第5章                    キリストとその最初の弟子たち

ヨハネ1:35−51

 

 最初に、この部分を簡単に分析しておきましょう。次のように分けることができます。

 

1、キリストを「神の子羊」として指し示すヨハネ。 1:35,36

2、彼の二人の弟子に起こったこのことの結果  1:37

3、キリストの質問と弟子たちの答え、そしてキリストとの交わり  1:38,39

4、アンデレに起こったこの交わりの結果1:40−42

5、キリストがピリポを見つけ、彼に従うように招かれる。1:43,44

6、ピリポに起こったこのことの結果   1:45,46

7、キリストとナタナエルの会見   1:47−51

 

 

 私たちが今から学ぼうとしているこの部分の中心的課題はキリストの最初の弟子たちがどのように救いにあずかったかということにあります。ある読者は、マルコの福音書1章16−20に書かれている内容とヨハネの福音書1章のこの記事とを比較してとまどいを覚えられたことがあるかもしれません。「 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。」(マタイ4:18−22、ルカ5:1−11) 多くの人々がヨハネの福音書1:35−42をマルコの福音書1:16−20とをどのように調和させることができるかと悩んできました。けれども、これらを調和させることは不可能です。なぜなら、これらの間には如何なる共通性も無いからです。実は、マルコとヨハネは同じ出来事を書いてはいないのです。マルコは、ヨハネが書いた出来事よりもあとで起こったことを書いています。マルコ(マタイとルカもそうなのですが)は、この弟子たちの働き、イスラエルの家の失われた羊に関する働きのための召しについて書いているのに対して、ヨハネはこの弟子たちの改心のときのことを書いています。ヨハネはこの働きへの召しについては省略している(ほかの3人の記者たちはそれを記録しているのですが)という点でこの福音書の特異性を示しています。と言うのは、彼は神の摂理を扱おうとしているのではなく,霊的な関係について述べようとしているからです。ですからこそ神は、彼ら最初のキリストの弟子たちの改心については、ヨハネが書くようにされたのです。

これら最初の弟子たちが救い主によってどのように見出されたかその方法に注目するなら,非常に興味深く指針に富んでいます。彼らはみんな同じ方法で主のもとに来たわけではありませんでした。なぜなら神は特定の手段に限定されているお方ではありません。神は、他のあらゆる点においてと同じように、この点においてさえ主権者であられます。このことをしっかりと心にとめて置くべきです。そうすれば、多くの疑いは消え去り、心の苦しみもまた取り去られることでしょう。何と多くの人々が心打たれる改心の証を聞き、自分自身を責め、惨めな気持ちにさいなまれることでしょうか。なぜなら、彼らの経験がそのようなスリルに富んだものではなかったからです。多くの教会が、2週間にもわたる「延長」総会を開き、その年の残りの50週はあたかも救いを必要としているたましいなどどこにもいないかのように振る舞うのです。「教会の懺悔席」以外のどこにおいても救われる罪人などいないかのように思っている人々が何と多いことでしょうか。けれども、このような人々はみな、神の力を限定してしまっているのです。つまり、神は有限のお方であると思いこんでいるのです。

 

 この個所に記されている四つの改心のケース(四つです。と言うのは35節に記されている二人の場合は互いに関連しているからです。)の中のどれ一つとして同じようではありませんでした。最初の二人は説教者がキリストを「神の子羊」と証言するのを聞いて、即座に自分たちで救い主を捜し求めたのです。次のシモン・ペテロの場合は、その前日に救い主について行って救い主を見つけ出した彼の兄弟によってキリストのもとに連れてこられました。三番目のピリポは、彼を導くための信者はいなかったようです。おそらく彼のたましいを気遣う友達はなかったのでしょう。彼については次のように書かれています。「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。」(1:43) 第4番目のナタナエルは、改心したばかりの兄弟ピリポによって探し出され、来て自分自身でキリストを見るようにと促されたのでした。そして主に向かって歩いている間に、救い主も彼の方に向かって来られたようです。そして主がこの求道者を見つけ出してくださったのでした。これら四つのケースをまとめてみると、以下のような点に気づくでしょう。第1番目の者たち場合は、説教者のメッセージの結果としてキリストに出会いました。二番目と四番目のケースの場合は、彼らは神によって備えられた人間の媒介によってキリストを見出しました。最初の者たちがバプテストのヨハネの働きの結果としてキリストのもとに来たという事実は、神が罪人をお救いになるとき、みことばの説教と言うものが第一の重要性を持っているということを示すためであったと思われます。神がこれらの初期の改心者たちの努力をほめておられると言う事実は、たましいを救うためのこの個人的な働きに卓越した場所を与えることをよしとしておられることを示しているのです。ピリポがまったく人的な媒体なしで救われたと言う事実は、たとえ説教者たちが自分たちの召しに不忠実であっても、信者たちが罪人をキリストのもとに導くために出かけようとする気力がなかったとしても、それでも神はご自身の手段をすべて失われるわけではないのだと言うことを示しています。

