第10章 キリストを証する先駆者
ヨハネ3:22−36
まず初めに、私たちがこれから学ぶ箇所の大まかな分析をしておきましょう。
1,ユダヤにおける主イエスと主の弟子たち 22
2,アイノンでバプテスマを授けるヨハネ 23,24
3,ヨハネに嫉妬心を起こそうとする試み 25,26
4,ヨハネのへりくだり 27、28
5,ヨハネの喜び 29
6,キリストの卓越性 30−35
7,避けることの出来ない選択 36
私たちがすでに見てきたいくつかの絵ほど容易にはその輪郭を見つけることはできないかもしれませんが、もう一つのひな形の絵がここに描かれています。
主のご在世当時のユダヤ教のあわれな霊的な状態は、三つのかたちで表現されています。第1に、ユダヤ人は外面的宗教によって支配されていました。(25) 第2に、キリストのもとに多くの人々が向かうことに対して嫉妬の念に駆られていました。(26) 第3に、彼らは救い主の証を拒絶しました。(32) これらの3点は、実に明白に国家としてのイスラエルの状態を暴露しています。神としてのキリストのために、彼らの心は整えられてはいませんでした。また主の先駆者によって示されたことがらについて、彼らは何と無知であったことでしょうか。(28) 彼らはただ儀式的なことがらだけを考えていたのでした。彼らは宗教的ではありました。けれども救い主の必要性を少しも感じてはいなかったのです。彼らはいのちの水を求めて主イエスのもとに行くことよりも、「きよめ」についての口論にふけることを好んでいました。しかし、それだけではありません。キリストのお働きの初期のころの表面的成功に対して嫉妬をさえ覚えていたのです。このことが明確に彼らの心を表わしてはいないでしょうか。32節を読むとさらにこのことが明らかになります。彼らは、キリストの証を「受け入れない。」のです。救い主は彼らから「軽蔑された」だけではなく、「拒絶された」のです。このように、ユダヤ教の驚くべき状態が私たちの目の前に明らかにあらわされています。
「その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。」(3:22) この節は4:2の光に照らして読まなければなりません。この二つの節を関連づけると、一つの非常に重要な原則が明確になります。すなわち、主の権威に基づいてキリストのしもべたちがしたことは、実にキリストによってなされたことと等しいと見なされているということです。このことはコリント第二5:20からも明らかです。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」 これはまた祈りについても言えることです。私たちが、イエス・キリストの御名によって父なる神に真剣に祈るとき、キリストご自身がその嘆願者であるかのように見なされるのです。
「一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。」(3:23) みことばの他の箇所でもそうであるように、これらの地名には深い意味があります。アイノンは「泉の地」という意味があり、サリムは「平和」です。ヨハネは何と素晴らしい場所にいたことでしょう。これらの地名は「ユダヤの荒野」(マタイ3:1)や「ヨルダン川沿いの全地域」(マタイ3:5)・・・・・それらは砂漠地域であり死んだ地でありましたが・・・・・とは対照的です。ここに、私たちに対するもっとも重要でもっとも価値ある教えがあります。砂漠地域で死んだ地とは、神がキリストの先駆者が労する場所として召された地でした。そして、その地において彼が忠実に主イエスの証をしたので、そこは彼にとって「泉」(リフレッシュ)となり、「平和」となったのです。これこそ、従順な神のしもべの経験するところなのです。
「ヨハネも・・・バプテスマを受けていた。」 ここには、神のしもべにとって非常に実際的な重要性をもったことばがあります。主イエスは個人的にユダヤにおられました。そして主の弟子たちもいっしょにおり、バプテスマを授けていました。最初はバプテストのヨハネの説教を聞きに集まっていた群衆は今や彼を離れてキリストのほうに向かっていました。(26) そのとき、この主の先駆者は何をしたでしょうか。彼は自分の任務がもう終わったので、もう自分の必要はなくなったと思ったでしょうか。自分の会衆が少なくなったことで彼はがっかりしたでしょうか。彼は働きを止め、長い休暇に入るのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。彼はただ忠実に任務を続けたのです。「ヨハネも・・・バプテスマを受けていた。」 ここに私たちのためにメッセージがないでしょうか。おそらく、読者の中には、かつてはおおぜいの人々に仕えていた働き人がおられるかもしれません。そして、今はもうおおぜいの会衆ではないかもしれません。別の説教者が現れ、多くの人々が彼のほうに行ってしまいます。では、どうすればいいのでしょうか。神があなたを棚に上げてしまわれたと結論づけるべきでしょうか。このようなことであなたはがっかりし、苦しんでおられるのでしょうか。あるいは、もっと悲しいことですが、あなたは成功している同労者をねたんでおられるのでしょうか。ああ、キリストの同労者よ! このみことばに思いをはせていただきたい。「ヨハネも・・・バプテスマを受けていた。」 彼の時は終わったのかもしれません。彼のともしびは、もっと明るい別のともしびのために目立たなくなったのかもしれません。説教を聞くために集まる人々は少なくなったでしょう。しかし、それにもかかわらず、彼は、神が彼にお与えになった任務を忠実に果たし続けたのです。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:9) ヨハネは自分の責任を行い続け、自分の働きを全うしたのでした。
