第4章 キリストの先駆者
ヨハネ 1:19−34
前章にならって、まず、ヨハネ1:19−34までの記事の簡単な分析をしておきましょう。
1、ユダヤ人のヨハネに対する質問とヨハネの答え 1:19−26
(1)「あなたはどなたですか。」「私はキリストではありません。」19,20
(2)「あなたはエリヤですか。」「そうではありません。」21
(3)「あなたはあの預言者ですか。」「違います。」21
(4)「あなたは自分を何だと言われるのですか。」「声です。」22,23
(5)「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」主の道を整えるため。24−26
2、キリストについてのヨハネの証言 1:27
3、ヨハネの活動の場所 1:28
4、ヨハネはキリストを「神の小羊」として示す。 1:29
5、ヨハネのバプテスマの目的 1:30−31
6、主のバプテスマのとき聖霊がおくだりになったことを証言し、キリストが聖霊によってバプテスマをお授けになることを予告するヨハネ 1:32,33
7、キリストの神性を証言するヨハネ 1:34
これらの節をどんなに不注意に読んでも、この個所で最も著しく目立つ人物がバプテストのヨハネであることはたやすくわかります。さらに、この個所がヨハネの人となりとその証言に関して共観福音書とはまったく違った方法で語られていることにもすぐに気付くでしょう。彼の装束が「らくだの毛の着物」であったことや、「腰には皮の帯を締め」ていたことや彼の食べ物が「いなごと野密」であったことなどはまったく言及されていません.厳しい悔い改めへの招きについてもまったく記録されていませんし、神の国の到来についての宣教のことも一切触れられてはいません。これらについては第4福音書においては、聖霊のご計画以外のことがらであったのです。また、主イエス・キリストを「手に箕を持っておられ」るお方、「ご自分の脱穀場をすみずみまできよめ…麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされ」(マタイ3:12)るお方として提示する代わりに、「世の罪を取り除く神の小羊。」として指し示しています。そしてこのことこそが、真理のみことばを正しく説き明かすように教えられている者たちにとっては、最も重要で最もすばらしいことがらなのです。
バプテストのヨハネは疑いの余地なく、いくつかの点において聖書の登場人物の中でも最も注目すべき人物の一人でありましょう。彼は旧約聖書の預言者の預言の対象でもありました。(イザヤ40) また彼の誕生は神の直接的かつ奇跡的な介在によるものでした。(ルカ1:7,13) 彼はまた、「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」(ルカ1:15)ていました。そして、「神によって遣わされた」(ヨハネ1:6)人でありました。主の道を備えるために遣わされたのです。(マタイ3:3) 主は彼について、メシヤの先駆者としての立場的な偉大さに言及して、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われました。(マタイ11:11) まさにこのヨハネに、主イエス・キリストにバプテスマを授けるという栄誉が与えられたのでした。主がここで、ヨハネの立場的な偉大さについて言及されたことは、その次に記されていることばからも明らかです。「しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」 天の御国に自分の位置を持つということは、ヨハネのように王国の外で王の到来を布告するという地位を持つことよりもはるかに高尚なことでありましょう。このことは、ヨハネの福音書14:28の「父はわたしよりも偉大な方だからです。」という主のおことばを理解するための鍵となるものです。その人格において父のほうが偉大であるということではなく、立場において偉大であるということです。と言うのは、このおことばを語られたとき主は、神の「しもべ」としての位置におられたからです。
