第2章  永遠のことばなるキリスト   

  

ヨハネ1:1―13

 

 

前章で、「聖書の各巻はそれぞれ、重要でひときわ目立つその書独特のテーマを持っています。ちょうど人間のからだの各器官が、それぞれ独特の機能を持っているように、聖書の各巻もまたそれぞれが特別の目的と使命を持っているのです。ヨハネの福音書のテーマは、救い主の神性です。この書ほど完璧にキリストの神性を私たちに提供している書は聖書のどこにもありません。この第4福音書で顕著な事柄というのは、主イエスの神の御子性です。この書の中で私たちはベツレヘムの羊飼いたちに天使によってその誕生が告げられたお方、この地上で33年間歩まれたお方、40日後、人々の見ている前で天に上っていかれたお方こそが栄光の主でありました。その根拠は圧倒的に多く、証拠は無数にあり、これらを熟視する結果として、私たちは「大いなる神であり私達の救い主であるキリスト・イエス」(テトス2:13)の御前に礼拝を持ってひれ伏すことになるに違いありません。」と述べました。

 

ヨハネの福音書が救い主の神性を示しているということは、第1章の最初の言葉を見ればすぐに分かります。聖霊は、まさに、入り口にその鍵を置いていてくださるのです。というのは、この第4福音書の導入部分の数節は、神との関係における主イエス・キリストを示し、主の不可欠な栄光を明らかにしているからです。この深遠な記事の釈義を試みる前に、まずその内容を分析しておきましょう。ヨハネの福音書1章の最初の13節を次のように分析することが出来ます。

1、キリストの時間との関係。「はじめに」、つまり「永遠」1:1

2、キリストの神との関係。「神とともに」つまり、神の聖なる三位一体の一人格。1:1

3、キリストの三位一体との関係。「ことばは神であった。」神を現わされたお方。

   1:1

4、キリストの宇宙との関係。「すべてのものはこの方によって造られた。」つまり、創造者。1:3

5、キリストの人との関係。彼らの「」、1:4―5

6、バプテストのヨハネのキリストとの関係。キリストの神性の「証」言者。1:6―9

7、キリストを受け入れること。1:10―13

(A)、「世は彼を知らなかった。

(B)、「ご自分の民はこれを受け入れなかった。」1:11

(C)、神によって生まれた者は、「これを受け入れる。」1:12―13

 

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1―3) ほかの福音書の始まりの部分と比べて、これは何という大きな違いでしょうか!  ヨハネはキリストを、「ダビデの子」や「人の子」としてではなく、その冒頭から「神の御子」として紹介しているのです。ヨハネは、私たちを「はじめ」に連れて行き、主イエス・キリストには始まりがなかったということを教えてくれます。さらに彼は天地創造にまでさかのぼり、救い主こそが創造者であるということを明らかにしているのです。私たちは、この3節すべての語句を、細心の注意と祈りとをもって学ぶ必要があります。

 

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 私たちはここで、私たちの有限な思いを超越し、いかなる推測も不敬である領域に入ることになります。「初めに」ということばは、私たちの理解を超えたものです。人間の考察のレベルを超えた霊感の無類の範囲の中にあることがらの一つなのです。「初めにことばがあった。 そして、また、このことばの最終的な意味を完全に把握することも出来ません。「ことば」というのは一つの表現です。私たちはことばによって私たちの話を明確に発音します。そして、「神のことば」は、私たちが聞き取れることばで御自身を表現しておられる神なのです。けれども、私たちはそう言っても、まだ言い残していることが何と多くあることでしょうか! ことばは神とともにあった。 このみことばは主の分けられたご人格を暗示し、すばらしい三位一体の関係における、他のご人格との関係を教えてくれています。しかし、悲しいことに私たちは神のご人格の間にある関係について熟考することを怠っているのです!  ことばは神であった。  キリストはただ単に神を解き明かされたお方であるばかりではなく、過去においても、今日も神御自身以外の何者でもあられません。私たちの救い主であるばかりではなく、このお方を通して、またこのお方によって、私たちが聞き取れることばで明らかにされた神であるばかりではなく、彼御自身が、父なる神と聖霊とともに、神なのです。さあ、恵みのみ座に近づいて、これから私たちがこれらの節を綿密に学ぶのに必要な助けを受けるために哀れみと恵みを、神に求めようではありませんか。

 