「一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。」(3:23) これはバプテスマの方法について明確に示している多くの箇所の一つです。もしもバプテスマがふりかけたり注ぎかけたりするのであれば、「水が多かった」必要性はまったくありませんでした。「そこには水が多かったから」アイノンでバプテスマを授けていたという事実は、バプテスマの聖書的方法が浸礼であるということを暗示しています。けれども、神の御心を知り、実践したいと願う人は、単なる推論では満足しないでしょう。まさに「バプテスマを授けていた」ということばそのものが、ギリシャ語でも英語でも、「浸す」、あるいは「沈める」という意味を持っています。「ふりかける」「そそぎかける」という意味のギリシャ語はまったく別の語なのです。また、私たちのすばらしい主ご自身が与えてくださった模範はすべての論争を完全に静めてくれるでしょう。偏見さえなければ、だれでも、マタイ3:16に書かれている記事から、主イエスが浸礼をお受けになったことを読みとるでしょう。最後に、ローマ人への手紙6章の証言はバプテスマの方法の選択の可能性を否定し決定的なものです。「私たちはバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」(4)
「それで、ヨハネの弟子たちが、(ある)ユダヤ人ときよめについて論議した。」(3:25) ここでの「ユダヤ人」は1:19にある「ユダヤ人」同じ人々を指しています。ヨハネが誰であるのかを確かめるために、バプテストのところに代表団を遣わした人々のことです。古代ギリシャ語テキストには、ここでほんの小さな違いが見られます。英語RVでは(日本語新改訳も同じ)次のように読んでいます。「それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人(a Jewと単数になっている。AVではthe Jews)ときよめについて論議した。」 けれどもほとんどの箇所で、AVのほうが良い訳出をしているので、私たちは「ユダヤ人」という訳を取りたいと思います。明らかに、3:25のユダヤ人は、あの1:19のユダヤ人と同一の者たちであると考えられます。このことは28節からも明らかです。「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。」 バプテストは、ヨハネが以前彼らに対して証言した内容を彼らに思い起こさせています。と言うのは、3:28は明らかにヨハネ1:20と23の内容と一致しているからです。
「彼らはヨハネのところに来て言った。『先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。』」(3:26) このユダヤ人たちの目的は何だったのでしょうか。彼らの動機は悪意に満ちたものではなかったでしょうか。彼らはヨハネに嫉妬心を起こさせようとしていたのです。そのことが明らかに見えていました。キリストの先駆者に嫉妬心を起こさせようと思っていなかったのなら、なぜキリストの働きの表面的な成功を彼に伝える必要があったのでしょうか。そして、このことの後ろに、私たちのたましいの敵の存在を見抜くことが出来ないでしょうか。これは、一人の主のしもべに、別のさらに主の祝福を受けている人物に対する嫉妬させるのは、サタンが好んで用いる策略なのです。ああ! なんとしばしば、このようにしてサタンは邪悪な結果を獲得することでしょうか。このようなサタンの攻撃に耐えられるのは、人間の誉れを求めずに、ただ主の栄光を願う人々のみなのです。
このような原則に一致する例は、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数12:3)モーセとの関連において見られます。 民数記11:26,27には次のように書かれています。「そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。・・彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。・・彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。『エルダデとメダデが宿営の中で恍惚状態で預言しています。』」 さて、このあとに続く節に注目してください。「若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」 ヨシュアさえ、自分の主モーセのために嫉妬心を起こしました。 けれども、モーセは何とすばらしい方法でヨシュアをしかったことでしょうか! 「しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
