第3章 受肉されたことば、キリスト
ヨハネ 1:14−18
はじめに、ヨハネ1:14−18までの記事の簡単な分析をしておきましょう。
1、キリストの受肉 「ことばは人となって、」1:14
2、キリストの地上での滞在 「私たちの間に住まわれた。」1:14
3、キリストの本質的な栄光「ひとり子としての栄光」1:14
4、キリストの卓越性 「先におられた」1:15
5、キリストの神としての豊かさ 「豊かさ」1:16
6、キリストの品性の完全さ 「恵みとまこと」1:17
7、キリストの驚くべき啓示 「父なる神」 1:18
「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14) 無限のお方が有限となってくださいました。目に見えないお方が、見えるものとなってくださり、超越的なお方が、受難を受ける者となられたのです。人間の思いを超えたことが、人間の生活の領域において目に見えるようになったのです。「ことばは人となって、」 ここで私たちは、主がそれまでとはまったく違ったものになってくださったことを確認します。主は、決して神であることをおやめになったのではありませんが、「人」となってくださったのです。
「ことばは人となって、」 このみことばの真の意味は、私たちの神聖な救い主が人間の性質を取ってくださったのだということです。彼は人となってくださいましたが、それでもなお、罪はなく、しかも完全な人であられました。彼は人として、「きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ」(へブル7:26)ておられました。キリストのご人格におけるこの二つの性質の結合は私たちの信仰の奥義です。「 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ」ました。(テモテ第1、3:16) 細心の注意を払って説明しなければなりませんが、「ことば」は、主の「神」としての呼称でした。そして、「人となって」は、主の聖なる謙卑について述べているのです。彼は、かつて「神―人」であられましたし、今もそうです。主のうちにある神性と人性は決して混同されることはありません。決して主の神性――確かにそれは覆われてはいましたが――が、一時中断されるようなことはありませんでした。また、主の人性――それはまったく罪がないものでしたが――本当のものでありました。と言うのは、受肉されたあと、主は「ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ2:52)と書かれているからです。ですから、彼は神の御子であられるとともに、人の子でもあられたのでした。
このキリストのご人格の中に見られる二つの人格の結合は、主が仲介者としてのお働きをなさるために必要なものでした。神が受肉されることによって、すなわち「ことばは人となって」くださることによって、三つの偉大な目標が達成されました。第1に、主はいまや死ぬことができるようになられました。第2に、主は私たちの弱さを理解することが出来るようになってくださったのです。そして第3に、私たちが彼の御足の跡をたどることが出来るように、私たちに模範を残してくださったのです。
このように、ご人格の二重性は旧約聖書の預言においてはっきりと述べられていました。預言の中で、来るべきメシヤが「人」として現わされている場合と、「神」として現されている場合があります。彼は女の「子孫」(創世記3:15)であると書かれていました。またモーセのような「預言者」(申命記18:18)がダビデの子孫より(第2サムエル7:12)お生まれになること、神の「しもべ」(イザヤ42:1)、「悲しみの人」(イザヤ53:3)などは、人としてあらわさえているところです。その反面、主は「主の若枝は、麗しく、栄光に輝き」(イザヤ4:2)と現わされ、「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(イザヤ9:6)と書かれています。「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」(マラキ3:1)とも言われています。ベツレヘムでお生まれになるお方は、「イスラエルの支配者になる者」であり、「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」とも預言されています。(ミカ5:2) このような二面的な預言をどのように調和させることが出来るのでしょうか。その答えがヨハネの福音書1:14にあります。ベツレヘムでお生まれになったお方は、神であり、永遠の「ことば」でありました。受肉とは、神が人に宿ったという意味ではありません。そうではなくて、神が人となってくださったという意味なのです。彼は、それまでとは違った者となってくださったのです。といっても、決してそれまでの状態を失われたということではないのですが。ベツレヘムの幼子こそは、インマヌエル、「神我らとともにいます」お方なのです。