「父なる神よ。今、御霊がキリスト様についてのことがらについて教えてくださいますように。み恵みの栄光の誉れのために。愛しまつるあなたの御子の御名によって祈ります。」

 

初めに ギリシャ語のテキストには冠詞がつけられていません。何の「初めに」なのでしょうか?  新約聖書の中にはいろいろな「初め」について言及されています。世界の「初め」があります。マタイ24:21   イエス・キリストの福音の初めがあります。マルコ1:1  悲しみの初め、マルコ13:8、奇跡(しるし)の初めなどもあります。しかし、ヨハネ1:1で言及されている「初め」は、明らかにこれらの「初め」に先立つ「初め」です。ヨハネ1:1の「初め」は、1:3の「すべてのもの」の創造に先立っているのです。ですからここでは、創造の初め、時間の初めを指しています。私たちの住んでいるこの地球は古いものです。しかし、「ことば」はすべてのものの前にすでに存在しておられました。彼は初めからおられただけではなく、初めにおられたのでした。

 

初めに ここでの定冠詞の欠落は、私たちをおおよそ想像できる最も遠い昔にまでさかのぼらせてくれます。そうだとすれば、主はすべての創造の前にすでに存在しておられたことになります。彼は「存在しておられた」のです。なぜなら、「すべてのものは、この方によって造られた。」からです。もしも主が「初めにあった」のであるとすれば、彼には始まりはなかったということになります。そしてそれは、「彼が永遠である」という事実を否定的言っているだけです。主は永遠です。ヨハネ17章に記されている主の祈りの中でこの事実と完全な一致を見出します。そこで主は言っておられます。「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。 ことばは「初めにあった。」、つまり永遠の昔にあったと書かれています。そして、神のみが永遠の存在なのですから、間違いなく、主イエス・キリストの神性が確証されることになります。

 

ことばがあった。 この記事の中で、「あった」という意味を表わすために2つの異なったギリシャ語が使われています。ひとつは「存在する」ことを表わし、もう一つは「存在するようになる」ことを表わしています。後者(エゲネト εγενετο)は、1:3で使われており、文字どおり、「すべてのものは、この方によって造られた(存在するようになった)。造られたもの(存在するようになったもの)で、この方によらずにできたものは一つもない。」という意味です。また、1:6でもεγενετοが使われており、「神から遣わされたヨハネという人が現われた(存在するようになった)。」と読みます。また、1:14では「ことばは人となって、」と書かれています。しかし、ここ1節と2節では、「ことばは神とともにあった(エーン)。」と書かれています。ことばとして、彼は存在するようになったのでもなければ、存在しはじめたのでもありません。彼は、「神とともに」永遠の昔より存在し続けておられたのです。ご聖霊が1章の初めの2節の中で、御子が御自身で存続しておられたことを表わす「エーン」ということばを4回も用いておられるのは注目に値します。バプテストのヨハネが「現れた(存在するようになった)」のとは違って、「ことば」は「あった(エーン)」、すなわち時間の初めより神とともに存在しておられたのです。

 

ことばがあった。」ここで言及されているのは聖なる三位一体の第2人格、子なる神です。では、主イエス・キリストはなぜ「ことば」と呼ばれているのでしょうか。この呼称の正確な力と意味は何なのでしょうか? この質問に光を投げかけてくれるヒントとして私たちに最初に思い浮かぶのはへブル書の最初に記されている宣言です。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」この御言葉から、キリストが神の最後のスポークスマンであるということがわかります。このことと密接な関係を持っているのが、黙示録1:8に見られる救い主の呼称です。『わたしはアルファであり、オメガである。 これは、主が神のアルファベット、すなわち神御自身をつづるお方、神が述べられることをすべて声に出されるお方であることをほのめかしています。このことがさらに明らかに記されているのが、ヨハネの福音書1:18でしょう。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 「説き明かす」ということばは「述べる」ことを意味しています。使徒15:14、21:19 それはまた、ルカの福音書24:35では、「話した」と訳されています。これら三つの訳を総合して考えると、キリストが神のスポークスマンであり、神性を書きあらわしたお方、また父である神を語られたお方であるということができるでしょう。

 