同じような無私の精神は「聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)と自らを表現した人物のうちにも見られます。この愛すべき使徒がローマの牢獄につながれてる間にも、多くの兄弟たちが確信を強め、恐れることなく福音を宣教し続けていました。ある人々はねたみや争いをもって、またある人々は善意をもってキリストを宣教しました。では、そのような状況を使徒はどう捉えたのでしょうか。彼らが自分の不在を利用して、自分たちが人々の前に成功しようとしているのだと考えたのでしょうか。そうではありませんでした。彼は次のように述べています。「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」(ピリピ1:14−18参照) また、聖徒たちを元気づけるピレモンの働きについて、彼はピレモンに次のように書き送っています。「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。」(ピレモン7) このような精神が多くの主の働き人のうちにもわき起こりますように。
「ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」(3:27) この状況の中でヨハネが自分をどのようにうるわしく制御したのかを見ることが出来ます。彼の答えは実にすばらしいものでした。第1に、彼は神の主権的みこころの前にひれ伏しています。(27) 第2に、自分を試している者たちに、主の「前に遣わされた者」として、その他のいかなる立場も以前に否定したということを思い起こさせています。(1:28) 第3に、イスラエルが自分にではなくキリストに属しているということを宣言しています。(29) 第4に、彼は、自分の喜びが人々が主イエスのほうに行くのを見ることによって満たされたということを断言しています。(29) そして最後に、ヨハネは、キリストが「盛んになり」、自分が「衰えなければならない」ことを主張しています。(30) 何といううるわしい自己放棄の姿でしょうか!
「ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」 ヨハネはこのユダヤ人たちの霊的な理解力のなさに少しも驚いてはいません。神に関することがらは生まれつきの人間には理解できないことなのです。人が霊的なことがらを「受け入れる」ためには、その前に「天から与えられ」なければならないのです。そして神は、ご自身の賜物をお与えになるその行為においても主権を持っておられます。この27節は、難解な問題を解くための鍵を含んでいると思います。信者のバプテスマについての真理を見ようとしない主によって愛されているある兄弟たちがいます。またある兄弟たちは予定論につまずいています。私たちにとっては太陽の光のように明るいのですが、ある人々にとっては暗くてよく見えません。けれども、私たちは自分たちが知識において彼らにまさっていると考えて傲慢になるべきではありません。使徒パウロの助言を思い起こそうではありませんか。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(第1コリント4:7)
けれども同時に、神に関することがらの無知を言い逃れることも出来ません。決して言い訳などあり得ないのです。神はご自身のご意志を明確に知ることが出来るようにしてくださっています。神のうるわしいみことばは私たちの手に与えられているのです。聖霊がすべての真理に私たちを導くために、私たちに与えられているのです。ですから、私たちの学びのために記録されているすべてのことがらを信じ理解する責任が私たちにはあります。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(第1コリント8:2) しかし、神の側のことがらもあります。そしてまさに3:27がそのことがらに相当しています。主の大いなる働きがなされた街の不信仰に対して、主イエスは何と言われましたか。「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25−26) 使徒ペテロが主のメシア性と神性についてすばらしい証言をしたとき、主はペテロに何と言われましたか。「するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(マタイ16:17) ルデヤについてはどう記録されていますか。「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」(使徒16:14)
けれどもそうだからと言って、神が気まぐれなお方であるというのではありません。もしも「与えられない」のだとしたら、その責任はすべて私たちの側にあるのです。「私たちは「求めな」いので「持っていない」のです。(ヤコブ4:2) あるいは、私たちは神のすばらしいことがらについて熱心に探求しないので、見つけられないのです。このことに関する神の確かな御約束があります。「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。」(箴言2:1−5)
「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。」(3:28) ヨハネはここで、自分が「何者」ではなく、「何者」であるのかについて述べています。彼はキリストの御顔の前を行くメッセンジャー、先駆者でした。ですから彼は追従的立場にあったわけです。何という幸いなことでしょうか。ユダヤ人たちは何とかしてヨハネのプライドに訴えようとしました。ところが、主のしもべは彼らの前に自分の本来の立場を明らかにしたのでした。