 さらに私たちは、これらの初期の改心者たちがいろいろな方法で救い主を見出したと言うことばかりでなく、キリストご自身も彼らを違った形で扱われたという点に注目すべきです。35節で述べられている二人に対して、彼らがキリストについてくる動機を試すために主は試問をされました。「あなたがたは何を求めているのですか。」 またシモン・ペテロに対しては、主は彼についてすべてのことを知っておられるのだということを確信させるための宣言をされました。そして彼の心に再確認を与えるすばらしい約束もしてくださいました。ピリポに対しては、強い命令をお与えになっただけでした。「わたしに従って来なさい。」 ナタナエルに対しては、彼が持っていたすべての偏見取り除き、救い主は彼を受け入れてくださるという確信を彼の心に与えるために優しいことばをかけてくださいました。このように偉大な医者であられる主は、一人一人の個性と必要に応じて、それぞれに向かってくださるお方なのです。

 

最後に、キリストはあらゆる種類の人々に応じてくださるお方であるということに注目してください。救い主が、このようなタイプや気質において大きな違いを持った人々にご自身をどのように現わしてくださったかを見るのは大きな喜びです。キリスト教はただ、柔弱で感情的な、そして教養のないような特別なタイプの人々にだけ受け入れられると主張する浅はかな懐疑主義者たちがいます。けれどもこのような反論は一般的な観察によって容易に退けられます。キリストはあらゆる種類の気質を持った男女によって礼拝されまた仕えられてきました。「すべての名にまさる名」として主の御名を負うことを喜びとする人々は、この地上のあらゆる国語、あらゆる民族の中からばかりではなく、あらゆる種類の歩みをしている人々が含まれています。王や女王、政治家や兵士、科学者や哲学者、詩人や音楽家、法律家や医学者、農夫や漁師などあらゆる種類の人々が、「子羊こそが尊いお方だ!」と叫びました。そして初期の改心者たちにおいて、このことが描写されているのを発見するのです。

 

 35節に登場する名の記されていない弟子がこの第4福音書の著者ヨハネであることは一般的に同意されています。ヨハネこそ、主のふところで学び、主を愛し主に仕えた弟子でした。まさに「イエスに愛された弟子」であったわけです。そして12弟子の中で彼のみが、主が十字架上で死んでくださったとき、その前に立ったのでした。アンデレは計算深い人物であったように思われます。今日流に言えば実際的な人物と言うことが出来るでしょう。彼はキリストのもとに来るやいなやすぐに出かけていって兄弟シモンを探したのです。そして自分たちがメシアに出会ったことを告げ、シモンをイエスのもとに連れてきました。また、彼は空腹の群衆に給食されたときに五つのパンと二匹の魚のお弁当を見つけ主のもとに持ってきた人物でもありました。(ヨハネ6:8,9) シモン・ペテロは熱い心を持ち、衝動的で熱中しやすい人物であったようです。ピリポは懐疑的で現実的な人でした。主はこのピリポに対して、彼を試すために次のような質問をさたことがありました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 この質問に対してピリポは、「「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と答えたのです。(ヨハネ6:5、7) さらにピリポはキリストに対して、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)とも言っています。 ナタナエルについて知ることのできるわずかな点は、彼が考え深く引っ込み思案な人物であったと言うことくらいです。彼の生活は控えめなものではありましたが、「彼のうちには偽りがない」(47節)オープンで率直な性格を持っていたようです。このように彼らはみんなそれぞれにタイプも性格も違う者たちでした。けれども彼らはそれぞれに、キリストにあって自分たちの必要が満たされ、その心は喜びにあふれたのでした。私たちはこの最初の改心者たちを典型とみなし実例としてとるなら、彼らのひとりひとりを個別に取り上げ研究しることは意味深いことであるに違いありません。           