ですから、キリストは人間には理解不可能な神を理解可能にしてくださったお方であるということができます。ヨハネの福音書T:Tにあるキリストのこのタイトルの真の意味は、聖なるみことばに与えられている名前、「神のことば」と比べることによって理解でいるでしょう。みことばとは何でしょうか。神のことばそのものなのです。それはどういう意味でしょうか。つまり、みことばが、神の御心、御意志を示し、ご自分の完全さを知らせ、そのお心を明確に現わしているのだと言うことです。そしてまさに、このことこそ、主イエスがなされたことだったのです。それでは、このことをもう少し詳しく考えて見ましょう。

 

(a)、「ことば」は、表明の媒体です。私は自分の心の中にある考えをもっています。けれども、他人にはその内容はわかりません。ところが、その考えを言葉で表現するやいなや、認識可能となるわけです。ですから、ことばとは目に見えない考えの表明ということができるのです。そして、まさにこのことこそ、主イエス・キリストがしてくださったことだったのです。つまり、キリストは目に見えない神の表明そのものなのです。

(b)、「ことば」は伝達の手段です。私たちはことばによって他の人に情報を伝達します。言葉によって自分自身を表現し、自分の意志を知らせ、知識を伝えるのです。同じように、キリストは、ことばとして、神の伝達者として、私たちにいのちと神の愛を伝達してくださるのです。

(c)、「ことば」は啓示の方法です。人はその言葉によって、自分の知性的能力と道徳的性格の両方を現わすものです。言葉によって正しいと認められることも、有罪になることもあるのです。そして、キリストは「ことば」として、神の属性と完全性とを現してい下さるのです。キリストはいかに完璧に神を現わしていてくださることでしょうか! 主は、神の力を示してくださいました。また神の知恵を現わしてくださいました。また神の聖さを現わしてくださいました。またその恵みのすばらしさをも表現してくださったのです。主はまさに神のみ心を明らかにしてくださいました。このキリスト以外のどこでもなく、まさにキリストのうちにこそ、完璧にそして最終的に神が解き明かされたのでした。

 

ことばは神とともにあった。」 ここで使われている前置詞、「とともに」は、私たちに二つの思想を伝えているように思われます。第1に、ことばが神のご臨在の中にあったということです。「エノクは神とともに歩んだ。」とは、つまり、彼が神との交わりのうちに生きていたという事実を述べています。箴言8章の中には、ヨハネの福音書1:1で使われている「とともに」ということばに光を与え、「ことば」と神との間に永遠に存在している素晴らしい関係を明らかにしてくれるひとつの美しい節があります。この部分は、「知恵」が人格化される8:22で始まっています。そこでは、「ことば」と神との間にこの世界が始まる前から存在していた幸いな交わりについて述べられています。そして8:30には「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、」と書かれています。以上のふたつの思想に加えて、もう一つ、ここで「ともに」と訳されているギリシャ語の前置詞「プロス」はときどき「・…に向かって」と訳されることがあります。しかし大部分は「…に対して」と訳されます。つまり、ことばは、神に向かって、あるいは神に対して存在していたのです。ある人は意味深い表現で次のように言っています。「『とともに』ということばは、御子の父なる神との極めて重要な統一における関係の継続的な状態を示している。」

 

ここで、「ことばは神とともにあった。」と書かれているのは、主が人格的に分けられていることを示すものです。主は神の「中に」いたのではありません。そうではなくて、「神とともに」おられたのです。さて、ここで、みことばの驚くべき精密さに注目してください。私たちが想像するかもしれないように「ことばは父とともにあった。」とは言われていません。「ことばは神とともにあった。」言われているのです。「」と言う名前は聖なる三位一体の三人格を示すために一般的に用いられています。それに対して「」は、三位一体の神の第一人格にのみ付せられる特別な名前です。もしも「父とともにあった。」と書かれていたら、聖霊は度外視されていたことになります。ところが、「神とともに」と書かれているので、ことばが父なる神と聖霊なる神との両ご人格と永遠の交わりを持っておられたという事実を述べていることになるわけです。また、「神は神とともにあった。」と言っておられないことにも注目してください。と言うのは、神は複数のご人格をお持ちであるにもかかわらず、「ひとりの神」であられるからです。それゆえ、みことばは実に正確に、「ことばは神とともにあった。」と記しているのです。

 