「ことばは人となって、」 この真理を特別な方法で伝えようとするのが、ヨハネの福音書の目的です。ですからこの福音書の中に記されている主の奇跡は、独特な方法でこのことを描写し示しています。例えば、主は水をぶどう酒に変えてくださいました。どのようにでしたか。主ご自身が何かをすることによってではなく、「ことば」を語ることによってでした。主はその使いの者にお命じになると、水はぶどう酒と変えられたのです。また、役人の息子が病気だったときのことですが、父親は主イエスのもとに来て、いっしょに彼の家に来て息子を癒してくださるようにお願いしました。主のお答えは何でしたか。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(ヨハネ4:50)でした。そしてその奇跡が行われたのです。べテスダの池のほとりに、一人の病人が横たわっていました。彼は、だれかがその池に入れてくれることを望んでいたのですが、彼が待っている間に誰かが先に飛び込み、癒されていったのでした。そこへ、主イエスがお通りになり、彼をご覧になりました。そして何が起こったのでしょうか。「おきて、床を取り上げて歩きなさい。」と主イエスは言われたのです。力に満ちたそのことばは働いたのです。そしてその男は癒されました。もうひとつ、ヨハネの福音書以外には記録されていないラザロの場合を考えてみてください。ヤイロの娘を生き返らせてくださったときは、キリストはその娘に手を置かれました。またナインのやもめの息子を生き返らせてくださったときも、主はひつぎに触れてくださいました。ところが、ラザロを生き返えらせて下さったときは、ことばをかけること以外に何もされなかったのです。「ラザロ、出てきなさい。」 これらすべての奇跡において、私たちは働いておられる「ことば」を見るのです。「人となって」私たちの間に天幕を張られたお方は、永遠で全能のお方、「大いなる神(「ことば」)であり私たちの救い主(人となられた)であるキリスト」(テトス2:13)なのです。
「私たちの間に住まわれた。」 主は33年の間、この地上にご自分の天幕を張られました。ここには、砂漠におけるイスラエルの幕屋に関する暗示があります。幕屋は雛型的な意味合いを持っていました。それは、受肉してくださる子なる神の影を映していたのです。幕屋のほとんどすべてが、肉体をとられる「ことば」を映し出していました。かげと本体との間にはたくさんの、そして種々の一致が見られます。ここで、いくつかのおもな点を上げておきましょう。
1、幕屋は一時的に使用するものです。この点で、ソロモンの神殿とは異なっていました。
ソロモンの神殿は、継続的に使用されるための建築物でした。それに比べて、幕屋は単なるテントであり、イスラエルの子供たちがその旅路において、あちこちと移動するのに便利な一時的な設備にほかなりませんでした。同じように、主イエスがこの地上で私たちの中に天幕を張られたのも一時的なことでありました。主のご滞在期間は40年以下の短期的なものだったのです。そして、幕屋において見られるかげのように、主は同じところに長く滞在されることはなく、常にあちこちと歩き回ってくださいました。主は愛の行動において疲れを知らないお方だったのです。
2、幕屋は荒野で使用するものでした。イスラエルがカナンに定住するようになると、神
殿が幕屋に取って代わりました。しかし、エジプトから約束の地への巡礼の旅路においては、この幕屋こそが神が彼らのために特別に用意された場所でありました。疑いもなく荒野は永遠の「ことば」であられるお方がその初臨において人々の中に天幕を張ってくださった環境を映し出していました。幕屋が、主の誕生のときの飼い葉桶、ナザレの貧しい大工のベンチ、人の子が枕するところのなかった生活、主の葬りのために借用された墓を現わしていたことは明らかです。モーセ五書の年代学を注意深く研究すると、イスラエルが荒野の幕屋を使用したのはまさに35年足らずであったことがわかります。
3、幕屋は、外見上粗末でつつましやか、見かけの魅力はないものでした。絢爛豪華なソロモンの神殿とは対照的に、肉の目を楽しませるようなものはその表面には何もありませんでした。まさに、受肉してくださった主に等しいものでした。神聖な神としての尊厳さは、主の肉体のヴェールによって隠されていたのです。彼はみ使いを引きつれておいでにはならなかったのです。不信仰のイスラエルの目には、主のみ顔は見えませんでした。彼らが肉の目で主を見たとき、彼らが期待していたようなうるわしさを主のうちに見ることは出来なかったのでした。
3、幕屋は神が住まわれる場所でした。主が住まわれたのは、イスラエルの宿営の中心に
あった天幕でした。主はその天幕の中の契約の箱の上、両ケルビムの間の恵みのみ座をご自分の王座とされました。神は、至聖所でシェキナの栄光によってご自身のご臨在をお示しになりました。そして「ことば」が人々の間に住まわれた33年間、神はご自身の王座をパレスチナに置かれたのです。至聖所は神の聖なる御子においてその本体を見るに至りました。二つのケルビムの間にシェキナの栄光が耀いていたように、変貌の山において、二人の人、モーセとエリヤの真中で、「神―人」なるお方の栄光が輝きました。「私たちはこの方の栄光を見た。」とは、まさに幕屋が現わしていた本体であったことを言っているのです。
5、幕屋は、神が人とお会いになる場所でした。それは「会見の幕屋」と呼ばれていました。もしもイスラエルが、神に近づきたいと願うなら、彼らは幕屋の入り口のところに来なければなりませんでした。幕屋とその器具の作り方についての説明の中で神は、「その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。
25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」(出エジプト25:21−22) このすばらしい雛型の完全さを見てください。キリストこそ、神と人との会見の場所なのです。このお方を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6) 神と人との仲介者はただひりだけです。そしてそれが人となられたキリスト・イエスなのです。(第1テモテ2:5) キリストこそ、神と人との間にある溝をうめてくださるお方です。なぜなら、このお方ご自身が、神でありながら同時に人であるお方だからです。