 

その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、」(1:35) ヨハネの働きの実が何であったのかが問われるのはまさにこの場所です。彼の働きが生み出した結果は何だったのでしょうか。それは、今日、主に用いられる神のしもべの働きに求められている結果と等しいものです。ヨハネは忠実にキリストを証してきました。彼の働きはどのように受け取られていたのでしょうか。第一に、当時の宗教的指導者たちはこの神の証を拒絶しました。(ルカ7:30) 第二に、おおぜいの人々が集まり、あらゆる種類の人々が彼の働きに随行したのでした。(ルカ3:7−15) 第三に、ほんの一握りの人々だけが彼のメッセージによって本当に影響を受けました。そしてメシヤが現れたとき、主を受け入れる準備ができていたのはごくわずかの人々だけした。これはあらゆる時代に共通している事実です。神がご自身の働きにおいて行動を起こすために、また目立った活動を行わせるために人をお送りになるとき、宗教的指導者たちは、疑いを持って見ます。そして自分たちの輝かしい卓越性に酔いしれて、そのような神の人からは遠ざかるのです。一方、俗悪で好奇心旺盛な群衆は目新しくてセンセーショナルなことがらに飢え乾いてやっては来ます。けれどもほんのわずかな人々だけがその良心と心に触れられるのです。

 

その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。』(1:35,36)  主の先駆者は、再び主を「神の小羊」と告げます。(29節参照) このことは、神のしもべはしばしば同じメッセージを繰り返さなければならないことがあるという事実を私たちに教えてくれます。これはまた神のメッセージが決してやむことなく強調しなければならない中心的で必須なてんがキリストの犠牲のお働きであるという事実を指摘しています。説教者たちよ、決して忘れないでいただきたいのです。あなたのおもな関心事はあなたの主を、「神の小羊」として指し示すことなのです。また次の点に注目していただきたいとおもいます。また「ヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。」とあります。斜体字で示したことばには、もっとも重要な原則について注目するようにうながされています。イエスを「見る」なら、「小羊」を見るなら、私たちは「立っている」しかない、すなわち人間の行動はいっさい止められなければならないということです。これはイスラエルがエジプトからあがない出されたあと最初に、神によって教えられた真理でありました。エジプトの軍隊によって追跡されたとき、紅海を前にして神のしもべは叫びました。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」(出エジプト14:13) 

ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」(1:37) このふたりの弟子はヨハネとアンデレでした。彼らは召しを受けるまで漁師でした。彼らはすでにバプテストのヨハネを慕って従っていました。バプテスマを受けていたばかりではなく、約束されたメシヤであり救い主であられるお方を待ち望んでいました。そしてついに、神の預言者として信頼していた自分たちの師が突然、間違いなく息せき切ってその手を広げて弟子たちの歩みを止め、通り過ぎて行かれるお方を指さしながら叫びました。「見よ、神の小羊!」 今そこに肉体を持っておられるお方こそ、長い間待ちこがれていたお方なのです。彼らが今自分たちの目で見ているお方こそ、ご自身を罪のための犠牲としておささげになる神の御子なのです。今まさに彼らの前に、後にその二人のうちのひとりが「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」(ヨハネ第1 1:1)と書いたお方が、今そこにおられたのです。

 