ことばは神であった。」 さらに字義的に訳すれば「神はことばであった。」となります。比喩的な表現である「ことば」が、キリストの神的な栄光について不適切な概念を与えないように、まず、「ことばは神とともにあった。」と、御子の人格が独立したものであることを示されました。そして、それは十分ではなかったかのように、強調して、聖霊は次のように付け加えられました。「ことばは神であった。」 神ご自身であるお方のほかに、いったい誰が神を表現できるでしょうか! ことばは神から出てきたお方ではありません。そうではなく神ご自身が、ご自身を明らかにされたのです。神を現わされたのではなく、神ご自身が、ご自分を現わされたのです。これ以上力強く明確な断言を思いつくことができるでしょうか。

 

この方は、初めに神とともにおられた。」 「この方」とは「ことば」であり、「おられた」は、「存在が始まった」と言う意味ではなく、「存続しつづけていた」という意味であり、「初めに」は、「時間の存在する前から」を意味しており、「神とともに」は、「区別された人格」を示しています。ここで、キリストが神とともにおられたことを繰り返しているのは、キリストが永遠の昔からの神の心の中にあった考え、あるいは観念にすぎなかったものが、ちょうど時が満ちた時、現わされたものにすぎないという初期グノーシス異端を否定するためであったように思われます。この異端は今日にもその反響が見られるものです。

 

次の節に移る前に、ここから、実際的な応用を試み、同時に、第1章の終わりの部分に出されていた7つのうちの第3の質問に答えておきたいと思います。「私はどのようにして、より良く、より深く、より豊かに神ご自身に関する知識を得ることができるのでしょうか。」 自然を学ぶことによってでしょうか。あるいは祈りによってでしょうか。みことばを学ぶことによってでしょうか。どのようにしてでしょう。之よりももっと重要な質問を私たちは考えることはできません。愛する読者。あなたは、神に関して、その人格に関して、あるいはそのご性質についてどのような概念を持っておられるのでしょうか。主イエスがこの地上においでくださる前、この世界は、まことの活ける神に関する知識を持ってはいませんでした。自然界の中に神が現わされているのは事実ですが、それは完全なかたちでの啓示ではありません。 自然は神の存在を示してはいても、そのご性質については、ほとんど語っていないからです。自然は神の自然的属性、例えばその力や知恵、不変性などを示しています。けれども、神の道徳的属性、例えば義しさ、聖さ、恵み、愛などについてはどうでしょうか。自然は哀れみもありませんし、いかなる同情を示してはいません。神を恐れる盲人の信者であろうが下劣な殺人犯人であろうが、絶壁のふちを踏み外せば同じ結果を招くのです。もしも私が自然の法則を破れば、その後の悔い改めがどんなに誠実であろうと、決してその損失から逃れることはできません。自然は、神を現わすばかりか、神を隠してもいるのです。昔の人々は自分たちの目の前に「自然」を見ていたのですが、その自然から神について何を学んだでしょうか。使徒パウロが、学問と文化の中心地であった町で見た祭壇に答えさせようではありませんか。そこには、「知られない神に」と刻まれていたのです。

 

神が完全に現わされているのは、まさにキリストのうちにおいてのみです。自然はもはや創造主の御手から離れ、のろいの下に置かれています。どうして不完全なものが、神を現わすための完全な媒体でありうるでしょうか。しかし、主イエス・キリストこそ聖なるお方です。主は、肉において現わされた御子なる神であられます。ですから、彼こそがまったく完全に神を現わすことがおできになったのです。だからこそ、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言うことがおできになったのです。ですから、これが質問の答えです。そして、ヨハネの福音書の初めの数節にある実際的な応用です。もし、信者がさらに深くて豊かな神に関する知識を得たいなら、みことばの中に啓示されている主イエス・キリストのご人格とそのご生涯を祈り深く学ばなければなりません。聖なる神のみことば聖書に描かれている私たちの救い主のうるわしさを敬虔に吟味し瞑想することを、私たちのおもな務め、喜びとしようではありませんか。そうすることによってのみ、「神を知る知識を増し加えられ」(コロサイ1:10)ることができるのです。「神の栄光を知る知識」は、ただ「キリストの御顔に」のみあるのです。( コリント人への手紙第二4:6)   

 

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(1:3) この節もまた、キリストの神性を主張しています。ここで、創造のみわざをキリストに帰しています。そして神以外のだれも創造することはできないのです。人は、どんなに高ぶろうと、野の草の葉っぱ一枚作り出すことさえできません。被造物のすべての創造が「ことば」に帰されているということに注目してください。「すべてのものは、この方によって造られた」のです。もしも、主ご自身が被造物であったとしたら、たとえそれが最初で最高の被造物であったとしても、このみことばは真実ではなくなってしまいます。けれども、何一つ例外なく、「すべてのものは、この方によって造られた」のです。主はすべてのものが存在する前から、つまり永遠に、存在しておられました。そして、それゆえ、彼こそがすべてのものの、しかも唯一の創造者であられ、全能のお方なのです。

