6章キリストの最初の奇跡

 

 

まず初めに、この個所の要約と簡単な分析をしておきましょう。

1、この奇跡の背景。カナにおける結婚式    1節

2、イエスの母マリヤの出席    1節

3、招かれていたイエスと弟子たち 2節

4、マリヤの申し出とキリストの拒絶 3,4節

5、マリヤの従順 5節

6、奇跡 6−8

7、奇跡の結果 9−11

 

 

この個所を三つの方面から学んでみたいと思います。まず、象徴的な意味から、第二にその預言的な応用、そして第3に実践的な教訓という方面から考えてみましょう。聖霊はここで一つの絵の中に三つの内容を織り込んで描いておられるかのように思われます。絵はさまざまな色を使ってだんだん仕上げられていきます。先ず最初は黒い輪郭線です。それからその上に、場合によってはまず赤か黄色、それから最後に青か茶色、さらにその上にほかの色が加えられていきます。このようにして色彩がほどこされ、絵が完成していくのです。絵画にたとえてこの箇所を見るとすれば、今私たちの前に置かれているヨハネの福音書2章の前半の神が描かれた絵の中の異なった色調を別々に観察していくのが私たちのこの章での目的です。

 

1、     象徴的な意味

ヨハネの福音書第2章が、「それから」ということばで始められていることに注目してください。これ

はその出来事が、前の章に述べられている出来事と密接に関係していることを意味しています。ヨハネの福音書1章(18節までの初めのことばに続く部分)で述べられている事柄の一つは、ユダヤ教の堕落と、ユダヤ教からキリストへの移行ということでした。(サンヒドリンの無知に見られる)ユダヤ教の堕落は、ヨハネが誰であるのかを審査するために祭司とレビ人がエルサレムから遣わされたことによって明らかになりました。(1:19) このことはバプテストのヨハネの悲惨的な宣言によってさらに明らかとなります。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」(1:26) これは、1:11に見られる悲惨的なことばの言い換えに過ぎません。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(1:11) このように、イスラエルの宗教的指導者たちは盲目になっていたので、彼らの真ん中に立っておられたキリストを知ることも旧約聖書が指し示していた主の先駆者を認めることもできなかったのです。

 

ユダヤ教はその心といのちを失った抜け殻に成り下がっていました。もはやただ一つのことだけが残されていました。ユダヤ教が排除され、「さらにすぐれた希望」(へブル7:19)がもたらされることでした。それはガラテヤ4:4に書かれているとおりです。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」 そうです。今や神の定めの時が来たのです。キリストがおいでになるために時は熟しました。キリストの必要性は十分に論証されていました。ユダヤ教は除外されなければならなかったのです。このことの典型的な絵がヨハネ1章でした。バプテストのヨハネは旧約聖書のシステムを終わらせました。(「律法と預言者はヨハネまでです。」ルカ16:16) そしてヨハネ1:35−37で、ヨハネのふたり(これは証言のために必要な数です。)の弟子は彼から離れて主イエスに従っていきました。

 

同じ原則が、今私たちが学ぼうとしているこの箇所にも示されています。婚礼の記事が書かれており、その中心になるのが、ぶどう酒がつきてしまったことです。この比喩を解釈するのは難しいことではありません。みことばにおいて「ぶどう酒」は「喜び」を表わすものです。次のみことばがそのことを示しています。「また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。」(詩篇104:15)  しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』」(しし9:13) このヨハネ2章に記されていることは何と当を得た内容であることでしょうか。実に的確な絵ではありませんか。ユダヤ教は宗教システムとしてはまだ残ってはいました。けれどもそれはもはや人々の心に何の慰めも与えることはなかったのです。それは神にある喜びを失い、冷たい機械的な単なる習慣となってしまっていました。イスラエルはその婚約の喜びを失っていたのでした。

 

さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。」 (6) 何という悲惨的なユダヤ教の描写でしょうか。「6」は人間を表わす数です。人は六日目に作られたからです。また獣について、次のように書かれています。「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」(黙示録13:18) そうです、そこには、完全数の七つではなく、人間を表わす六つの水がめが置いてありました。ユダヤ教に残されていたものは「肉」であり、神はそのうちにおられませんでした。あとで読むように、もはや「主の例祭」(レビ23:2)ではなく、「ユダヤ人の過越の祭り」(2:13)となってしまっていたのでした。

 

これらの六つのかめが、あがないを表わす「銀」でも「神の栄光」を現す金でもなく、「石」で作られていたことにも注目すべきです。イザヤ書1:22で「おまえの銀は、かなかすになった。」と書かれている、また哀歌4:1で「ああ、金は曇り」と書かれているとおりです。ですからこの「石の水がめ」には深い意味が含まれているのです。さらに注目すべきは、その水がめが空っぽであったという点です。これまた、当時のイスラエルの状態をみごとに描写しているとは言えないでしょうか。確かにぶどう酒はつきていたのです! それを供給するために必要であったのは、キリストご自身でした。ですから、この章は即座に、神にある喜びを供給できる唯一の存在としての「主ご自身」に注目が向けられるのです。このようにして、ヨハネの福音書2章はユダヤ教の失敗のもう一つのかたちを示し、私たちの注目をユダヤ教から救い主へと向けさせてくれるのです。こういうわけで、2章が1章に引き続き同じ課題を扱っていることを示すために、「そして」と言うことばでこの章が始まっているのです。

 

私たちがたった今考察したことがらと一致してさらに踏み込んだ事実は、カナの婚礼の絵の中で、イエスの母が突出した立場を保っていると言うことです。ここで彼女は、例えば使徒1:14などのように彼女の名前で書かれてはいないと言う事実に注目すべきです。「イエスの母」(2:1)と呼ばれています。ですから、ここではマリヤが、彼女自身ではなく「ある人々」を象徴していることがわかります。ヨハネ1章でバプテストのヨハネが占めていた位置にマリヤがついています。彼女はイスラエルを表わしているのです。彼女を通して昔に約束されていた「子孫」がおいでになったので、マリヤはここではアブラハムの子孫全体を象徴しているかたちで描かれています。

 

では、ここで聖霊はマリヤについて何を記録しておられるのでしょうか。この絵の中での彼女の行為は彼女が象徴している立場を表わしているのでしょうか。確かにそうなのです。記録は非常に要約されていますが、その記録はこの箇所を解釈するためには十分です。イエスの母は霊的識別力の痛ましいほどの欠落を示しています。彼女は主に命令をしているかのように見えます。明らかに、彼女は思い切って救い主に注文をつけ、何をすべきかを命じたのです。このときの主のお答えをほかのどのような方法で説明できるでしょうか。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」 これは叱責のおことばです。そしてこれはまさに、栄光の主として当然主がお受けになるべき尊敬と崇敬を主に持つことに失敗してしまった彼女に対してのご警告のおことばであったわけです。

 

このような通常のマリやでは考えられない主への干渉は、後の出来事から推測して主の不信仰な「兄弟たち」(マリヤとヨセフの息子たち)の肉的な動機によってうながされたものであると思われます。ヨハネ7:2―5には次のように書かれています。「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。『あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。』兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

 

マリヤは、救い主にご自身の力と栄光を公に表わしてほしいと願っていました。そしてまさにこの点で、彼女はユダヤ人の象徴であったわけです。イスラエルは受難のメシヤについての考えもまたそのような心もありませんでした。彼らの思いのうちにあったことと言えば、この地上に即座に王国を設立してほしいという願いだけでした。キリストの使命の真の性質について、マリヤは(その時点で)無知であったため、時機をわきまえないで主の力と栄光を公に現してくださることを願い求めたのです。この願いを拒絶されたキリストのおことば、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」の中に、このカナの婚礼の象徴的な意味、すなわち血筋によるイスラエルが除外された事実を見ることができるのです。

 