6、幕屋はイスラエルの宿営の中心にありました。幕屋の回りに祭司職の部族であるレビ人が宿営していました。「あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。」(民数記1:50) そして、そのレビ部族の回りに12部族が四方に3部族づつ宿営しました。民数記2章をご覧ください。また、イスラエルの宿営が一つの場所から別の場所へと移動するときには、「 次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営は、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。」(民数記2:17)と書かれています。また、「 ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、」(民数記11:24−25)とも書かれています。これは何という著しい類似でしょうか! 幕屋は、大いなる集会の中心地であったのです。これはまさにうるわしい主イエスの影でありました。主イエスこそ、私たちの大いなる集会の中心なのです。彼の尊い御約束は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)ということです。
7、幕屋は、律法が保存されている場所でした。神自らが書き記してくださった最初の十戒の2枚の板は壊されてしまいました。(出エジプト32:19)けれども二番目の2枚の板は、安全に保つために契約の箱の中に納められていました。(申命記10:25) 律法の板が損なわれないで保存されていたのは、ただ至聖所の中だけでした。これもまた私たちにキリストご自身を語っています。キリストについて次のように言われています。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇40:7−8) 主の完全なご生涯を通して、主はそのことばと行いにおいて、神の律法をあがめたたえながら十戒を保存されました。
8、幕屋は犠牲がささげられる場所でした。幕屋の庭には、青銅の祭壇がありました。この祭壇に動物が運ばれ、その祭壇の上で殺されたのです。血が流され罪のためのあがないがなされたのはまさにこの祭壇でした。それはまた、主イエスにおいてなされたことでもありました。主は、その他の祭壇の器具が意味しているところとともに、この青銅の祭壇が現わしていたことをもすべてご自分で完全に成し遂げてくださったのです。地上で天幕を張ってくださったご自身のみからだは、のろいの十字架に釘付けにされました。十字架こそが、神の子羊がささげられた祭壇でした。その十字架の上で、主の尊い血が流されたのでした。そこで、罪のためのあがないのみ業が完全に成し遂げられたのでした。
9、幕屋は祭司の家族が養われた場所でした。「 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。……罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。」(レビ6:16、26) 何と深い比喩的な意味を持ったみことばでしょうか。そしてこれはまた、今日における神の祭司家族、すなわちすべての信者のための食料としてのキリストについて私たちに教えてくれているのです。(第1ペテロ2:5) 彼こそがいのちのパンであります。私たちのたましいはこのお方養われるのです。
10、幕屋は礼拝の場所でした。信仰深いイスラエルは、そのささげものをここに持ってきました。彼らは神を礼拝するためにここに集まったのです。その門から、神の声が聞こえました。その庭で、祭司たちが、聖なる奉仕をもって神に仕えたのもまたこの幕屋の庭においてでありました。そしてそれはちょうど、この雛型が現わしていた本体についても同じことが言えるのです。私たちが賛美のいけにえをささげるのもまた、「キリストを通して」(へブル13:15)なのです。私たちはこのお方にあって、また、このお方を通してのみ、父なる神を礼拝することができるのです。また、恵みのみ座に近づくことができるのも、このお方を通してであります。
このように、旧約の幕屋は、何と十分にしかも完全に。私たちのすばらしい主のご人格を映し出していたことでしょうか。だからこそ、聖霊が受肉について告知されたとき、「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)と言われたのです。ヨハネの福音書1:14の次の節に移る前に、キリストのかげである荒野の幕屋とソロモンの神殿との間にあるコントラストを指摘しておかなければなりません。
(1) 幕屋はキリストの初臨の雛形であり、神殿はキリストの再臨を現わしていました。
(2) 幕屋は歴史的に最初に立てられ、神殿はずっと後まで建てられませんでした。
(3) 幕屋は一時的な施設であったのに対して、神殿は継続的な建築物でした。
(4) 幕屋は、預言者(それはまた、主イエス・キリストがその初臨において果された任務でした。)モーセによって張られ、神殿は王(それはキリストの再臨によって成し遂げられる任務です。)であったソロモンによって建てられました。
(5) 幕屋は荒野――それはキリストのへりくだりを示しています――において使用され、神殿は「偉大な王の町」エルサレム――それはやがてキリストに与えられる栄光を示しています――に建てられました。
(6) 幕屋において最も頻繁に目につく数字は5です。これは「めぐみ」を現わす数字で、言うまでもなくキリストの初臨における地上でのお働きを特徴づけています。ところが、神殿においてきわだっている数字は12で、支配を意味しています。キリストは、王の王、主の主として支配し治められるのです。