 

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(1:4) この節は、前節で述べられたことから論理的に継続されています。もしもキリストがすべてのものをお造りになったのであれば、彼はまた「いのち」の基盤でもあるはずです。彼こそが、いのちの賦与者なのです。ここで使われている「いのち」とは、個々のいのちではなく「いのち」全体を指しているものと理解できます。被造物のいのちは神の中にその起源を見出すのです。「 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:28)と書かれているとおりです。霊的いのち、永遠のいのち、復活のいのちもまた、「この方」にあるのです。さて、ここで「いのち」と訳されているギリシャ語の「ゾーエー」は霊的ないのちにだけ用いられることばだという反論があるかもしれません。けれども必ずしもそうではないのです。ルカの福音書12:15、16:25、使徒17:25などを見てください。このような個所では、「ゾーエー」が、人間のいのちとして用いられています。このように、「ゾーエー」という語は、あらゆる「いのち」という範疇を含んでいるのです。

 

このいのちは人の光であった。」これをどのように理解すべきなのでしょうか。ふたつの点に注目していただきたいのです。4節のこのことばが、「すべてのものは、この方によって造られた。」という宣言のすぐあとに続いているところから、ここで考慮に入れられているのは被造物であると言う点。第2に、ここで述べられている「」が、ただ信者を指すだけではなく「」一般をさしているという点です。この「いのち」は主イエスの神的な呼称のひとつです。それゆえ、「神は人類の光であった。」というのと等しい意味を持っています。これはキリストが、「」、人類に継続して持っておられる関係について述べています。キリストは彼らの「」なのです。このことは9節においても述べられています。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」 それでは、キリストはどのような意味において、人の「いのち」でありまた「光」なのでしょうか。光は人を責任がある者とします。すべての理性ある人間は道義的に、この光によって照らされています。すべての理性ある人間には「律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし」(ローマ2:15)ているのです。この地上に生まれて来るすべての人間を照らし、また彼らにその責任を与えているのはまさにこの「」なのです。ヨハネの福音書1:4で「光」と訳されているギリシャ語は「フォース」です。このことばが霊的な光だけに限定されているわけではないということは、マタイの福音書6:23において使用されていることから明らかです。「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」 ルカの福音書11:35、使徒の働き16:29節なども参照してください。

これまでに申し上げたことを誤解して、私たちが、すべての人間のうちには神的ないのちの火種があるので、必要なことはその火種が炎となるためにあおがれることだけだと考えている非聖書的な説を唱える者たちの仲間だと思わないでください。いいえ、私たちは、そのようなサタンの偽りを断固拒絶します。人は生まれつき、霊的に「自分の罪過と罪との中に死んでいた者であ」(エペソ2:1)ります。しかし、そうであるにもかかわらず、人にはなお、神のみ前に立って言い開きをしなければならない責任があります。なぜなら、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていおり、彼らの良心もいっしょになってあかししているからです。そして、これこそが、ヨハネの福音書1:4で言われている「光」であり、1:9にある「すべての人を照らすまことの光」であると、私たちは信じています。

 

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(1:5) ここでも、キリストの神としてのもうひとつの呼称が与えられています。1節で、主は「ことば」と呼ばれ、3節ではすべてのものの創造者であることが示されていました。そして4節では「いのち」、5節では「光」と呼ばれています。ヨハネの手紙第1の1:5節とこの個所とを比べてみてください。ヨハネの手紙第1の1:5には「神は光であって…」と書かれています。ですから、ここから導き出される結果は、主イエス・キリストが聖なる三位一体の第2格、神ご自身に他ならないという完全で絶対的な証拠ではないでしょうか。

 