2,預言的な応用

ヨハネの福音書2章の前半に記されていることがらは、当時のイスラエルの状態を越えているように見えます。カナでキリストが行われた奇跡は預言的な意味も含んでいたのです。みことばの多くの箇所がそうであるように、私たちが学んでいるこの箇所もまた二つの見地から学ぶ必要があります。すなわち直接的な応用と、間接的な応用です。私たちは、この出来事直接的な意味であると私たちが信じていることがら、すなわちその象徴的意味についてについて考えてきました。次に私たちはもう少し未来にある預言的な応用についてしばらく考えてみたいと思います。

 

それから三日目に、」ということばで2章は始まります。聖霊は私たちの目の前に「三日目」を提供していてくださいます。三日目は復活の日です。また三日目は水の中から陸が作られた日でもあります。三日目には植物が地上をおおった日でした。(創世記1:9,11) ホセア書6:2には、ヨハネ2:1とくらべるべき重要なみことばがあります。「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」 ほとんど2000年(神の御目には二日:第2ペテロ3:8を参照)、イスラエルは王も祭司も家もない状態が続いています。しかし、二日目はほとんど終わります。そして三日目の夜明けがおとずれるときには再成が起こるのです。

 

ヨハネの2章は将来のための陰を提供してくれています。それはキリストの象徴的絵画を与えてくれています。 イスラエルの離散の二日目(2000年)に続く三日目の絵です。それからイスラエルはイエスを受入れることになります。と言うのは、彼らが「主の御名によって来る人に、祝福があるように。」(詩篇118:26)と言うとき、主はこの地上においでになるのです。そして、主は新しいイスラエルと結婚をしてくださるのです。イザヤ書54:、ホセヤ書2などを読んでください。キリストは水をぶどう酒に変えてくださる、すなわちイスラエルの心に喜びを与えてくださるでしょう。そしてイスラエルは異邦の民(彼らのしもべたち)に向かって、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と言います。そして、イスラエルは神に対して無条件の従順をささげることになります。なぜなら神は彼らの心に神の律法を書きとどめてくださるからです。(エレミヤ31:33) そしてキリストは「ご自分の栄光を現わされ」(ヨハネ2:11)ます。マタイ2531参照。 そのときまで、最高のぶどう酒はイスラエルのために取っておかれることでしょう。

 

幾分概観的にではありましたが、この奇跡の象徴的、預言的な意味を見てきました。続いて実際的な教えを学んでみましょう。

 

3 実際的教え

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。」(1−2) ここでキリストは結婚関係を聖別してくださっています。エデンの園において、神は結婚をお命じになりました。そして、今、この私たちの学んでいる箇所において、救い主は、全時代を通して結婚を是認する証印を押してくださっているのです。この婚礼に出席されたのは、主が公生涯にお入りになったあと、公の場に主が出られた最初の場面でした。この婚礼を祝福することによって私たちの主はこの聖なる制度を認め、また賞賛してくださったのです。明らかにキリストはこの婚礼に招かれていました。キリストのご臨在こそが幸いな結婚に不可欠な要素なのです。私たちの主であり救い主であられるお方のおられる場所がないような結婚は神の祝福を受けることはあり得ません。「何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第1コリント10:31)

 

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。」(2:3)

このマリヤのことばには二つのことがらを示されているように思われます。第1に、彼女が主の神性に対して無知であったということです。彼女はイエスが人間以上の存在であると気づいていたのではなかったでしょうか。イエスが受肉された神であり、全知のお方であることを知ってはいなかったのでしょうか。その日ぶどう酒がなかったことを主は知っておられないはずがなかったのです。第2に、マリヤはこの状況下においてイエスが何をなすべきであるか指示することによって彼女の親としての権威を行使しようとしているかのように思われます。

 

すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(2:4) これは省略法的表現で、ギリシャ語で字義的に直訳すると、「私とあなたに何が?」となります。私たちの主のこの質問は、マタイ8:29に見られるのと同じ文法的用法で、「私とあなたとの間にどんな共通点があるのですか。」という意味であると考えられます。これは決してマリヤが主に救いの手を求めたことに対して主がお怒りになったわけではなかったのです。そうではなくて、彼女は主ご自身の御心通りに主が行動されることを知らなければならないということの暗示であったのです。ここでキリストは、ご自身がマリヤとヨセフに従う時期(ルカ2:51)は過ぎ、今や公生涯に入っているのであり、親としてマリヤが主を支配するのが当然であるとは考えるべきではなかったのです。