(7) 幕屋は外面的には魅力はありませんでした。それは、主がこの地上におられたころ、「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地出る根のように育った」のと同じでした。けれども、神殿はその概観の美しさで有名でした。まさに、主が再び戻ってこられるとき、キリストは力と栄光に満ちておられるのと同じです。
「私たちはこの方の栄光を見た。」「私たちは」は、直接的には最初の弟子たちを指しています。けれどもそれはまた、今日のすべての信者にとっての喜ばしい経験でもあるのです。「私たちはみな、・…主の栄光を鏡に映すように見ながら、」(第2コリント3:18)この二つの節で使われている動詞はコントラストを示しているように思われます。ヨハネの福音書12:41には、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」と書かれています。これはイザヤ書6章からの引用です。旧約聖書は特別な場合だけ、私たちに神の栄光をかいまみせてくれています。けれども、これらの「見た(かいま見た)」人々とは対照的に、私たちこの時代の信者は、「この方の栄光を見た(しっかりと明確に見た)」のです。それだけではありません。神の栄光を見ることと見ないことの間には、さらに著しいコントラストがあります。シェキナの栄光は至聖所に留まっていました。ですからそれは隠されていたわけです。ところが、今や「私たちはこの方の栄光を見た(しっかりと明確に見た)」のです。
「私たちはこの方の栄光を見た。」 これは何を意味しているのでしょうか。ああ、この質問に完全に答えることのできる人などいるのでしょうか。このテーマについて、かりに永遠を費やして調べ尽くすことができたとしても、なお時間は足りないでしょう。私たちの主の栄光は無限なのです。なぜなら、このお方のうちにこそ神が完全に満ちておられるからです。信じる者にとって、これ以上慕わしいテーマがどこにありましょう! 簡潔に述べられていますが、「私たちはこの方の栄光を見た。」という表現は、主の至高のすばらしさ、主の完全さを意味しているものです。概観的に分類すると、「栄光」を以下のように4つの面から説明できます。そしてその4つの面はさらに細分化することができるでしょう。第1に、神の御子としての本質的な栄光があります。例えば、神としての完全性、全能性などがそれです。第2に主の道徳的栄光があります。人間としての完全性や従順さなどがそれにあたります。第3は主の使命的な栄光です。例えば、仲介者としての完全性や祭司性などです。第4に主がお受けになる栄光があります。これは、主が行なわれたみわざに対する報いとして種がお受けになった栄光です。おそらく、初めの三つの点が、ここで述べられている「栄光」でしょう。
第1に、「私たちはこの方の栄光を見た。」という表現は、主の本質的な「栄光」、あるいは神としての完全さを意味しています。これは、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」という後続のことばからも明らかです。主の地上でのご生涯の初めから終わりまで、主イエス・キリストの神性は明確に現わされています。主の超自然的ご誕生、主のご性格の卓越性、その比類のない教え、驚くべき奇跡、主の死とご復活、そのどれを取ってみても、このお方がまさに神の御ひとり子であらせられることを明確に示しているのです。さらに、「私たちはこの方の栄光を見た。」ということばが、「私たちの間に住まわれた。」という句のすぐ後に続いていることを見落としてはなりません。ここでも著者が幕屋について言及していることは明白です。幕屋では神はその至聖所の中の「贖いのふた」(恵みの御座)の上にご自分の御座を設けられました。そして、主のご臨在の証拠としてシェキナの栄光が現われました。これはしばしば「雲」と表現されています。幕屋が完成し、神がそこにご臨在されたとき、「 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト40:34)と書かれています。ソロモンの神殿の完成時も同じことが起こりました。「祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」(第1列王8:10−11) ここで、「雲」は明らかに「栄光」を現わしています。ですからシェキナの栄光はイスラエルの真只中における神のご臨在の明らかなしるしでした。それゆえ、イスラエルの背教の後、主が彼らから去ってしまわれたとき、「主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。」(エゼキエル11:23)のです。ですから、「ことばは、・…私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」というのは、実に神ご自身が、再びイスラエルの真只中におられたことの証拠だったのです。そして、ことばが私たちの間に天幕を張られたその初期においてさえ、シェキナの栄光は明らかに示されていたということは、私たちが今まで気付かずにいた注目すべき事実ではないでしょうか。主のご降誕のすぐ後に起こった出来事について次のように記録されています。「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」
(ルカの福音書2:8,9) また、主がこの地上を去って行かれるときのことが次のように書かれています。「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」(使徒の働き1:9) 雲(複数)ではなく、「雲」(単数)で書かれているのです。このように、「私たちはこの方の栄光を見た。」という表現は、第1に、主の神としての栄光に言及していることは明らかです。