この個所は、ヨハネがだれなのかをヨハネに尋ねるためにエルサレムから遣わされた祭司とレビ人の代表団についての言及から始まっています。「ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、『あなたはどなたですか。』と尋ねさせた。」(1:19) このような個所はほかの福音書には見当たりません。けれども、この出来事はまさに第四福音書の性格と領域に一致しているものなのです。と言うのは、第四福音書は時代的な関係というよりもむしろ霊的な関係を扱っている福音書だからです。ここに展開されている出来事は、当時のユダヤ人の宗教的指導者たちの霊的無知を示しています。イザヤの預言の成就として、主の先駆者が荒野に出現しました。それにもかかわらずエルサレムの指導者たちは霊的洞察力の欠如のために彼がどのような存在であったのかを知ることができなかったのです。それゆえ、彼らに遣わされた者たちがヨハネのもとに来て尋ねたのです。「あなたはどなたですか。」 多くの群衆がこの奇妙な説教者に聞こうとして荒野に押し寄せ、彼からバプテスマを受けました。大きな騒ぎが持ち上がり、人々は「みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考え」(ルカ3:15)るようになりました。そして、エルサレムの宗教指導者たちもこのことに注目せざるをえなくなり、ついにヨハネのもとに代表者を送り、いったい彼が何者で、どのような権威でそのようなことを行っているのかを尋ねさせたのでした。
「彼は告白して否まず、『私はキリストではありません。』と言明した。」(1:20) これらのことばの中は、祭司やレビ人がヨハネに接近しなければならなかった理由、また人々を彼のもとに遣わした「ユダヤ人」のもくろみについて明白な暗示を与えています。彼らにとってバプテストのヨハネは、いわゆる「もぐり」でしかありませんでした。彼は当時の宗教組織の部外者だったからです。彼はラビの学校で学んだわけでも、神殿における奉仕の栄誉を持っていたわけでもなく、またパリサイ派やサドカイ派、ヘロデ党の一員でもなかったのですから。いったいどこから、彼は自分の権威を受けたというのでしょうか。だれが彼に「悔い改めよ。」と人々に命じるよう任命したのでしょうか。何の権威で人々にバプテスマを授けていたのでしょうか。彼らがヨハネに「あなたはどなたですか。」と尋ねたときの語調が聞こえてくるようではありませんか。彼らはヨハネを脅かそうとしたに違いありません。そのことは「彼は告白して否まず、」と書かれている事実からも明らかです。ヨハネは大胆に自分の立場に立ちました。使者をヨハネに遣わした者たちの威圧や苦々しい脅し顔にも、ヨハネはまったく惑わさるようなことはなかったのです。「彼は告白して否まず、」と書かれているとおりです。私たちが「あなたはどなたですか。」といどまれるとき、ヨハネのような勇気が与えられますように!
「彼は告白して否まず、『私はキリストではありません。』と言明した。」 ヨハネが強い立場をとったので、今度はサタンは別の方向へとヨハネを誘惑しようとしました。彼を脅かすことに失敗した敵は、今度はヨハネが傲慢になって自分自身を誇張するようにしむけたのでした。キリストはまだ公にご自身を現してはおられませんでした。ですから、ヨハネこそが公に注目を浴びていたのです。マルコの福音書1:5に書かれているとおりです。「そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」 群集は彼のところに群がってきており、多くの者たちが彼の弟子となったのですから、自分がメシヤであると宣言するべきではなかったのでしょうか。しかし彼は即座にこのような邪悪でおこがましい考えを払いのけます。もしも、多くの者がそうするように、そのような考えをサタンのもくろみどおりに、彼がその考え方を受け入れていたとしたら、みことばは「彼は告白して否まず、『私はキリストではありません。』と言明した。」と書かれることはありませんでした。私たちが傲慢という悪い霊から守られ、恵みによって救われた罪人に過ぎないというほんとうの自分以上に主張するようなことがないように、主の助けが与えられますように!