なんとしばしば、この経験が繰り返されることでしょうか。もちろん私が申し上げているのは、その原則が繰り返されると言うことです。私たちがキリストについて個人的に何も知らなかったとき、何度もキリストについて語られるのを聞きました。説教者がキリストの卓越性について熱心に語るのを聞きました。「キリストよ、あなたこそ私の求めるすべてです」と人々が歌うのを聞きました。また神のしもべたちが、血を分けた兄弟にもまさって近くにいたもう真の友キリストについて証するのを聞いて感動したかもしれません。けれどもそれでも私たちはまだ主との個人的な関係を持つことはなかったのです。ある日、おそらく私たちは神のしもべのひとりの働きを待っていたのでしょう。あるいは、たぶん自分の部屋でひとりで神のみことばのある箇所を読んでいた時であったかも知れません。または、ひざまずいて、主を見せてくださるようにと神に祈ったときでしょうか。それとも普段の仕事に精を出していたときだったでしょうか。突然、それ以前はただ単にその名前だけであったお方が、神のあわれみのゆえに、私たちにとって現実のお方として示されるのです。そして、私たちはいにしえのしもべと同じように、次のように言うことができるのです。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)

 

ところで、このような経験の結果は何でしょうか。今や、私たちのたましいは目覚めさせられたのです。何らかの行動が要求されているように感じるでしょう。もはや座ってキリストについての説明を聞いていることができません。立って、自分でこのお方を捜すことになります。この比類のない神であるお方を個人的に知ることこそがすべてに優先されるようになります。目覚めさせられた者は、心から主を求めるようになるのです。これこそがまさにバプテストのヨハネの二人の弟子の身の上に起こったことでありました。彼らの師が「見よ、神の小羊」と叫ぶのを聞いた二人が「イエスについて行った。」と聖書は記しています。(37)

 

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」』(1:38) 主を求め主に従う誠実なたましいが、無駄に終わることはありません。「求めなさい。そうすれば与えられます。」とは主ご自身のすばらしいみ約束です。このみ約束の通り救い主は振り返って、kの求めるたましいに向かって言われました。「あなたがたは何を求めているのですか。」 一見この質問は不思議に思えるかも知れません。おそらく、ある人々はこれは、ほとんど素っ気ない無関心の態度ではないかと思うかも知れませんが、決してそんなことではありません。個人的に私は、このご質問はふたりの動機を試し、彼らに自分たちの真の目的を理解させるためになされたものだと思います。外面的であれ信仰を持ってであれ人がキリストに従おうとするのには実に多くの動機と影響があります。今学んでいる箇所に書かれている時代においても、群衆が主のあとに付き従ってきました。そして多くの人がその流れに押し流されました。多くの人々が彼に「従いました。」 なぜなら、パンと魚、あるいは病気の癒し、さらには自分の愛する者の癒しを得るためにです。しばらくの間、多くの人々が主に「従いました。」 明らかにそうすることが当時流行しており、また何かを期待することができたからでありました。けれども、自分たちに主の必要を覚え、主のご人格の完全性にひかれて主に従ったのはほんの一握りの人々でしかありませんでした。

 

このことは、今日もまったく同じです。キリストは心から従うか、でなければまったく従わないかのどちらかを願っておられます。すなわち、主は形式的な、または迷信的な礼拝を受け入れてはくださらないということです。主が求めておられるのは、私たちの心です。主ご自身のゆえに主を求める心を求めておられるのです。それゆえ、主はこのふたりにその心をさぐる質問をされました。「あなたがたは何を求めているのですか。」と。読者よ、この質問に対するあなたの答えは何でしょうか。あなたは何を求めておられるのですか。この質問に対する真実な答えこそ、まさにあなたの心の状態を表しているものです。何も求めていない人などあり得ません。人の心は必ず何かを目指しているのです。もしもあなたの心がキリストご自身に向かっていなかったとしたら、キリスト以外の何かに向かっているのです。「あなたがたは何を求めているのですか。」 金でしょうか。それとも名誉でしょうか。安楽と安どでしょうか。あるいは快楽でしょうか。それとも、あなたは何を求めておられますか。あなたの心は何に向かっているのでしょうか。キリストをさらに深く知ることでしょうか。主とのさらなる親しい交わりでしょうか。主の近くを歩む歩みをでしょうか。あなたは、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1)と言うことがおできになりますか。

 