「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(3:29) ここでまず私たちの注目をひく点は、この節の最初の文です。主イエスが「迎える」と言われている「花嫁」とは誰を指すのでしょうか。この質問の答えを見つけるためにこの宣言がなされたいきさつとこの宣言がどのような状況下で行われたのか、また誰がこの宣言が発したのかに注意を払う必要があります。この宣言がなされたいきさつというのは、ヨハネ3:22,23に戻るとよくわかります。イエスの弟子たちは、ヨハネ自身と同じように「バプテスマを授けて」いました。これはいわゆるクリスチャンのバプテスマではありませんでした。なぜなら、クリスチャン・バプテスマは救い主の死と復活のあとで制定されたものであったからです。ですから、このバプテスマは王国のバプテスマであったということが出来ます。そしてそれは王国にはいるための一つの条件であったわけです。(マタイ3章参照) この宣言がなされた状況はヨハネ3:29に見出されます。それはまさに群衆がこぞってキリストのほうに向かっているという事実を持ってヨハネに嫉妬心を起こさせようとたくらんいでた者たちへの返答としてなされたものでした。この宣言を発したのは、異邦人への使徒、パウロではなく、バプテストのヨハネでした。これの働きというのはイスラエルに限定されていましたし、ここで彼は自分自身を花婿の「友人」としています。
バプテストが「花嫁を迎える者は花婿です。」と言ったとき、彼は、キリストの御からだである教会について言及していたわけではありません。なぜなら彼は何も知らなかったし、また三位一体の神は誰をも救ってはおられなかったからです。そのとき、キリストはまだ教会を組織してはおられませんでした。けれども「割礼の働き人」として、主はご自身をイスラエルに表わしていてくださいました。やがて悔い改めて信じた数人が主のもとに集まってきました。12弟子が地上での関係においてキリストと結ばれていた(もちろん、信仰の家のメンバーであり、神の家族でもありましたが)ということは救い主のおことばから明らかです。「そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」(マタイ19:28) これは、異邦人への使徒であり、彼を通して神はひとつのみからだについて教えようとされたパウロによってはけっしてなされないことがらです。
「花嫁を迎える者」とはまさに信仰のことばでありました。「花嫁」を形成する者たちは、その時点では、まだ完成されてはいませんでした。そこにはただ核があっただけでした。けれども、イスラエルについての神のご目的があたかももうすでに完成されたかのように見ることが出来たのは信仰の目を通してでありました。しかし、「花嫁を迎える者」ということばは、一つのからだという概念を除外しています。というのも、この数年あとまでその一つのからだが形作り始められることはなかったからです。もしも、今述べたことについてのさらなる証拠が尋ねられるなら、それは続く節の中に見られます。「そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」 これはバプテストのヨハネ自身に言及していることは疑いの余地がありません。しかし、彼がキリストのみからだである教会の真理の布告に関係していたと言う考えはまったく不可能です。ヨハネの福音書1:31がそのことを断言しています。「私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
私たちは、この章の学びにおいては、決してキリストのみからだが天におけるキリストの花嫁であるということを否定も肯定もしようとしていないことを明確にしておきたいと思うのです。それはこの記事の中の範囲ではないからです。私たちが目指していることは、ヨハネの福音書3:29の忠実な注解なのです。そして、このみことばの中での「花嫁」は、まだ完成していないグループとしての回心したイスラエルを指しているのです。その群れを集める働きは、全体としてのユダヤ国家によるキリストの拒絶によって中断されてしまいました。そして、その状態が今日まで続いています。しかし、キリストのみからだが、「ついに・・・信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4:13)ようになると、神はイスラエルに対するご自身の働きを再びおはじめになるのです。
「そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(3:29) すばらしいことではありませんか。まず、次のことに注目してください。ヨハネの福音書1:35−37を学んだときに注目したことがらがもう一度ここで繰り返されているという点です。ヨハネが、「見よ、神の小羊」と言う前に、彼の弟子の二人が「立っていた」と記されています。そして、今私たちが学んでいるこの節においてもその順序は同じです。「そこにいて、「そこにいて(KJVでは「立っていて」)」花婿のことばに耳を傾けている」とあります。「立つ」とは「行動の休止」を表わすことばであり、注意を集中する動作です。ここで描写されている原則は非常に重要なことがらです。これこそ忙しくめまぐるしい生活・・・・・実はそのような生活は肉のエネルギー以外の何ものでもないのですが・・・・・を強いられている今日、もっとも強調されなければならないことがらではないでしょうか。「主のみことばに耳をかたむける」前に、私たちは「立」たなければならないのです。