「また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」」(1:21) 彼らはどうして、彼がエリヤであるのかと尋ねたのでしょうか。当時ユダヤ人の間には、エリヤが再びこの地上に現われるという一般的な期待があったからです。このことは福音書の中にある多くの記事から明らかです。たとえば、主が弟子たちに、「人々は人の子をだれだと言っていますか。」と尋ねられたとき、弟子たちは、「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えています。(マタイ16:13−14) また、主イエスが弟子たちといっしょに変貌の山から降りて来られたとき、主は彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられました。そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言いました。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」(マタイ17:9−10) このユダヤ人の期待には聖書的な裏付けがありました。旧約聖書の一番最後の節には、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」と預言されています。(マラキ4:5−6) この預言は、キリストの最初の公的出現の前に現われるバプテストのヨハネと同じように、キリストの再臨の前に働きをするために来るエリヤについての言及です。
「あなたはエリヤですか。」という質問に対して、ヨハネは強調して、「そうではありません。」と答えます。ヨハネは、確かにかのテシュべ人と非常に似かよっています。そして彼の働きもまたエリヤの将来における働きに似ています。ですけれども、彼はエリヤ自身ではなかったのです。彼は、「エリヤの霊と力で」(ルカ1:17)キリストに先立っていきました。「整えられた民を主のために用意する」ためにです。
次に、ヨハネへの尋問者は尋ねます。「あなたはあの預言者ですか。」(1:21) 「あの預言者」とは誰のことでしょうか? 私たちが疑問に思うのも無理はありません。その答えは申命記18:15、18に記されています。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。・・・・わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる」 これは、旧約聖書時代に与えられたメシヤ予言の一つです。そしてその預言の成就は主イエス・キリストのご人格によってみられるものなのです。「あなたはあの預言者ですか。」とヨハネは尋ねられ、彼は「違います。」と答えます。
「そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」(1:22) 彼らの質問は「あなたはだれですか。」と、「あなたは自分を何だと言われるのですか。」というものでした。ヨハネはこれらの質問に対して、「私は祭司ザカリヤの息子です。私はその生まれたときから聖霊によって満たされていた者です。」と、答えることもできました。そしてそう答えてもそれはそれで正しかったのです。あるいは、「私は、今までに神によって起こされ、イスラエルに遣わされた者のうちもっとも注目すべき存在である。」と答えることもできました。「あなたは自分を何だと言われるのですか。」 ああ、これこそが彼らの知りたかった質問なのです。そして私たちはこの質問に対するヨハネの答えから教訓を得、彼のうるわしい謙遜――今日のようなラオデキヤの傲慢さの時代が特に必要としている教訓を学ばせていただきたいものです。
「彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」(1:23) これがヨハネの答えでした。「あなたは自分を何だと言われるのですか。」「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えたのです。何という謙遜な答えでしょう。謙遜は神の御目に尊いものです。そして、それは神がお用いになった僕たちに共通した特徴です。もっとも偉大な使徒パウロは自分のことを告白して言いました。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」だと。(エペソ3:8) そして、ヨハネもまたここで同じように自分について述べています。「荒野で叫んでいる者の声」であると。読者のみなさん。あなたなら、「あなたは自分を何だと言われるのですか。」との質問にどのようにお答えになるのでしょうか。「私はすばらしい神の僕です。霊的に高いレベルの生活を送っています。神に用いられている者のひとりです。」 このような自己賞賛の答えを出すとしたら、そのような人は、「心優しく、へりくだっている」主にまったく学んでいない者であり、私たちのあるべき精神の到達していないことを立証しているのです。結局そのような人は、「役に立たないしもべ」(ルカ17:10)にほかなりません。
ヨハネが自分自身を「声」と表現したとき、聖霊が七百年も昔に預言者イザヤを通してお用いになったことばそのものを使ったのでした。「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」(イザヤ40:3) そして、まさにこの呼称こそ、神の完全な知識によって選ばれたものだと信ぜざるを得ないのです。本書の第3章で、ヨハネ1:7に述べられている主イエスの呼称―「光」―について説明したとき、キリストがご自身の「先駆者」について(ご自身が「光」であるのに対して)「彼は燃えて輝くともしび」であると言及しておられる(ヨハネ5:35)ことに心をとめてくださるようと申し上げました。そして、今ここで、もう一つのコントラストが示されているのを見ることになります。キリストが「ことば」であられるのに対して、ヨハネは「声」であるということです。では、この比喩的な呼称によってどのようなことが暗示されているのでしょうか。