第2に、主の使命的な栄光が言及されているように思われます。これは聖なる山において示されたものでした。ペテロの手紙第二、1:16には次のように書かれています。 「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」 これは変貌の山に関する言及です。次の節で 、「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』」と書かれているとおりです。ここで、「栄光」ということばが使われていることから、ヨハネの福音書1:14節と関連しているものと思われます。これはまた、あの聖なる山の上での出来事からも確認することが出来ます。「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、」(マタイの福音書17:5)
第3に、ヨハネの福音書1:14には、主の道徳的「栄光」、あるいは「神―人」なるお方の完全性が言及されています。というのは、ヨハネは「私たちはこの方の栄光を見た。」ということばのすぐ後に、「この方は恵みとまことに満ちておられた。」と付け加えているからです。天のみ位からベツレヘムの飼葉桶への驚くべき降臨を「私たちは…見た」とは何というすばらしい恵みでしょうか。御使いたちの礼拝の対象であったお方が、畏れ多くもこの地上に降って王として支配されるとしたら、それは計り知れない謙遜の行為であったことでしょう。しかし、主は謙っておいでくださいました。主は、自らすすんで、無力な赤ちゃんとなる「貧しさ」を選んでくださったのです。このような恵みは私たちの理解をはるかに超えたもの、このような比類ない愛は、私たちの知識の及ばないところのものではないでしょうか。ああ、神の御子のこのご降臨について、私たちは決して驚きを失うことはないでありましょう。
主の驚くべき謙卑のうちに、私たちは主の栄光を見ました。主の栄光がみすぼらしさに取って代わったときほど、その偉大さが輝きわたることはありません。敵たちの支配下にあるときほど、主ご自身の力が人をひきつけることはありません。主が持っておられる大権がなおざりにされる時ほど、その権力が勝利をおさめることはありません。主が仕える者となられたときほど、その主権が明確に現わされることはありません。さらに、敬虔をもって申し上げるのですが、処女の胸に抱かれた時ほど、神の栄光が耀きわたったことはなかったのではないでしょうか。そうです、私たちは主の栄光、それはまさに無限のへりくだりの栄光、驚くべき恵みの栄光、はかりしれない愛の栄光を見たのです。
主が将来お受けになるべき栄光について、今、長く述べることは出来ません.これらの栄光の中には、主にゆだねられているみわざが成功裡に完成するとき、父なる神によって主に与えられるさまざまな報いが含まれています。それは、イザヤによって語られているところのものであり、救い主の自発的なへりくだりと受難のあと、キリストがお受けになる栄光であって、父なる神がキリストについて述べておられることを聞くようにと、イザヤは私たちに次のように書いています。「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ53:12) それはまた、聖霊がピリピ書2章で述べておられるところの、主がお受けになる栄光のことです。そこでは、主の十字架の死に至るまでの従順について述べた後、「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」と付け加えられています。さらに続けましょう。ヨハネの福音書17章に記されている私たちの偉大な大祭司の祈りを学ぶことによって得る祝福はことばに現わすことさえ出来ないものです。そこで主は次のように言っておられます。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(24節)
次の節に移る前に、私たちが今学んだこの節(14節)と、第1章の初めの節との間には、密接な関係があることを指摘しておきたいと思います。まさにこの14節は1節の解説であり詳述なのです。この2つの節の間には、それぞれが呼応しあっている三つの提示が見られ、14節が1節に光を投げかけています。第1は、「初めにことばがあった。」という提示であり、これは私たちの理解を超えているものです。しかし、「ことばは人となって」という宣言が、主を私たちの感覚の領域にまで至らせてくれているのです。第2に、「ことばは神とともにあった。」という提示ですが、これもまた私たちには理解できないことがらです。ところが、ことばが「私たちの間に住まわれた。」ことによって私たちの近く主を意識し、また見ることができるようになったのです。第3は、「ことばは神であった。」という提示で、私たちを再び無限の領域へと導きます。けれども「恵みとまことに満ちておられた。」という説明が、私たちの目で見ることの可能な神に関する二つの本質的事実に気付かせてくれるのです。このように、1節と14節とをつなぎ合わせると(挿入しながら読んでいくと)、そこには、おそらく、その広さにおいてもっとも広範囲で、その深さにおいてもっとも深遠でありながら、その言葉使いにおいては聖書全体でもっとも単純な宣言がみられます。この二つの節をつなぎ合わせてみましょう。
(1) 「初めにことばがあった。」
(a) 「ことばは人となって」:主の人としての生涯の始まり
(2) 「ことばは神とともにあった。」
(b) 「私たちの間に住まわれた。」:人とともにおられる主
(3) 「ことばは神であった。」
