) 主に反抗しているすべての者たちでさえ、やがてこのことがわかります。みことばは「子羊の御怒り」について述べています。そしてここで、このことの神聖な描写がなされています。恐ろしさのあまりに、主の燃える目と振り上げられた御手から逃れた無抵抗の両替商人や家畜を売る者たちのありさまは、主のさばきの御座の前に立たされるということがどのようなことであるのかを私たちに警告しているのです。

 

 4、この出来事は、今日における祈りの家の冒涜を非難しています。もしも主イエスが「祈りの家」であるべきであった神殿が冒涜されているのをご覧になったとき、主の聖なる御怒りが燃え上がったのなら、もしも神殿での偶像崇拝的な商売に対してこのように激烈な方法きよめるべきであるとご判断されたのであったのなら、主は現代において、どれほどご自身の御名をもって建てられている多くの教会もまたそのような必要を覚えられることでしょうか。悲しいことに歴史の中でこのような悲劇が何回となく繰り返されてきたことでしょうか。あまりにもたくさんの教会において、アイスクリーム・サンデー、バザー、(世俗的な)映画会やその他のエンターテイメントが開かれています。まさに、「祈りの家」における偶像崇拝的商売がなされているのです。疑う余地もなく、このようなことがらは霊的な要素を欠いており神の御力とは無関係なことがらなのです。主は、霊的なことがらとこの世的なものとの融合を嫌われるお方なのです。

 

 5,前章の終わりにあった質問の一つは、「なぜキリストは鳩を追い出されなかったのか。」というものでした。その答えはイザヤ書52章13にあります。そこで神はご自身の預言者を通して来たるべきメシアについて宣言しておられます。「見よ。わたしのしもべは栄える。」(KJVでは、「見よ、わたしのしもべは慎重にふるまう。」) キリストの「慎重さ」は、この宮清めのときにおとりになった処置の方法によって著しく立証されています。注意深い読者は、主がその御怒りの対象の違いによって注意深く区別されてあたられたことに気づいておられることでしょう。主が追い出された牛や羊はこの処置によってそれらを失う危険性はありませんでした。主が地面にまき散らされたお金は、また容易に拾い集めて持ち帰ることができます。鳩に関しては、主はそれを神殿から持っていくように命じられました。もしもそれ以上のことをするなら、鳩は飛んでいってしまうでしょう。そうするなら、その鳩の持ち主は鳩を失うことになってしまうわけです。このように、完全なお方は、熱心とともに知恵も持ち合わせておられました。モーセやエリヤが同じような状況下で行った行為と大きな違いがありました。キリストは御怒りの中にあっても慎重さを持っておられました。キリストは明確に非難をされました。けれども誰にも傷を負わせるようなことや損害を及ぼすようなことはなさらなかったのです。私たちにこのような完全な模範を残してくださったお方から、私たちは学ぶことができますように!

 

 6,「そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。『あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。』」(2:18) この「しるし」の要求は彼らの盲目の状態を指し示し、バプテストのヨハネの言ったことの証拠となっています。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」(1:26) 彼らに「しるし」を与えると言うことは、まさに彼らの不信仰を確認することに他なりませんでした。神の家を汚していた者たち、すなわち聖なる神にたいして当然払われるべき敬意を完全に欠いていた彼らは確かに盲目であったといわなければなりません。そしてイエスは彼らをそのように扱われました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(2:19) 主は彼らには理解できない表現で語られました。「そこで、ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。』」(2:20−21) ではなぜ主はこのような不明瞭な表現をお使いになったのでしょうか。他の箇所で主がおっしゃっておられるとおりです。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:13) けれども実際は、このユダヤ人たちに対する主イエスのお答えは実に的を得たものでありました。ご自身を死人の中から復活させることによって、主が肉体を持って現れてくださった神であることの最終的証拠を提供することになるからです。そしてもしも神であるなら、主の御名を汚している神殿をきよめる明白な権限を持っておられることになるわけです。この箇所に記されている主のおことばと、同じ出来事について述べられているマタイの福音書21:24−27に記されている主のおことばをくらべてみると非常に興味深いものがあります。主の権威についてユダヤ人が挑んできたとき、マタイは、主がご自身の先駆者の証言をもって訴えられたことを記しています。先駆者の証言は主に肉におけるユダヤ人のために与えられたものでした。けれどもヨハネは、私たちの主がご自身の復活をもって訴えておられることを書き記しています。なぜなら、これは主の神性を表しているからです。そしてそれは信仰をもつすべての人々にとって明白な価値を持っているものであるからです。

 