第1に、ことばは(その思いにおいて)声がそれを表現する前に存在します。まさにこれこそがキリストとその先駆者との関係なのです。確かに、最初に公に現われたのはヨハネのほうでしたが、「ことば」、すなわちキリストは永遠の昔から存在しておられたお方です。第2に、声というものは、ことばが表現されるための、あるいは示されるための手段または媒介です。そしてまさにその手段、媒介こそがヨハネだったわけです。彼の使命の目標、あるいは彼の働きの目的は「ことば」を証することにありました。次に、声というものは聞くことができますが見ることはできません。ヨハネは自分自身を見せることを求めてはいませんでした。彼の働きは、神によって与えられたメッセージを人々に聞かせることでした。そうすることによって人々が「神の子羊」を見るようになるためです。今日の神の僕たちもまたヨハネのように、聞かれても見られることのない、ただの「声」でありますように! 最後に、ことばは声が消えても続くものであると言う点を付け加えておきましょう。ヨハネの声は彼の死によって消えていきましたが、「ことば」は永遠にながらえるのです。ですから、イスラエルにメシヤを証言した者が「声」と呼ばれたのは実に適切でありました。みことばは、計り知ることのできない深さを持っているではありませんか。みことばの一語の中にどれほどすばらしい真理が含まれていることでしょうか。この事実は私たちにみことばを瞑想することの重要性と、へりくだった祈りの必要性を呼びかけてはいないでしょうか。
「荒野で叫んでいる者の声」 メシヤの先駆者として働くとは何と言うすばらしい立場であったことでしょうか。彼のいるべき場所はエルサレムであったはずです。ではなぜヨハネは神殿で叫ばなかったのでしょうか。神はもはや神殿にはおられなかったからです。ユダヤ教は単なる抜け殻、外壁だけで、その内側にはもはやいのちはありませんでした。イスラエルは律法主義の国、パリサイ派によって支配された国、彼らはもはやアブラハムの信仰を表明することも、その業を行うこともありませんでした。そのようなところにヨハネが現われたわけです。神はユダヤ人の自己義認的形式主義をお認めになることはありませんでした。ですから、「神に遣わされた者」は当時の宗教組織の外に出現したのでした。ではなぜヨハネは荒野で説教したのでしょうか。なぜなら「荒野」は当時のユダヤ人の霊的不毛を象徴していたからです。ヨハネは、もはや神のものではなくなってしまったユダヤ人の霊的荒廃をただ悲しむしかありませんでした。そして、彼に関するあらゆるものがそのような状態の中にあったのです。彼の食料は荒野において見出したものでした。そして彼の預言者の装束もまたそのことを証言していました。
「彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」」(1:24,25) エルサレムから遣わされた使者たちによってヨハネに浴びせ掛けられた最後の質問は、20節で述べたことを裏付けています。ユダヤ人の宗教的指導者たちはヨハネが説教する権威について議論し、バプテスマを授ける権威について異議を唱えていたのです。彼はサンヘドリンから任命知れてはいませんでした。それにもかかわらず、「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」 ヨハネはこの最後の質問に対して直接的に答えているようには見えません。その代わりに、彼は彼らに対して、キリストについて語り始めるのです。
「ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」(1:26) ヨハネは自分の立場を貫き通しました。彼は自分が水で、もっと正確に言うなら水の中でバプテスマを授けていたことを否定しませんでした。けれども彼は、象徴的な礼典よりもさらに重要なことがらに彼らの目が向けられることを望んでいたのです。このヨハネの答えから、さらに学ぶべき点があります。この質問者たちは、キリストご自身について何も知らないのに、バプテスマに関しての問題を提示してきました。現代の多くの人々は彼らと同じです。自分たちがまだ罪の中で生活をしていながら、パリサイ人に任命された「祭司とレビ人」とバプテスマのいろはを論じたとしてもそれにどのような意味があるでしょうか。主の働き人およびキリストのためのお人的な働きに従事する人々にとって、ここに述べられていることがらに注意を払って心にとめておくことの重要性は大です。人々は不可欠で中心的な問題に答えることなく枝葉末節にことがらについて論じたがるでしょう。そしてしばしばクリスチャンの働き人が彼らに従って「バイパス草原」に入り込んでしまうのです。私たちに必要なのは、すべての的はずれな言い逃れを無視し、キリストのご主張、すなわちキリストを主また救い主として受け入れることの必要を彼らに示すことなのです。
「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」 これはみごとに当時のイスラエルの状況を暴露しています。彼らの霊的無知を露わにしているのです。そしてこれは、悲しいことに基本的には今日の状況でもあるのです。多くの人々がキリストについて聞いているいわゆるキリスト教国と呼ばれる国々においてさえ、多くの宗教的団体の中においてさえ、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」と言わなければならないのです。生まれつきの人間の霊的な盲目の事実! キリストは、聖霊により、多くの会衆の真ん中に立っておられるにもかかわらず、人々は主を見ることも知ることも出来ないのです!