 

読者の多くが、「どうして主は『女の方』ということばを使われたのか。」と不思議に思っておられることでしょう。学者たちは、当時主がお使いになったこのことばは決して無情で乱暴なことばではなかったと言っています。この語は、階層や関係によらずただ女性に向かって、時には大いに敬意と好意を含んで一般的に用いられた語であったようです。このことは、主が十字架の上からマリヤに向かって、「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」(ヨハネ19:26、また20:13,15も参照)と言われたことからも明白です。

 

しかし、私たちの主は神の聖なるご意志によって、あえてこの語をお用いになったのだと信じます。少なくとも二つの理由があるでしょう。第1に、主はここでご自身が人以上の存在であり、ほかならぬ神の御子であるという事実に注意を向けさせておられるのです。彼女に向かって、「母よ。」という語をお用いになっていたら、彼女と主の人間的関係に注意が向けられたことでしょう。けれども「女の方」と呼ぶことによって、神が彼女に語っておられるのだと言うことをお示しになったのでした。キリストは、ヨハネの福音書においてご自身の神性を明らかにしなければならないところで二度主の母に向かって「女の方」と呼んでおられることは非常に意味深いことであるということを付け加えておきたいと思います。

 

さらに、この「女の方」という語の使用はキリストの全知性を示しています。預言的先見をもって主は、神の栄光がマリヤに帰せられる恐るべき偶像崇拝を予知しておられたのです。主は何世紀も後に人々は彼女に「御使いの女王」、「神の母」などと言ったタイトルを彼女に帰すことを知っておられたのでした。ですから、マリア崇拝という恐るべき獣のシステムを助長するようなことばを主はあえて避けてくださったのです。キリストはここで、マリヤがただの女性・・・「恵まれた」(ルカ1:28)女であって、「女を超えて恵まれた」存在ではなかったことを教えてくださったのです。

 

わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)という表現は、主の死のときが近づいていることを示すための主の地上のご生涯におけるもっとも厳かな標語となりました。この福音書において恐るべき「とき」に関する言及が七回見られます。最初は、今私たちが学んでいるこの2章における言及です。だい2は7:30において見出されます。「そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」 第3番目は、8:20です。「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」 第4番目は12:23にあります。「すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」 第5番目は12:27です。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」第6番目は16:32に見られます。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」 そして第7番目に、17:1で見出します。「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」 この「とき」とは、まさに主の屈辱のときを示していたのです。すなわち主の受難のときでありました。しかし、マリヤが主に命令したとき、なぜ主はこの「とき」について言及されたのでしょうか。ああ、その理由は実に明確です。恐るべきその「とき」・・・そしてまさにその「とき」を主は待っておられたのですが・・・とは、主が人の意志に従ってくださるときでした。と言うのは、そのとき、主は罪人の手に渡されたからです。ですが「そのとき」まで、主が人に命じられることはあり得なかったのです。その代わりに、主は父なる神のご意志を行うことだけにつとめて、父なる神の業をのみ行っておられました。

 

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(2:5) 何と美しい絵でしょうか。マリヤはへりくだって、主がご自分の思うとおりに行為される主の権限を認めて、主のご叱責を受入れました。そして完全にこの問題を主の御手にゆだねたのです。ここに私たちひとりひとりに対して、重要でありながら非常に軽蔑されている教訓があります。何としばしば私たちは神に命令をくだしてしまっていることでしょうか。多くの場合、わたしたちは神に何をなすべきか命じているのです。これは、神の恵みが抑えてくださらい限り、今なおしばしば信者のうちに働くあのいまわしい自我にほかなりません。私たちのしなければならないことは、私たちの道をただ主に託して、主のときに主の方法で私たちの必要を与えてくださるように主にすべてをゆだねることだけです。