このふたりのまじめなたましいの返答に注目していただきたいと思います。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」(1:38)と彼らは答えました。主のご質問に対するふたりの返答に対して、熟考した多くの人々がとまどうのが不思議でなりません。ほとんどの注解者このことばの重要点を見落としています。そして、救い主が尋ねられた質問とふたりが返した返答との間にある直接的な関係を見つけていません。「今どこにお泊まりですか。」 一つ一つのことばを分けて考えてみましょう。

 

「今どこにお泊まりですか。」 何という悲しく悲惨的な質問でしょうか。これが神の御子に対してなされる質問でしょうか。何という驚くべき主のへりくだりではありませんか。カヤパやピラトがどこに泊まっているのかを聞く必要がありません。誰でも知っているからです。しかし、「キリストはどこにお泊まりですか。」と尋ねられて、いったいその時代の誰がその場所を教えることができたでしょうか。

 

「今どこにお泊まりですか。」 これは単なる好奇心を満足させるための質問ではありませんでした。この質問によって、ふたりは主とともにとどまりたい願望を表したのです。彼らが求めたものは主との交わりでした。もしも聖書のこの箇所の翻訳者が「Where abidest thou?」と訳していたらもっと明白になっていたでしょう。(英訳ではdwellestとなっている。) と言うのは”abiding”は霊的な交わりとの関わりを持つことばであるからです。

 

(あなたは)今どこにお泊まりですか。」と彼らは尋ねました。そして主は「あなたがたは何を求めているのですか。」とお答えになりました。彼らの心が求めていたものは「何」ではなく「誰」でした。祝福ではなく祝福してくださるお方ご自身を彼らは求めていたのでした。

 

求めるふたりが尋ねた質問に対して救い主のお答えを聞くことはどれほどすばらしい祝福であったことでしょうか。『イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」』(1:39) ああ、主は彼らの願いをご存じだったのです。その心を読んでおられたのです。ふたりが主のご人格を、その交わりを求めていたことを知っておられました。そして主はこのような願いに失望を与えるようなことは決してなさいません。「来なさい。」こそが、主の恵み深い招きです。「来なさい。」ということばは、主が彼らを歓迎しておられると確信させることばでした。そして今もなお、「来なさい。」は、すべての疲れた人、重荷を負っている人への主の招きなのです。

 

『「そうすればわかります。」』、あるいは「見なさい。」 これは、さらに彼らを試すためのおことばであったと、私は信じます。キリストがこのふたりをご自分のとどまっておられた場所にお導きになったとき、彼らは短い時間の訪問で満足したのでしょうか。確かにそうではありませんでした。この説の続きを読んでください。「そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。」 主は彼らの信頼を勝ち取られました。完全に彼らの心を引きつけられたのです。これは彼らが救い主とお会いした最初の日でしたが、彼らは「イエスといっしょにいた」のです。そうです、「彼らはイエスといっしょにいた。

のです。これは霊的な交わりを意味していることばです。「そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。」 つまり、午後4時ごろです。彼らがその夜、主とともにいたことは言うまでもありません。ですが、そのことは述べられていません。なぜでしょうか。聖霊は、彼らが「その夜、主とともにいた。」とは言われませんでした。なぜなら、主のご臨在のもとに夜はないからです。また主がどこにお泊まりであったのかその場所の名前が書かれていないことに注目してください。私たちの知り得ないところで、彼らは「イエスといっしょにいた。」のでした。主はそこではよそ者であり、主に従っていったこのふたりもまたよそ者であったに違いありません。「彼らはイエスといっしょにいた。」 何という祝福でしょうか。主の泊まっておられた場所がまた彼らの泊まった場所であったのです。そしてそれはまた、永遠にすべての信者にとっても言えることなのです。主が言っておられるではありませんか。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ

14:3)

 

ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。』(1:40,41) ふたりの弟子たちがキリストのうちに見出した満足をみごとに表現しているではありませんか。彼らは新しく生まれた喜びを他の人々と分かち合いたかったのです。アンデレは自分の兄弟シモンを探し、彼に言いました。「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」 「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、」という表現は、ヨハネ(彼はいつも自分自身を隠して、決して名前を出すことをしません。)も、少し後で自分の兄弟ヤコブに、アンデレと同じように語ったことをほのめかしています。自分が出会った救い主についてほかの人々に話すのは、救われたばかりの信者にとって本当に喜びの特権です。このために大学で訓練を受ける必要はありません。また教会からの任命も必要ではありません。それらのことをさげすんでいるのではありません。けれども、滅びに向かっている罪人に救い主について語るために必要なものは、救い主を知っている心だけであると言うことを申し上げているのです。アンデレは説教者として出かけていったのではありません。なぜなら、そのためにはキリストご自身による訓練を受ける必要があったからです。彼は自分が出会った救い主を簡単に、しかし熱心に証するために出かけたのです。彼が探したのは自分の兄弟でした。そしてこのことは、私たちの個人的な責任はまず私たちに一番近い人々から始まるという事実を教えてくれています。証は、まず私たちの家族の中から始めるべきなのです。

 

彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」』 (1:42) 主はここでシモンに祝福に満ちた約束をしておられます。この約束の真意は、もともと彼がどのような人物であったのかを考えるときによく理解できます。シモンの元来の気質は激しやすく衝動的、軽率で不安定でした。最初にアンデレの話を聞いたとき、このような性質を持った人物はどのようなことを考えたでしょうか。キリストが来られ、主のもとに行くように誘われたとき、また主が忠実で献身的なしもべを求めておられることを聞いたとき、「しっかり者で頼りになるアンデレならともかく、私のような者ではどうしようもあるまい。」とは言わなかったでしょうか。「とんでもない。私ではキリストのつまずきの石になるだけだ。このせっかちな性格と軽率な口は、助けになるどころか妨げとなるにちがいない。」と言ったのではないでしょうか。もしも、だれもが創造するように、このような思いが彼のうちにあったとしたら、キリストの御口から発せられた以下のおことばが、彼にどれほど強い確信を与えたことでしょうか。「イエスはシモンに目を留めて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。』」 このようにして主は、シモンをすでに熟知していることをお示しになったのです。それだけではありません。主は、「あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」と付け加えられました。「ケパ」とはアラム語で、その意味は「岩」でありました。「ペトロス」はギリシャ語で、「石」を意味することばです。ペテロはケパ、およびペトロス両方の英語型です。だとすれば、この主の御約束は何と祝福された約束であったことでしょう! 「あなたは衝動的で不安定なシモン(彼の本来の名前)です。そう、わたしはあなたのことをすべて知っている。だが、あなたをケパ(彼の新しい名前)、すなわちしっかりと安定した「岩」と呼ぶことにします。」 キリストはこのように彼に保証を与えてくださったのでした。主の御復活の後、この御約束はすばらしく成就されたのでした。

 

けれども、この節にはさらに深い意味があること私たちは信じています。すべての信者に当てはめることができるさらに広い適用があるのです。三日目について記されているこれらの節の中には、性格に今日のクリスチャンの時代についての言及があります。ペテロはまさにその典型的な例としてあげられていると考えることができます。そのように見ると、ここに出てくる固有名詞の意味に興味深いものがあります。シモンは「聞くこと」を意味し、「ヨハネの子」のヨハネには「神の賜物」の意味があるのです。私たちは神のみことばを聞くことによって(ローマ10:17)クリスチャンになります。そして霊において神のみことばを聞く能力はまさに神の賜物なのです。そしてすべてのクリスチャンが「石」となるのです。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」第1ペテロ2:5

「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。」 (1:43) 何とすばらしいことでしょうか。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)との主ご自身のご宣言の美しい絵です。良い羊飼いが、失われたご自身の一匹の羊を探し求めて出て行かれるみ姿を示しています。ここに書かれていることは真の改心者すべてに共通しています。主が人をお使いになろうとなるまいと、やがて主の従者となるひとりひとりを捜し求め見出してくださるお方はキリストご自身なのです。私たちが主を探し求めるのは、まず主が私たちを探し求めてくださることの反映でしかありません。それはちょうど、主がまず私たちを愛してくださったので、私たちが主を愛するのと同じなのです。

 

「ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」(1:44,45) ここでもまた、ご自身に関するキリストの啓示が救われたばかりのたましいに及ぼした効果を見ます。若い信者は今や自分が信じたお方の精神を共有しているのです。失われた者に対する救い主の思いやりで心が満ちあふれています。滅びゆく者に対する愛が芽生えています。彼はもはや沈黙することも、また無関心でいることもできません。彼が見出した、いな彼を見出してくださった救い主を人に伝えずにはいられないのです。

タナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」(1:46) たましいを勝ち取りたいと願う者は反論に直面することを予期しておくべきです。多くの罪人は疑問や逃げ口を見つけて隠れています。では、私たちはどのようにして彼ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」らに直面すべきなのでしょうか。ピリポに学ぼうではありませんか。反論に対してピリポがナタナエルニ言ったことは、「来て、そして、見なさい。」、それだけでした。ピリポハ兄弟のナタナエルを、来て、自分でキリストを試すように言いました。これは賢明な方法です。あなたが話している相手の反論によって逃げられないようにしなければなりません。彼にキリストを示し続けるべきです。そして、主の時に、神がそのみことばを用いて働いてくださるように祈りなさい。

 

イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。(1:47)  ナタナエルは正直で心を開いている人でした。ピリポに対する彼の質問は単なる逃げ口上でも偽善的な言い訳でもありませんでした。むしろ真実の困惑であったと言えましょう。私たちに向けられるすべての質問があら探しのためのものであると結論づけるべきではありません。ある人々、たぶん多くの人々が本当に困惑しているのです。彼らに必要なのは光です。そしてその光を得るために、彼らはキリストのもとに来なければならないのです。ですから、私たちが出会うたましいにキリストとキリストの主張されたことをさえ伝えるなら、決して間違うことはありません。ナタナエルは彼のうちには偽りがない、ほんとうのイスラエル人でした。ナタナエルは、良い地、すなわち正直で良い心にみことばを受け入れる聞き手になるための資質を示しているのだと、私たちは考えます。

 

ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(1:48) この出来事はキリストの神性を証明しています。主の全知性を表わしているのです。キリストはナタナエルをご覧になるとすぐに、まだ主の御許に来る前にその心をすでにお読みになっておらレました。そして、愛する読者よ。主は私たちひとりひとりを見、その心をお読みになります。すべてを見通しておられる主の御目に隠れているものはありません。いかなる偽善的な見せかけも主をだますことはできません。

   

ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(1:49) これは、ナタナエルの心のうちに神が働いておられた証拠です。救い主にある神の栄光を見るために、彼の理解の目が開かれました。そして、彼は即座に主を「神の子」と告白したのでした。この第4福音書の中で、キリストが神であることを告白した人物が7人いたというのは実に意味深いことです。まず、バプテストのヨハネ(1:34)、第2にナタナエル(1:49)、第3にペテロ(6:69)、第4に主ご自身(10:36)、第5に、マルタ(11:27)、第6にトマス(20:28)、そして第7にこの福音書の記者自身でした(20:31)。

イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(1:50−51)ナタナエルは、自分の告白したまさにそのこと、すなわちキリストの全知性の現れに強く心を打たれていました。ところが主は、さらに大きなことを見ることになるのだと仰せられます。天が開けて、地上が直接天とつながることを見るようになるときが来るのだと仰せられたのです。いにしえの昔、ヤコブが見た夢について考えておられたに違いありません。天と地をつなぐはしごとはまさにキリストご自身であり、ヤコブの見た夢はそのひな形でした。そしてある日、ナタナエルはすべての信者とともに、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを見ることになるでありましょう。

 

ヨハネの福音書1章の後半で、このほかに私たちが見ておかなければならないことは、異なった時代を表わしている注目すべき三つのひな形についてです。第1は1:19−28までに描かれており、第2の絵は129の「その翌日」で始まり、1:34で終わっています。第3の絵は、「その翌日」で始まり、142で終わっています。

 