(c) 「恵みとまことに満ちておられた。」:神がどのようなお方かを説明
「 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」(1:15) バプテストのヨハネの働きとその証言に関しては、次の章においてさらに詳しく述べることになります。ですから、ここでは、二つのことだけを簡単に述べておきたいと思います。第1に、主の先駆者はキリストの絶対的卓越性を証言しています。『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』「私にまさる方である。」という宣言の中で使われているギリシャ語は、キリストはその存在をヨハネの「前」に持っておられたという意味です。第2に、「私より先におられたからである。」という証言ですが、歴史的にバプテストのヨハネは、救い主がお生まれになる6ヶ月前に生まれています。ですから、バプテストのヨハネが「前に」と言ったとき、彼は、キリストの永遠の存在について言及していたことになります。つまり彼は、主の神性を証言しているのです。
「
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(1:16) 「満ち満ちた豊かさ」ということばは、この重要な記事の中では、救い主の神性を現わすためのもう一つの表現なのです。コロサイ書1:19、2:9でも、ここで使われている言葉と同じことばが見出されます。「 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」 「ek」というギリシャ語の前置詞は文字通り「−の中から」と言う意味です。神の豊かさの中から、私たち(信者)は「受けた」のです。私たちがキリストから「受けた」ものとは何でしょうか。ああ、私たちがキリストから「受け」なかったものは何でしょうか。私たちはいのち(ヨハネ10:28を見てください。)
を、平和(14:27を見てください。)を、喜び(15:11を見てください。)を、神ご自身のみことば(17:14を見てください)を、聖霊(20:22を見てください。)を、主から「受け」ました。
「恵みの上にさらに恵みを」 ライリ監督は、ここで使われているギリシャ語の前置詞が二通りの訳が可能であることを指摘し、以下のような考えを提示しています。第1、私たちは「恵みの上に恵み」を受けた、つまり、神のご好意は上に上にと重ねられているということ。第2に、「恵みに代えて恵み」、つまり新しい恵みが古い恵みに変えて与えられるということ、すべての必要に答えるために十分な恵みが与えられるのだということを意味しているのです。
「 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(1:17) モーセによって与えられたものと、イエス・キリストによって実現したものとの間のコントラストが描かれています。と言うのは、「恵みとまこと」はただ単に「与えられた」ものではなく、それらは「イエス・キリストによって実現した」もの、満ち満ちた豊かさ、こうごうしいまでの完璧さで与えられたものだからです。律法はモーセに与えられました。というのは、それはもともと彼自身のものではなかったからです。ところが、「恵みとまこと」はキリストに与えられたものではありません。なぜなら、この二つのものはもともとキリストご自身の完全さであったからです。このコントラストを調べるとき、ここでの重要なポイントはそれぞれが神ご自身を示しているのだということを理解しておくことです。すなわち、律法によって現わされた神、御子によって知らされた神ということです。
律法は「まこと」ではなかったのでしょうか。確かに律法は真理でした。律法は、神が人に何を命じておられるのか、つまり、人が何をすることが神のみこころであるのかを告げています。よく「律法とは神のみこころの写しである。」と言われます。けれども、これは不適当な言い方です。ほんとうに律法は神がどのようなお方であるかを示しているのでしょうか。律法はほんとうに神のすべての属性を表現しているでしょうか。もしそうだったとしたら、律法が教えてくれたこと以外に神について学ぶべきことは何もなかったでしょう。
律法は神の恵みについて語っていたでしょうか。いいえ。神の恵みについては何も語ってはいませんでした。律法は聖なるものであり、それは聖く義しく善なる戒めでした。律法は従うことを命じ、厳しい行いとそこに書かれたすべてのことの継続を要求しました。そして唯一の代償は「死」だったのです。その要求は絶対的で、刑罰の位置ぶたりとも免除されるようなことはありませんでした。「あわれみを受けることなく死刑に処せられます。」「すべての違反と不従順が当然の処罰を受けた。」(へブル10:28、2:2) このような律法は決して罪人を義とすることはできませんでした。だからこそ、義が与えられることはなかったのです。
失われた者によって律法が受け入れられるときにもたらされる律法の避けることのできない結果は、ちょうどあのシナイにおいて律法を受け入れた最初の人々にもたらされたときと同じです。「彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」(出エジプト20:19)「今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。」(申命記5:25) 何故このような恐怖が彼らを襲ったのでしょうか。彼らは「その命令に耐えることができなかった」(へブル12:20)からです。この恐怖は、すべての罪人に強要する訓戒でした。それは彼らに「神の律法」として理解させられていたものでした。まさにそれは 「死の務め」、「罪に定める務め」(第二コリント3:7,9)なのです。それは確かに「栄光」を持っています。しかしそれは雷といなずまの栄光であり、火の栄光、暗黒の栄光、密雲の栄光、角笛の音の栄光、ただ民に有罪宣告の自覚の恐怖を与えるだけの御声の栄光でありました。しかし神に感謝しようではありませんか。「さらにすぐれた栄光」があるのです。(第2コリント3:10)