 

さて、カナでキリストが行われた奇跡にもどって考えてみましょう。まずこの出来事の中で使われたいくつかのことばについて考えます。主イエス・キリストは、このマリヤの求めが父なる神からのものであることをお認めになりました。婚礼の客にぶどう酒を供給するという単純な行為と、主の母が予期していたこととの間には大きな違いがあることを主は認識しておられました。この奇跡が、救い主のご生涯において非常に重要な局面をもたらすことになるのです。水をぶどう酒に変えるという主の奇跡は主の御生涯の全過程を変えてしまうものとなったのでした。主は今まで、ナザレにおいて静かな生活を送っておられました。ところがこの奇跡を境に、主は公人となり、また注目される人物となられたのです。今後、主はゆったりと食事を楽しむようなことはほとんどなくなり、すべてから離れて父なる神との交わりを享受することができるのは、人々が寝静まってからのこととなるでしょう。もしも主がこの奇跡を行い御自身の栄光を現すなら、主はすべての目の注目の的となり、すべての人のうわさ話の種となるに違いありません。どこに行ってもつきまとわれ、無礼な群衆が押し寄せてくることになるでしょう。これは宗教的指導者の嫉妬につながるに違いありません。そして主は常にスパイされ、危険人物と見なされることになるでしょう。後に、結局このことが、偽りの訴えがなされ主が悪名高い罪人として、極刑を受けるために逮捕されるきっかけとなったのです。これらすべては、ぶどう酒がなくなったので主に供給するように求められたところから始まったのです。しかし主は決して尻込みされるようなことはありませんでした。どんな犠牲を払おうとも、父なる神のみこころを行うために来られたのです。主がマリヤのそばに立ちマリヤのことばをお聞きになったので、そのとき十字架が主に挑んだなどと言うことがありませんように! 確かにここでそれは予期されました。そしてそれゆえ、その「とき」が来ることについての厳かな言及がなされたのでした。

 

2に、この奇跡が行われた方法ですが、これは私たちが注目しておかなければならない点です。「さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。」(2:6−8) キリストご自身がこの奇跡の力であったことは言うまでもありませんが、「手伝いの人たち」がそのために用いられたのです。水がめに水を満たしたのは彼らでした。彼らがぶどう酒をくみ、それを宴会の世話役のところに持っていったのです。この奇跡が行われる過程において、神の力が可視的に示されることはありませんでした。キリストが魔術的な呪文を唱えられたわけでもありません。水に対して、ぶどう酒になるように命じることさえされませんでした。目撃者たちの目に入ったことと言えば手伝いの人たちの働きであって、神の創造的み業が現されたわけではありませんでした。そしてこのことが強調されているのです。それは行為におけるたとえでした。用いられた手段は人であり、その結果は神のみ業だったのです。

 

これがキリストによる最初の奇跡でした。そしてこの奇跡に中で、神の恵みの不思議が行われるとき、道具として人を主はお用いになるのだと言うことを、キリストは私たちに示していてくださいます。この奇跡は、ぶどう酒の供給であり、先ほど指摘したとおり、そのぶどう酒は神にある喜びの象徴であるということです。ですから、このことから、主は人間の心に喜びをもたらす道具として人を用いることをよしとしてくださるのだと言うことを学びたいものです。ところで、主はぶどう酒を供給するために何を使ってくださったのでしょうか。それは水でした。さて、水は書かれた神のみことばの象徴の一つでもあります。(エペソ5:26を読んでください。) どのようにして主の「手伝いの人たち」は喜びのぶどう酒を人々に提供するのでしょうか。みことばの働きにあずかることによってです。(エペソ5:26) そして、今日、私たちはどのようにして主の「手伝いの人たち」になることができるのでしょうか。六つのからっぽの石の水がめに水を満たせとのキリストのご命令は、彼らにとっては愚かとは言わないまでも無意味に思えたかも知れません。しかし、彼らはその命令に従うことによって、この奇跡の同労者となることができたのです。法律や社会改革によって良い世界を勝ち取ろうとするこの世の知者たちにとって、2000年も昔に書かれた一冊の書物以外何も持たずに悪に立ち向かっていこうとするのは無意味に思えることでしょう。けれども、「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(第1コリント1:21) 「愚かさ」、それはまさにこの世の知者たちの評価なのです。ですから、これは今日の神のしもべたちにとって祝福された助言ではありませんか。私たちの主のご命令に従っていのちの水を汲んでいきましょう。悲しみの中にある多くの人々に神の喜びのぶどう酒を運ぶために私たちを主が用いてくださるでしょう。