T、ヨハネ1:19−28で、旧約時代の絵を見ます。

 1,19節にある「祭司とレビ人」の言及に注目してください。彼らはレビ制度を代表するものです。

 2,また、ここには「エルサレム」(1:19)の言及があることに注目すべきです。ほかでは見られません。

 3,ユダヤ人たちの無知と識別力の欠如を示すことによって(1:19)ここに描かれている旧約時代におけるイスラエルの霊的状態に注目してください。

 4,「エリヤ」、また、モーセに匹敵する「あの預言者」に関する言及に注目してください。(21)

 5,バプテストのヨハネは、キリストが現れた時代のイスラエルの霊的な荒廃状態を暗示する「荒野」(23)で活躍したことに注目してください。

 6,「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」(26)というヨハネのことばがどれほど正しかったかに注目しておきましょう。

 7,自分の「あとから」来られるお方についてヨハネが証したことに注目してください。まさに旧約時代になされたキリストについての証言でありました。

 

U、ヨハネ1:29−34において、「その翌日(29)」ということばによってに暗示されるメシヤの時代(キリストの地上における公生涯の時期)の絵を見ることになります。

 1,「自分のほうにイエスが来られるのを見て」(1:29)という表現に注目してください。これは歴史的な新しい時代の到来を私たちに教えてくれるものです。と言うのは、「律法と預言者はヨハネまで」だからです。(ルカ16:16)

 2,ヨハネはキリストを「神の小羊」(1:29)と宣言します。キリストがこの世に来られたのは、まさに犠牲としてご自身をささげるためでした。

 3,「私のあとから」(30)、すなわち、旧約時代の終わりを意味するバプテストのヨハネのあと、ということになります。

 4,「私もこの方を知りませんでした。」(1:31) これはキリストが現れたときのユダヤ人の無知を表現しています。

 5,「この方がイスラエルに明らかにされる」(1:31) マタイ15:24を参照してください。「わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。

 6,「御霊が・・・天から下って、この方の上にとどまられ」(32)ました。そしてこの時代において、ほかの人々の上にもまたとどまられました。 

 7,「この方が神の子である」(34) そしてまさにこの点においてイスラエルは主を拒んだのでした。

 

V、ヨハネ1:35−43において私たちはクリスチャンの時代の絵を見ることになります。それは、「その翌日」ということばによって分けられています。(35)

 1,[その翌日、またヨハネは、・・・・・立っていた] 今やヨハネの働きの終わりのときが到来しました。(39節参照) 「時は十時ごろ」、すなわち、今やイスラエルの任務の期間が終結したのでした。

 2,ヨハネによって表わされたユダヤ教から離れて主イエスについて行くときが来ました。(35−37)。イエスが「歩いて行かれた」のをヨハネが「立っていた」と比べてください。

 3,クリスチャンが最初にキリストを知るのは、「神の小羊」としてのキリストです。(36)

 4,「ふたりの弟子は・・・・・イエスについて行った。」(37) これこそがクリスチャンの歩みです。「キリストも・・・・・その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(第1ペテロ2:21)

 5,信者はいまやキリストといっしょにいます。(39) すなわち、世から離れて彼らはキリストとともの交わりを楽しんでいるのです。

 6,キリスト教信仰とは、個々の信者の個人的な働きによって伝えられていくものなのです。(40,41)

 7,シモンに対してキリストは言われました。「あなたをケパ(訳すとペテロ、石)と呼ぶことにします。」(42) この時代の信者たちが「霊の家に築き上げられる」のは「生ける石」としてです。

 (第1ペテロ2:5) そして、「御霊によって神のみ御住まいとなるのです。

 

以下の質問は読者が次の章でヨハネの福音書2:1−11を学ぶための予習をするためにもうけられています。

1,「それから三日目に」(2:1) これはどんな出来事のあとでしょうか。どうして日「が」言及されているのでしょうか。

2,この箇所でどうして婚礼の記事があるのでしょうか。

3,どうしてイエスの「母」はそれほどまでに目立っているのでしょうか。

4,2:4で、主が母マリヤに言われた二つの宣言はどのような意味があるのでしょうか。

5,「六つの水がめ」は何を意味しているのでしょうか。(2:6)

6,「ぶどう酒」は何の象徴なのでしょうか。(2:10)

7,キリストによって行われたこの最初の奇跡から、私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。