「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」「さらにすぐれた栄光」とは、「ことばは人となって」くださった栄光であり、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」のことです。律法は神の正義を明らかにしました。けれども神の恵み深さを示すことはありませんでした。律法は神の義を証明しました。けれども神の恵みについては何も示してはいません。確かに律法は神の真理ではありました。が、神ご自身についてのすべての真理ではなかったのです。「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)と、みことばは述べていますが、「律法によって神を知る」とは言っていません。そうです。「 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。」 しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。律法は罪の恐ろしさを示しましたし、また人を罪に定めもしました。けれども完全に神ご自身を明らかにしたわけではありません。
律法は義なる神の罪に対する嫌悪と、罪を罰するという神の聖なる判決を明確に示しました。律法は、罪人の有罪とその堕落を暴露しました。けれども、律法は人にその状態を示すことはできてもその有罪宣告を取り除くことはできません。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3−4)
「恵みとまこと」 この二つは、ぴったりと、しかも不可分離の状態で互いに結び付けられています。一方を持つことなく他方を持つことなどは出来ません。恵みによる救いを好まない多くの人々がいます。また、もしもまことなしで恵みを持つことができるのなら恵みを我慢しようという人々もいます。ナザレ人は、主の御口から発せられたすばらしいことばに「驚き」さえしました。けれども、ひとたびキリストが彼らに真理を語られると「ひどく怒り」ました。そして、「立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。」と書かれています。(ルカ4章)このようこともまた、「なくなる食物」(ヨハネ6:27)のために主を捜し求めた人々の状態を表しています。彼らは主の恵みから何らかの益を得ようとしていただけでした。ですから、主が真理を語られると、ある者らは主に対して「つぶやき」だし、ある者らは「怒り」始め、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6章) 今日においても、もし真理の押し付けがないのならという条件で、主イエス・キリストから来る恵み認め、恵みによって救われることに同意する人々がいます。けれども、これは不可能です。真理を拒む人は、結局救いをも拒んでいるのです。
ローマ人への手紙5:21にも、同じような表現、この「恵みとまこと」ということばの拡大された記述がみられます。「恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」 罪人を救う救いとは、人間による支配によくあるような道徳的弱さだけのようなものではありません。またそれによって神の恵みが支配する「神の義」も、見せかけの正義のようなものではありません。そうではなくて、十字架の上でキリストを「その血による、また信仰による、なだめの供え物(破られた律法を完全に満足させる)として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義(神の義)を現わすためです。」(ローマ3:25) 恵みは律法を無視しているのでも、要求されていることがらを棚上げにしているわけでもありません。決してそうではなくて、恵みは、「律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31) 恵みは真理と不可分につながっているので律法を確立するのです。恵みは「義」によって支配するので、律法を確立します。律法を犠牲にしてではなく、律法を確立します。なぜなら、恵みは、主イエス・キリストを自分の主としてまた救い主として受け入れる者すべての代わりに律法をを完全に守り、死の刑罰を受けくださった身代わりを語り、贖われた者が律法を喜ぶ者とするからです。
それならば、イエス・キリストがおいでになる前には「恵みとまこと」はなかったのでしょうか。間違いなくありました。神は人類の祖が堕落したすぐ後、彼らを「恵みとまこと」によって扱ってくださいました。隠れていた彼らを捜し求めてくださったのも、彼らに毛皮の衣を用意してくださったのも、恵みによることでした。まことがあったからこそ、彼らに有罪判決が下され、園から追い出されたのです。神は、あのエジプトでの過越しの夜、イスラエルを「恵みとまこと」によって扱ってくださいました。彼らのために血の逃れ場を備えられたのは神の恵みでありました。彼らの代わりに傷のない身代わりを死に定めてくださったのは神のまことでありました。けれども「恵みとまこと」は、救い主ご自身がおいでくださるまでが完全に現わされることは、決してありえなかったのです。主によって「恵みとまことは実現し」、主のうちにそれらは具現化し、示され、耀きわたったのでした。