「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(1:27) 何という気高い証言ではありませんか。このヨハネの証言が、彼がその到来を告げ知らせているお方の神聖な栄光をどれほど明確にしていることでしょうか。彼が誰であったかを思い起こしていただきたいのです。バプテストのヨハネは決して普通の人ではありませんでした。旧約聖書の預言の主題のひとりとなっていた人物、祭司の子、神の力の直接的介入によって誕生した人物、母の胎にいるときから聖霊に満たされていた人物、多くの人々をキリストに導くための働きに従事した者でありながら、それでも彼はキリストが自分の占めている次元よりも無限に高いところに立っておられるお方として、また天からおいでくださったお方として、このお方の靴のひもを解く値打ちさえない永遠の存在者として仰ぎ見ているのです。ヨハネは、自分と自分「よりも先におられた」方との間にある絶対的相違説明するために十分に強いいかなる表現も見出すことは出来ませんでした。もう一度申し上げましょう。これらのヨハネのことばは、自分がその先触れをしていたお方の神聖な栄光をどれほど明確にしていることでしょうか!
「この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。」(1:28) どこでこの出来事が起こったのか、その場所の特定が出来るかどうかにかかわらず、その場所を私たちに知らせるように聖霊が導かれたのには理由があります。間違いなく、その理由はここに記されている固有名詞の意味に見出されます。あいにくギリシャ語写本には、「ベタニヤ」という地名にはいくつかの読み方がありますが、有名なへブル語学者ゲセニウスが述べているように、ここは士師記7:24に言及されているベテ・バラであったと取るのが妥当であると考えられます。そして、それは「水路の家」を意味しています。これはヨシュアの時代にイスラエルがヨルダン川を渡ったことに由来しているのです。まさにここで、ヨルダンを越えた「水路の家」で、キリストの先駆者としてヨハネは、「死」の象徴であったバプテスマを授けていたのでした。この意味をこのことばの中に見出すのはそれほど難しいことではありません。これらの名前の意味はヨハネ自身が持っていた宗教的な立場と彼に与えられていた使命とに一致しています。ユダヤ主義から切り離されて、彼の悔い改めへの招きに答え罪を告白して彼からバプテスマを受けた人々は、ユダヤ教の背教から出て行き、「主のために用意」(ルカ1:17)されたわずかの残りの者となったのでした。そう言うわけで、ヨハネは「水路の家」、ベテ・バラでバプテスマを授けていたのでした。
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(1:29) 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」このようなことばが関連しているところでは私たちは注意深くなければなりません。これはヨハネとエルサレムからの代表団との会見の翌日のことでした。この会見は明らかに彼ら以外の人々も同席していました。と言うのは、彼は「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。」と続けているからです。これは前日ヨハネを尋問した人々に対してヨハネが語ったことばです。27節を読んでください。その日、彼はまた「パリサイ人の中から遣わされた」(24節)祭司とレビ人に対して、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」とも宣言しました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 この招きの力は、その背景の光に照らして見るとき実に意味深いものとなります。パリサイ人たちは「預言者」を探し、自分たちをローマの圧制から救い出してくれる「王」を求めてはいましたが、救い主―祭司など考えてもいなかったのです。ヨハネに向かってなされた質問はその質問を発した者たちの心を表していました。彼らは、ヨハネが昔約束されたメシヤかどうかという疑問を持っていたように思われます。ですから彼らは、「あなたはエリヤですか。」、「あなたはあの預言者ですか。」などとヨハネに尋ねました。けれども注意して見てください。「来るべき御怒りから」彼らを救い出してくださるお方であるかどうかという質問がいっさいなされていないのです。当然祭司やレビ人の誰かが犠牲について質問するはずではありませんか。明らかに彼らには罪の意識がなかったのです。まさにこのような状況の中でキリストの先駆者はキリストご自身を「神の子羊」と宣言したのでした。「神のことば」でも「神のキリスト」でもなく、「神の子羊」と宣言しました。神の御霊は、イスラエルに対して、まさに彼らがもっとも必要としている働きとご性質において主イエスを紹介しました。