イングリッシュマンの「ギリシャ語新約聖書」は、1:5の後半を次のように訳しています。「そして闇の中に光は現われる。そして暗闇はそれを理解しなかった。」これは、まさに人間の堕落の結果について教えています。この地上に生まれるすべての人間は自分の創造者によって照らし出されています。しかし生まれつきの人間はこれを光はみなしません。人はそれを受け入れません。したがって、その当然の結果として暗やみの中に追いやられることになるのです。生まれつきの人間は、「光に従って生きる」(このように生きた者はいまだかつてだれもいません。)かわりに、「光よりもやみを愛し」(ヨハネ3:19)ているのです。この証拠は、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」という事実に明確に現われています。あらゆる種類のやみは光の前に屈服し、やみそのものが消え去っていくものです。しかし、ここに述べられている「やみ」は、まったくの暗やみであり、望みのかけらすら見られません。この暗やみは、感知することも理解することもできないのです。これは、何という恐ろしく厳粛な堕落した人間の状態についての告発でしょうか。そして、神の恵みによる奇跡以外のいかなる方法をもってしても、このような状態の人間を「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださ」る(ペテロ第1、2:9)ことなどありえないのだということは、何よりも明白なことではないでしょうか。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。」(1:6) ここで、突然話題が変えられます。聖霊は、神ご自身である「ことば」から話題を変えて、キリストの先駆者について語り始められます。対象を示すことによって、彼があかしをするべきお方が「人」以上のお方であることを強調するために、彼自身は「人」として言及されています。この人は「神から遣わされた」ので、キリストのご人格を忠実にあかしします。この人の名前は「ヨハネ」でした。語源学者たちによると、その意味は「神の賜物」ということになります。

 

この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。(1:7) ヨハネは、「光」についてあかしするために来ました。これらのことばの重さを量ってみてください。厳粛、かつ痛ましく悲惨的です。次のような質問をすればそれは明らかです。すなわち、太陽がさんさんと輝いているとき、その事実に気付かずにいるのはどのような人でしょうか。太陽が輝いているという事実を説明される必要のあるのは誰でしょうか。それは盲人です。神が「光についてあかしするために」ヨハネを遣わさなければならなかったとは、何という悲劇でしょう。このような必要があったとは何と痛ましいことでしょうか。彼らの真ん中に今、「光」があるのだと説明される必要があったとは、何と厳粛な宣言でしょうか。人類の堕落の恐るべき啓示ではありませんか。光はやみの中で輝きわたりました。しかしやみはこれを理解することができなかったのです。だからこそ、神は光についてあかしさせるために、ヨハネをお遣わしくださったのでした。神は、ご自分の御ひとり子が、認められることも伝えられることもなくこの世界においでになることを許すことはおできになりませんでした。ですから、主がこの地上でお生まれになるとすぐに、ベツレヘムの羊飼いたちに、天使を遣わしてそれを伝えさせてくださいました。また、主の公生涯が始められる直前、イスラエルが主を受け入れるように命じるためヨハネが出現したのでした。

 

この人はあかしのために来た。」 このみことばは、説教者の任務について定義しています。説教者とは、自分の述べていることを知っており、また知っていることを述べる証人なのです。彼は自分の見解を話すのではなく、彼が知っている真理についてあかしするのです。

 

光についてあかしするため」 これこそが説教者の目標であるべきです。説教者は聴衆が自分から目をそらして別のお方に向けるようにしなければなりません。彼は自分をあかしするのでも、自分についてあかしするのでもありません。そうではなくて、「キリストを宣べ伝える」(第1コリント1:23)のです。これこそ、神の御霊が語っていてくださるメッセージです。なぜなら、「御霊はわたしの栄光を現わします。」(ヨハネ16:14)とキリストがご自分について言っておられるからです。

 

すべての人が彼によって信じるためである。」 「ためである」ということばがその目的を述べていることを現わしています。「あかしする」ということばが説教者の任務の定義しているとすれば、「光についてあかしする」は説教者の説教のテーマを示しています。そして「すべての人が彼によって信じるためである。」というみことばは説教者の働きの目的について述べられている部分ということができるでしょう。人は、神の証言を受け入れることによって信者となることができるのです。ここにある「すべての」は、6:45で見られるものと同じです。

 

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」(1:8) そうです、ヨハネ自身が「」であったわけではありません。というのは、「いのち」と同じように、「」もまた、神のうちにのみあるものだからです。神を離れて、すべては深くて不安の満ちたやみです。たとえ信者であっても、自分自身のうちに光を持っているわけではありません。みことばは何と言っているでしょうか。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。」(エペソ5:8)