 

3に、この奇跡の教えについて考えてみましょう。この絵はまさに罪人の回心の絵に他なりません。まず、新しく生まれる前の生まれつきのままの人間の状態を見ます。彼はまさに空っぽの石の水がめのようです。それは冷たくて、いのちがなく、まったく使い物になりません。第2に、人間の宗教が罪人の救いのためにはまったく価値がないものであることを見ます。その石の水がめは「ユダヤ人のきよめのしきたりによって」、そこに置かれていました。それらは儀式的な清めのためでしたが、その無価値さは空っぽであったことによって示されています。第3に、キリストのご命令によって、その石の水がめは水で満たされました。そして水はみことばの象徴です。死んだたましいに新しいいのちを与えるために神はみことばを用いてくださるのです。これらの水がめが「縁までいっぱいに」満たされたことは明らかです。神は常に、出し惜しみなく十分に与えてくださいます。第4に、水はぶどう酒に変わりました。それも「良いぶどう酒」にです。(10) それは、「水によって生まれ」た者のたましいを満たす神からの喜びの象徴です。第5に、「イエスはこのことを最初のしるしとして」行われたと記されています。つまり、新生は奇跡であるということです。そればかりではなく、これは常に「最初のしるし」なのです。新しく生まれた者にとって、新生は恵みの最初の働きであるからです。第6に、次のみことばに注意を払ってください。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。」 私たちの救い主であり主であるお方の「栄光」が現されるのは、霊的に死んでいる罪人の回心によってであると言うことです。第7に、「それで、弟子たちはイエスを信じた。」という点に注目してください。死んでいる者が信じることはできません。けれども新しく生まれた者の最初の行為はキリストに立ち返ると言うことです。新しく生まれることと信じることとの間の時間の関係について今論じるつもりはありませんが、原因が結果に先立つとすれば、新生の働きがイエスを信じる信仰に先立つことは明らかです。第2テサロニケ2:13を参照してください。まず「御霊による聖め」、すなわち新生があり、続いて「真理による信仰」が来るのです。

 

けれども、このキリストの最初の奇跡にはもっと深い意味はないのでしょうか。私たちの救い主が行われたこの最初の奇跡のさらに深い意味は何でしょうか。「ぶどう酒」はキリストの流された御血液のシンボルであるということはもっとも重要な点ではないでしょうか。婚礼は喜びと幸福のときでありました。神の民が喜びを受けるために、まず神の御子の尊い御血液が注ぎ出されなければならないという事実を、神はここで私たちに示していてくださるのではないでしょうか。ああ! これこそが、私たちが享受するあらゆる祝福の基礎であり、私たちのすべての幸福の土台なのです。キリストは、ご自身の犠牲的死を示す「ぶどう酒」の供給によって、主の恵みによる超自然的お働きを始められたのです。

 

宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、」(2:9) この挿入的な言及はもっともすばらしい部分です。これは重要な原則を私たちに教えてくれています。この出来事において、主の最も近くにおり、主のみこころを知っていたのは、弟子でもそしてマリヤでもなく「手伝いの者たち」でした。「宴会の世話役」にわからなかったことを「手伝いの者たち」は知っていたのです。神の方法は私たち人間の方法とはどれほど違っていることでしょうか。栄光の主は、今ここでは「「しもべ」として登場しておられます。うるわしい恵みのうちに、主は「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」(マルコ10:45)に来られました。ですから、仕えることにおいてへりくだる者たち、またもっとも低い働きに従事する者たちに、主は最も近くいてくださるのです。これこそが、この世の誉れや報酬に背を向けたしもべたちへの報いなのです。アモス3:7にあるとおりです。「まことに、神である主は、そのはかりごとを、(ああ! 誰にたいしてでしょうか?)ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」 また詩篇103:7にある通りです。「主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。」 モーセとはどのような人物でしたか。 みことばに聞いてみましょう。「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数12:3)! そうです、「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(詩篇25:9)のです。

 

(ここでマリヤがしたように)権威の立場を行使しようとする者たちは主の秘訣を理解できません。「宴会の世話役」のような立場につきたい者は主の御心がわからないのです。けれど、キリストのご支配のもとにしもべの立場を取ろうとするへりくだる者たちは主のご助言を共有する者たちなのです。そしてやがてときが来て、主が御国の真のぶどう酒をお与えになるとき、主のご不在の間主に忠実に仕えた者たちは、主とともに、主の喜びの受益者となるでありましょう。主はお約束くださったではありませんか。「もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:26)

 

だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(2:10) これは人の方法と神の方法の違いを述べているところです。この世(そしてまたサタン)は、まずその最良のものを出します。悪いものを最後まで取っておくものです。まず罪の喜びを・・・しばらくの間・・・そして罪の報酬です。ところが神のなさることは、まさにこの逆です。神はご自分の民をまず荒野に連れて行き、その後に約束の地に導かれます。まず十字架、そして冠です。愛するクリスチャン、私たちのためには、最良のぶどう酒は将来に与えられるものなのです。「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」箴言4:18

 

この記事においてもう一つの重要な点について考え、この章を終わりましょう。失われた者に対して、これは何というメッセセージでしょうか! 生まれつきの人間は自分自身の「ぶどう酒」を持っています。「罪の喜び」によって生み出された人を楽しませる肉的な幸せがあります。すなわち刹那的な喜びです。しかしそれらはなんと早く過ぎ去ってしまうものでしょうか! 決して満足を与えてくれるものではないのです!「地のぶどうのふさ」(黙示14:18)から絞られたこの「ぶどう酒」は遅かれ早かれなくなるものなのです。あわれな罪人はふしだらな仲間に囲まれ、経済的にも社会的にも恵まれた環境にいるかも知れません。しかし、やがて彼は、「ぶどう酒がない」ことに気づくときが来るのです。このことに気づく者は幸いです。私たち自身の弱さの発見こそがしばしばターニングポイントとなるものです。それが私たちに、「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる」(イザヤ61:3)ことのおできになる主を仰がせるのです。信じることを拒んでいる友よ! 真の「ぶどう酒」、「良いぶどう酒」を与えることがおできになる唯ひとりのお方がおられます。すなわち主イエス・キリストです。このお方こそ待ち望んでいるたましいに満足を与えることがおできになるのです。御使いさえ歌うことができない歌、贖われた喜びの歌をあなたの口に与えてくださるのです。あなたは何をなすべきなのでしょうか。あなたは何を支払うべきなのでしょうか。ああ、愛する友よ、恵みによる喜びの知らせを聞いてください。「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

 

さて、今、次の課の学びに興味を持つ学生がその準備をするためにいくつかの問題をあげておきましょう。学んでください。そして以下の問題を祈り心を持って考えてください。

1、 なぜここに宮清めの記事が記されているのでしょうか。ほかの福音書ではどこに置かれているかに注目してください。 

2、     なぜキリストは鳩を追い出されなかったのでしょうか。16

3、     ユダヤ人が「しるし」を求めたのはどうしてでしょうか。18節

4、     なぜキリストはご自身の復活についてお示しになったのでしょうか。18−21

5、     主ご自身の弟子たちは主のご復活のみ約束を信じたのでしょうか。22

6、     23節にはどのような厳粛な警告がなされているでしょうか。

7、     25節はキリストについて証言しているのでしょうか。