彼らは主を王座になら迎えたでしょう。けれどもまず初めに祭壇にお迎えする必要があったのでした。そして、このことは今日においても全く同じことなのです。キリストはエリシャ、すなわち社会改革者としてなら許容されるかも知れません。主は預言者、あるいは道徳の教師としてなら尊敬されるでしょう。けれどもこの世が最初にそして何よりもまず必要としているのは十字架のキリストなのです。神の子羊は十字架の上で、罪のための犠牲としてご自身をささげてくださったのでした。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 ヨハネの前に立っておられるお方こそ、旧約聖書時代の犠牲のすべてが予め示していたお方でした。「子羊」について、みことばの教えの中に神によって漸進的に明らかにされてきたまさにそのお方が今、ヨハネの前に立っておられるのでした。先ず、創世記4章において、アベルがささげた群れの中のほふられたういごによって予表された子羊をみます。第2に、創世記22章8節に、預言された子羊を見ます。そこでは、アブラハムがイサクに言っています。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」 第3に、出エジプト記12章で、ほふられ、血が流された羊を見ます。第4に、イザヤ書53章7で、人格化された羊を見ます。ここで、初めてこの羊が人であると言うことを理解するのです。第5に、ヨハネ1章29節で、具現化された羊を見ます。すなわち、ここで、この羊として現されていた人が誰であるのかを知るのです。第6に、黙示録5章で、天の軍勢によってほめたたえられている羊を見出します。そして、聖書の最後の章において、栄化された子羊を見ます。黙示録22章1で、永遠の神の御座に座しておられる子羊をです。もうひとつ、いけにえの範囲の進展にも目を留めておきましょう。創世記4章では、いけにえは個人、アベルのためのものでしかありませんでした。出エジプト記12章では一つの家族全員のためでした。レビ記16章では、年に一度の贖いの日に、国家全体のためにいけにえがささげられています。しかし、ここヨハネの福音書1:29では、ユダヤ人ばかりでなく異邦人も含まれているのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 このような呼称によってどのような考えが暗示されているのでしょうか。主の道徳的完全性、主の無罪性が指摘されているのです。なぜなら、主は「傷もなく汚れもない子羊」(第1ペテロ1:19)であられたからです。また、この呼称は、主の柔和さも示しています。主は、私たちに代わって自発的にご自身を神にささげられたのでした。主は、「ほふり場に連れて行かれる羊のように」(使徒8:32)連れて行かれました。(無理やりに引っ張られていかれたのではありません。)しかし、もっと特別な意味で、この主に対する呼称は「いけにえ」について述べているものです。まさに主イエスこそ、「世の罪を取り除く神の小羊。」でありました。もちろん、これは死について述べているのは明らかです。と言うのは、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」 罪が取り除かれるためにはただ一つの方法、すなわち死以外にはありませんでした。ここでの(ヨハネ1:29での)「罪」は、へブル書9:26と同じように「有罪」を意味しています。そして「世」は信者を意味しています。と言うのは、キリストにある者のみが今や「罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)と書かれているからです。「不敬虔な世界」(第2ペテロ2:5)と対照的な信じる者たちの「世」です。
「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」」(1:30−31) これはヨハネが、キリストが自分に「まさる方」であると宣言した三番目にあたります。(15,27,30を参照してください。) これはキリストの先在性を断言することばです。すなわち、キリストの永遠性の証拠です。それから、ヨハネは自分のバプテスマの目的について述べています。キリストが「イスラエルに明らかにされるため」であるというのです。それは人々を主のために備えるためでありました。この民は神のみ前に罪人であるということを認めることによって備えられました。(マルコ1:5) そして、だからこそヨハネが死の河と言われていたヨルダン川でバプテスマを授けていたのでした。ヨルダン川でバプテスマを授けられることによって、人々は自分たちが死に値する罪人であると言うことを自覚したのでした。ですから、ヨハネのバプテスマはクリスチャンのバプテスマとは区別されるものです。クリスチャンのバプテスマにおいて、信者は自分たちが死に値する罪人であると言うことを自覚するのではありません。そうではなく、自分がもうすでに死んだものであるということ、すなわち罪について死んだもの、キリストとともに死んだものであると言うことを証しているのです。(ローマ6:、3,4)
「またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」(1:32) もちろんこの出来事は聖書の中に言及されています。キリストご自身がヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになったときのことです。そのとき、父なる神は御子をお喜びになっておられることが証しされ、聖霊がはとのように御子の上におくだりになりました。このことは主ご自身のご性格を現しています。「はと」は愛と悲しみを象徴する鳥です。まず象徴が現されその次にキリストがおいでになります。愛は悲しみを表現しました。そしてその悲しみが主の愛の深さを述べているのです。五旬節の日に聖霊が弟子たちの上に降臨されたとき、「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」(使徒2:3)と書かれています。「炎」はおおむね神の裁きを表わしています。弟子たちには、裁かれるべき点がありました。つまり、彼らのうちには罪の性質がまだとどまっていたのです。けれども、この神の聖者であられるお方には裁かれるべき点は何一つありませんでした。ですからこそ、聖霊ははとのように降臨されることがおできになったわけです。
「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』」(1:33) 「とどまられるremaining」」はRV訳では、「abiding」と訳されています。そしてこの語は第4福音書の特徴的な用語なのです。ほかの3福音書すべて、主イエス/キリストが聖霊によって「油注がれた」と言っています。ところがヨハネだけが、聖霊は主の上にとどまられたと述べているのです。聖霊は旧約時代の預言者たちがそうであったように主のところに来られたのではなく、キリストにとどまられたのでした。この表現は神の側と関係しています。そしてその交わりと言う点を強調しているのです。この同じ用語がヨハネの福音書14:10にも使われています。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」 また、ヨハネの福音書15章で、主イエスは霊的結実のための基本的な必要条件が、主ご自身との交わりであると述べておられます。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(15:5) キリストが、「聖霊によってバプテスマを授ける方である。」」と言うことが、もう一つのキリストの神性の証拠でもあります。
「 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(1:34) ここで、バプテストのヨハネのキリストに関する証言は終わっています。この先駆者は、自分の布告しているお方の優越性について七つの点を上げていることは注目に値します。第一に彼は主の先在性について証言しています。「私より先におられた」(15節) 第2に、主の主性について証言しています。(23節) 第3に、主の計り知れない優越性について証言しています。「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(27節) 第4に彼は主のいけにえとしての働きを証言しています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(29節) 第5に、主の完全性を証言しています。「「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」(32節) 第6に、彼は、聖霊によってバプテスマをお授けになる主の権威について証言しています。33節 第7に、主の神の御子性について証言しています。(34節)
以下の質問は、次の章、すなわちヨハネの福音書1:35−51で取り上げる内容についてのものであり、読者をその学びに備えさせるものです。祈り心注意深い研究をもって考えていただきたいと思います。
1、
1:38でキリストはなぜ「あなた方は何を求めているのですか。」と、二人のヨハネの弟子たちにお尋ねになったのでしょうか。
2、
1:38で、「今どこにお泊りですか。」と彼らが答えたのはどのような意味だったのでしょうか。
3、
1:40,41にはどのような重要な実際的真理が含まれているのでしょうか。
4、
1:43の「見つけて」ということばの中にはどのような祝福に満ちた真理が隠されているのでしょうか。
5、
1:47の「彼のうちには偽りがない。」ということばは何を意味しているのでしょうか。
6、
1:48にはキリストのどのような属性が示されていますか。
7、
1:51で、キリストは何を述べようとしておられるのでしょうか。