 7,前章の終わりにかかげたもう一つの質問は、「主ご自身の弟子たちは、主のよみがえりを信じていたのでしょうか。」でした。その答えは、いいえ、彼らはそれを信じてはいなかったと言うことになります。その証拠は決定的です。救い主の死は彼らの希望を打ち砕きました。主のご復活を待ち望んで、三日間エルサレムにとどまるどころか、彼らは自分たちの故郷へと帰っていったのです。マグダラのマリヤが主の弟子たちのところに行って、よみがえられたキリストに出会ったことを告げたとき、彼らは「それを信じようとはしなかった。」のです。(マルコ16:11) 二人の弟子たちがエマオから帰って、どのように救い主が現れて下さり、いっしょに歩いくださったのかを報告したとき、ほかの弟子たちは、「ふたりの話も信じなかった。」(マルコ16:13)と書かれています。このような目撃証言も彼らにはたわごととしか思えなかったのです。(ルカ24:11) これはどのように解釈すべきなのでしょうか。弟子たちのこの頑迷な不信仰を、いったいどのように説明できるのでしょうか。ああ! 主の種蒔きのたとえの教えの中にその答えが見いだせるのではないでしょうか。たましいの恐るべき敵が来て、まかれた「種」を持ち去ってしまうことを、主は警告しておられます。このことがまさにこの弟子たちの上に起こったのでした。彼らは、主がご自身のおからだである神殿を三日間で建てると言われるのを聞いていました。けれどもこのすばらしい御約束を彼らの心に大切とどめ、それによって慰めを得るかわりに、彼らの不信仰はサタンがその御約束を持ち去ってしまうのを許したのです。彼らの不信仰と呼びましょう。なぜなら22節に次のように書かれているからです。「それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。」 主がよみがえられるまで、彼らはこの御約束を「思い出して、イエスの言われたことを信じることはなかったのです。そででは、そのことを思い出させたのはいったい何だったのでしょうか。ああ、主が十字架にかけられる前の夜に言われたことばを思い起こさないでしょうか。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(14:26) 2:22には、なんという明確でうるわしい絵が描かれていることでしょうか。

 8,「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、」(2:23,24) 何ということばでしょうか! 人間の堕落を証明しています。堕落した人類を神は信用されません。エデンの園においてアダムは、肉における人間が信頼に値しないものであることを示しました。律法は人が神の信用を受けるにふさわしくないことを証明しました。そして今ここでも、同じ判断が主イエスご自身によって、人の上にくだされています。「人の感情は感動するかもしれない。人の知性は教化されるだろう。人の良心もまた悟らせられるかもしれない。しかしそれでも、神は人を信用することはおできになれない。」(JEB)と言われているとおりです。肉に着く人は、有罪なのです。ただ新しく造られたもののみが神の御前に立ちうるのです。人は「新しく生まれ」なければなりません。

 

 9.「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」(24) ここでの主の模範は私たちに対する警告でもあります。光るものがすべて金ではないということをよく覚えておくべきです。わずかな期間の知り合いの表面的な友情を鵜呑みにするのは賢明ではありません。思慮ある人なら誰に対してでも親切でしょう。しかし、ほんのわずかな人に対してのみ親密になりうるのです。故ライル博士はこのことに関して実用的な助言を残しています。ほかの問題に関して述べている中で彼は、「軽率に自分自身を他人の支配力の中に置かないように注意すべきである。一般的な嫌疑心と、自分自身を物笑いの種とし見栄や偽善のえじきとするほどの嫌疑心との間の賢明でよろこばしい穏和さを身につけるように心がけたいものである。」と言っています。

 

 10,「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。」(24) ここで、救い主が人間の心の奥底までも完全に知っておられるのだということが教えられています。人々は神の御子であらせられるお方を強いることなどできるはずがありませんでした。主は、彼らがただの「石地」の心を持った聴衆であり、そのために彼らを信頼することなど出来ないということをご存じでありました。彼らはただ知的にわかっていただけに過ぎませんでした。我らの主はこのことを見破っておられました。主は、彼らの告白が心からのものではなかったことをご存じだったのです。彼らの心を読みとることによって、主はご自分の全知性をお示しになっておられます。このヨハネ2章の終わりの部分で述べられていることの真意は、第1列王記8:39節と比較することによってさらに明らかとなることでしょう。「あなたご自身が、あなたの御住いの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。」

 

 ここでの学びで、あと残されている点は、この章の第一と第二の部分に記されている出来事、すなわちカナの婚礼において水をぶどう酒に変えられた奇跡と宮清めに見られる非常に印象的なコントラストについてです。1,第一の出来事においては祝いの集まり、第二の出来事においては神のさばきの光景です。2,第一の出来事において、主はその婚礼に招かれておられたお方として描かれ、第二の出来事においては、主ご自身が主導権を持っておられました。3,前者の出来事の場合、主は人間の手をお用いになりましたが、後者はすべてをご自身だけで行動されました。4,前者の場合、主はぶどう酒をご提供になり、後者では神殿を空っぽにされました。5,前者において、ぶどう酒を作り出すことによって主は人々からほめられましたが、後者では主は人々から反対をお受けになりました。6,前者で、主はご自身の死についてご指摘になり(2:4)、後者において主はご自身のご復活をご指摘になっておられます(2:19,21)。7,前者において、主は「ご自分の栄光を現わされ」、後者において、父なる神の家に対するご自身の「熱心」を現わされました。(2:17)

 

 次のレッスンの準備として、祈りのうちに次の質問について学んでください。次はヨハネ3章の前半について講解することになります。

1,   なぜこのつながりにニコデモが登場するのでしょうか。1

2,   どうして彼が「夜」イエスのもとに来たと書かれているのでしょうか。2

3、     ニコデモの結論は正しかったでしょうか? 2

4、     なぜ人は「新しく生まれ名ければ」神の国を見ることができないのでしょうか。 3

5、     ニコデモの無知は何を示していたのでしょうか 4

6、     「水によって生まれる」とは何を意味しているのでしょうか。5

7、     風が吹くことが、回心における聖霊の働きとどのような点で類似性があるのでしょうか。8節