ではここで、律法と恵みの間にあるコントラストについて注目しておきましょう。
1、律法は人を古い創造の中にある者とみなし、恵みは人を新しく造られた者とする。
2、律法は人の中にあるもの、すなわち「罪」を明らかにし、恵みは神のうちにあるもの、すなわち「愛」を明らかにしている。
3、律法は、人に義を要求し、恵みは人に義をもたらす。
4、律法は生きている人を死に引渡し、恵みは死んでいる者にいのちをもたらす。
5、律法は、人が神に対して何をしなければならないかについて語り、恵みはキリストが人のために何をされたかについて語る。
6、律法は罪の知識を与え、恵みは罪を取り去る。
7、律法は人を神から切り離し、恵みは人を神と結びつける。
「 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(1:18)この節は、ヨハネの福音書1章の序言を結ぶことばです。キリストは「説き明かされたのである。」、つまり、父なる神を説明し、現わし、覆いを除き、示されたのでした。このことを行なわれたのが御子であり、このお方こそ父のふところにおられる神であると宣言しています。「父のふところ」とは、神との密接さ、親しさ、および神の愛の享受について述べています。そしてもちろん人となられたとき、御子は神との分離することの出来ないご自身の立場を離れられたわけではありません。父のふところに「おられた」のではなく、「おられる」お方なのです。受肉によっても、父なる神との間の親しさが変わることなど微塵だにありませんでした。主の栄光のほんのわずかの部分でも減じるようなことはありませんでした。また永遠の昔から主が父なる神と享受しておられた親密さあるいは一体性がほんのわずかでも減じるようなこともなかったのです。だとすれば、私たちはどれほどこの主イエスをあがめ、尊び礼拝しなければならないことでしょうか。
しかし、この節にはさらに注目すべき点があります。注目すべき対比が述べられているのです。過去には、神の栄光のすべてが現されたことはなかった―-「いまだかつて神を見た者はいない。」 しかし、今、神は完全なかたちで現された、すなわちひとり子の神が「神を解き明かされた」のです。このことは旧約聖書の二つの記事を引用し、それらを新約聖書の二つの記事と比べることによってさらに明らかにすることができるでしょう。
列王記第1、8:12には、「そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。」と書かれています。また「雲と暗やみが主を取り囲み、義とさばきが御座の基である。」とも書かれています。(詩篇97:2) これらの節が語っていることは、神ご自身がどのようなお方であるのかということではなく、律法のもとでは主はご自身を現わされないということを宣言しているのです。「暗やみの中に住む」お方をどのようにして知ることができるでしょうか。第1ペテロ2:9を読んで下さい。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」 ああ、これはなんという祝福でしょうか! また第1ヨハネ1:5,7には、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。…しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と書かれています。そしてこれは、ひとえに、父なる神が、私たちの尊い救い主によってご自身を「説き明かされた」からなのです。
ここで、出エジプト記 33:18を開いてみましょう。「すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」 これはモーセの切なる願いでありました。けれどもその願いはかなえられたでしょうか。続く節を呼んでください。 「また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」(21−23) その人物の性格は後姿にではなくその顔に現れるものです。モーセが神のみ顔ではなく、その後姿だけを見たのは彼が生かされていた律法の時代にちょうど一致するものでした。律法の時代が過ぎ去り、いまや恵みの時代の完全な光の中におかれていることを、私たちはどれほど感謝すべきでしょうか。私たちは神の後姿を見ているのではないことを、心から喜ぼうではありませんか。「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(第2コリント4:6)私たちを暗やみから連れ出し驚くべき光の中に入れた至高の恵みをほめたたえるための恵みが私たちに与えられますように! なぜならいまだかつてだれも見たことのない神が御子によって完全に説き明かされたからです。
では、熱心な読者、「みことばを調べる」ことに意欲を持つ読者が注意深く予習することができるように、次の章で学ぶ内容(1:19−34)について、いくつかの質問をあげておきましょう。
1、1:21で、どうしてユダヤ人はヨハネに彼がエリヤであるかどうか尋ねたのでしょうか。
2、1:21では、どのような「預言者」について彼らは言及していたのでしょうか。
3、1:23では、どのような考えが「声」ということばによって暗示されているのでしょうか。
4、1:23で、どうしてヨハネは「神殿で」ではなく「荒野で」叫んだのでしょうか。
5、1:26の「あなたがたの知らない方」とはだれのことですか。
6、1:29の「神の小羊」という救い主の呼称はどのようなことを暗示しているのでしょうか。
7、1:32で、聖霊はどうして「はと」のようにキリストの上に降って来られたのでしょうか。