ヨハネの福音書5:35には、A.V.によれば、ここ1:8で述べられていることと矛盾するような内容のみことばがあるように思われます。5:23で、キリストはヨハネについて次のように言われました。「彼は燃えて輝くともしび(訳者注:このことばが、英語訳A.V.では光となっている)であり、」 しかしここで使われているギリシャ語は1:8で「光」のために使われている言葉とはまったく別のものです。R.Vでは正しく「燃えて輝くともしび」と訳しました。この「ともしび」と訳されたヨハネを指すために使われたことばは、先駆者としてのヨハネと「光」としてのキリストとの間のコントラストを明確に示しています。ともしびは、それ自体の光を持っているわけではありません。ともしびは光をもらわなければならないのです。また、ともしびは、誰かによって運ばれなければなりません。さらにともしびは、やがて消えてしまうものです。数時間燃え尽きると消えていくのです。

 

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(1:9) ライル監督はすぐれたヨハネの福音書注解所の中で、ここで使われている「まことの」という形容詞には、少なくとも4つの言及を提案しています。第1に、キリストは惑わしのない「まことの光」であるという点です。サタン自身が「光の御使いに変装するのです。」(第2コリント11:14) しかしそれは、ただ惑わすためだけそのように現われるのです。けれども、キリストは、この世界にあるすべてのにせものの光とは対照的に、「まことの光」なのです。第2に、キリストは「まことの光」として、ほんものの光であるということです。旧約聖書の儀式の中で雛型やかげによって示されているぼんやりとした薄明かりとは対照的な「ほんものの」光なのです。第3に、「まことの光」として、キリストは反射光ではないということです。たとえば太陽からの光を受けて耀く月のように、借り物の光や、何かの光を受けて輝くような劣った光もあります。けれどもキリストの光は、借り物ではない主ご自身の本質的な栄光なのです。第4に、「まことの光」として、キリストは、通常の一般的なすべての光に卓越した光であるという点です。太陽には太陽の、月には月の、また星には星の輝きがあります。しかし、「光」そのものであられる主の御前においては、ほかのいかなる光もその耀きを失ってしまうでありましょう。9節の後半の部分については、4節の解釈をしたときにすでに考察していますから、今ここでもう一度取り上げる必要はないでしょう。「すべての人」が生まれつき持っている光は、まさにそこで述べた光であり、理性であり、良心なのです。

 

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」(1:10) 「この方はもとから世におられ、」という表現は、主の受肉とその後の33年間ほどの主が私たちに間に住まわれた期間に言及しているのだと、私たちは信じます。それから、「世はこの方によって造られた」と続きます。これは、受肉されたお方の神としての栄光をほめたたえるためです。さらに続けて、悲惨さを強調しています。「世はこの方を知らなかった。」のだと。

 

この方はもとから世におられ、」 この方とはどなたのことでしょうか。ほかの誰でありましょう。この世を造られたお方にほかなりません。ではこのお方はどのように受け入れられたのでしょうか。偉大な創造者が、おいでになろうというのです。世界中が喜びの期待が走るのではありませんか。主は、さばくためではなく救うためにおいでになるというのです。主は、横柄な暴君としてではなく、「きよく、悪も汚れもない(へブル7:26)「人」として、また仕えられるためではなく仕えるために出現してくださるのです。このようなお方こそ心からの歓迎を受けるべきお方ではなかったでしょうか。ああ、しかし「世はこの方を知らなかった。」のです。彼ら自身の企みと追及の中に生きていた彼らは、このお方について何も考えようとはしなかったのでした。これは、ことばで表現できないほどの悲劇ですが、さらなる痛ましいことがらがこの後に続くのです。

 

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(1:11) ここで使われていることばは実に適切なものです。ここで見られるみごとな区別に注目してください。「この方はもとから世におられ」たということばで、その存在の範囲の説明をしています。けれども、アブラハムの子孫に対しては、彼は「来られ」、彼らが受け入れるように戸を叩かれたのですが、彼らは「受け入れなかった。」というのです。「世」は無知のゆえに、そしてイスラエルは不信仰、すなわち積極的に主を拒絶したことのゆえに責められています。天からの訪問者を歓迎するかわりに、彼らは主を戸の外に追いやったばかりか、この地上からさえ追放してしまったのでした。その昔、メシヤの到来を切に待ち続けていた信仰深い先祖を持つ民が、おいでくださったメシヤを拒絶するなどとだれが想像できたでしょうか。けれども、それが現実だったのです。どうしてこんなことになったのかと、お尋ねになるでしょうか。私たちは次のようにお答えしましょう。まさにこのようになるということが、彼らの預言者によって明確に預言されていたのだと。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」 ああ! このような恩知らずの者たちにあきあきして、神が彼らをお見捨てになったとしても、だれが疑問を抱くでしょうか。十字架の上で死ぬために、主はなおもこの地上に留まってくださったとは、何という素晴らしい神の御意志でしょうか! 何という罪人へのうるわしい愛でしょうか!

 

けれども、世は「この方を知ら」ず、イスラエルもこの方を「受け入れなかった」としたら、神のご目的は果されなかったのでしょうか。いいえ、そんなはずがありません。「主のはかりごとだけがなる。」(箴言19:21)からです。主のおどろくべき謙卑が空しく終るはずがないではありませんか。ですからこそ、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(1:12)と書かれているのです。このみことばは、罪人に要求されていること、つまり救いを人間のサイドから述べています。救いは、キリストを「受け入れる」ことによって罪人にもたらされます。つまり、「主の御名を信じる」ことによってです。この受け入れるということと信じるということとの間には、本質的にはひとつのことであっても、微妙な違いがあります。「信じる」ということは、福音書の証言によって、そこに示されているとおりのキリストを尊敬することです。これは神がご自身の御子について述べられた真理を個人的に受け入れることを意味します。それに対して、「受け入れる」ことは、キリストを、私たちに向けられた、つまり私たちが受け入れるようにと私たちに差し出された神の賜物として見ることです。そして、「人々」、彼らがユダヤ人であろうが異邦人であろうが、あるいは富める者であろうが貧しかろうが、あるいは無学な者であろうが知識者であろうが、そんなこととは関係なくだれでも、キリストを自分の個人的な救い主として受け入れるなら、彼らには神のこどもとなる力、あるいは権威が与えられるのです。

 

では、いったいだれがこのように主を受け入れるのでしょうか。決してすべての人ではありません。ほんのわずかの人々だけなのです。 偶然にでしょうか。とんでもありません。次の節が述べている通りです。「 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(1:13)

このみことばは、どうしてほんのわずかの人だけがキリストを「受け入れる」のかを説明しています。つまり、彼らが「神によって生まれ」るからだというのです。12節が人間のサイドを述べているのに対して、13節は神のサイドを述べています。神のサイドとは「新生」です。そして新生は「血によってではなく」、つまり、遺伝によるものではないということです。「また肉の欲求…によってでもなく、」 生まれつきの人間は神に反抗する者です。ですから、人が新しく生まれかわらない限り、神に向かうことはないのです。「人の意欲によってでもなく」つまり、新生は、友人の努力や説教者の説得力によるものでもないないということです。「ただ、神によって」新生は神の働きによる者です。それは、聖霊が生きて働くみことばを罪人の心に応用してくださることによって成し遂げられるものです。キリストの地上でのご生涯の中においてなされたキリストを受け入れた事例においてさえ例外ではありませんでした。世は「この方を知らなかった」し、イスラエルはこの方を「受け入れなかった」のですが、ごくわずかな人々だけが受け入れるのです。そしてこのような人々とは、使徒の働き13:48に述べられている「永遠のいのちに定められていた人たち」なのです。第2章をここまでにしましょう。

 

第3章に入る準備として、以下の質問について研究されることをお勧めします。

1、ヨハネの福音書1;14で、「住まわれた」ということばは「天幕を張った」という意味です。ことばは人々の間に天幕を張られました。このことばは、荒野におけるイスラエルの会見の幕屋を思い起こさせます。旧約の幕屋は、どのような点でキリストの雛形であり、キリストを暗示していると言えるのでしょうか。

2、「私たちはその栄光を見た。」(1:14) これはどういう意味でしょうか。何の栄光でしょうか。少なくとも三つの栄光

3、そのような意味でキリストはヨハネよりも前におられたのでしょうか。(1:15節を参照)

4、1:16の意味は何ですか?

5、律法がモーセによって与えられ、恵みはきリストによって来たと言うのはどういうことでしょうか。

6、イエス・キリストが来られる前にも、「恵みとまこと」はあったでしょうか? 

しそうだとしたら、それらがキリストによって来たとはどういう意味なのでしょう

か?

  7、律法と恵みの間にあるコントラストを、あなたはいくつあげることが出来ますか?