「それで、私もその喜びで満たされているのです。」(3:29) これは何とすばらしいことでしょうか。心の喜びはキリストによって支配された者の結ぶ実です。たましいに喜びを与える主のみ声を聞くために、彼は「立って」います。けれども、このために何よりも大切なことは、肉の活動の停止であるということをもう一度強調しておきたいと思います。もしも私たちが、周りを取り囲んでいる不安に満ち騒然とした社会の中での交わりによって、あちらこちらへと振り回されているなら、私たちは主の御声を聞くことが出来ません。「良いほう」は、「いろいろなことを心配して、気を使っている」マルタのような行為ではなく、「主の足下もとにすわって」、「みことばに聞き入っていた」マリヤのような態度なのです。(ルカの福音書10:38−42) ヨハネ3:29の動詞の時制にも注意を払わなければなりません。「そこにいて、花婿のことばに耳を傾けている」 「そこにいて」も「耳をかたむけている」も使われている時制は、継続的行為を表わす完了形なのです。私が「喜びで満たされている」ためには、繰り返し繰り返し、日ごとに、このことが行われるべきなのです。私たちの喜びのない生活の説明は、まさにこの点で説明できるのではないでしょうか。
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(3:30) ヨハネの美しい謙遜のクライマックスがここにあります。これはまさにあらゆる党派を押しつぶし、彼の弟子たちの心にひそむ嫉妬心のつぼみをつみ取るための宣言でした。だいたいのところ、これは前節でヨハネが言及したことと不可分の関係を持っています。「立って」、完全なうるわしさを持ちたもうすばらしいお方の御声を「聞く」とき、私は「衰え」れば衰えるほど、喜びが増大するのです! そしてその反対もまた真理です。「立って」、主の御声を聞くとき、主は私の前で「盛んに」なり、私はますます「衰える」のです。私は同時に二つの目的を持つことが出来ません。「衰える」ということは、自分自身に支配されている状態からの解放を意味するのだと私たちは考えます。キリストに支配されればされるほど、私たちは自分自身による支配から解放されるわけです。へりくだりは直接の産物ではありません。むしろ副産物であると言えましょう。へりくだろうとすればするほど、へりくだりに到達することが出来なくなるものです。けれども、「心優しく、へりくだっている」御方によって完全に支配されるとき、また、もしも私たちが神のみことばに反映されているこの御方の栄光を仰ぎ見るなら、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3:18)
私たちが今学んでいるこの箇所には、主イエスキリストについてのバプテストのヨハネの最終的な証言が含まれています。ここで、救い主とそのしもべがするどく比較されています。自分の主多方面にわたる栄光を証言して、バプテストのヨハネは七つのコントラストを描いています。第1に、ヨハネは自分が「天から与えられるのでなければ、何も受けることができない」(3:27)存在でしかないのに対して、キリストは父なる神が「万物を・・・手にお渡しになった」(3:35)お方であると言っています。第2に、イエスはキリストであられるが、自分は「その前に遣わされた者」(28)にすぎないと述べています。第3に、キリストは花婿であられるが、自分は七婿の友人にすぎないと言っています。(29) 第4に、キリストは「盛んになり」、ヨハネは「衰えなければならない」(30)と述べています。第5に、ヨハネは「地から出る者」であるのに対し、主イエスは「天から来る者」であられるばかりでなく「すべてのものの上におられる」(31)お方であると述べています。第6に、ヨハネは自分が御霊を無限に与えられているわけではないが、キリストは「神が御霊を無限に与えられた」お方であると証言しています。(34) 第7に、自分が単なるしもべであるのに対し、救い主は父の御子であられることを宣言しています。(35) これは、栄光の主の計り知れぬ卓越性を証言として、何とすばらしく、また完璧なものであったことでしょう。
「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。」(3:31) 今ここでヨハネは、栄光に満ちた御方、キリストの証言をしています。ヨハネはここで、証言の中で述べたキリストと自分自身の間にある七つのコントラストの一つを取り上げているように思われます。「地から出る者は地に属し」という表現は「世から出る者は世に属し」というふうに解釈されるべきではありません。ヨハネは地から出た者であり、地に属することについて話しました。けれども主は天からであり、すべてのものの上におられるお方です。他のすべての神によって遣わされたメッセンジャーたちはみな地に属する者たちでした。それは、今日の主のしもべたちである私たちとまったく同じことです。私たちは有限の理解力によって制限されています。私たちが宿っているこの死のからだはハンデイキャップを負っています。私たちのものの見方は地上のことがらに制限されているのです。けれども主イエスにはいかなる制限もありませんでした。この御方は天からの来られた御方、純粋、完全、そして全知の神の御子であられました。
「この方は見たこと、また聞いたことをあかしされる」 (3:32) キリストに関するこの証言は完璧なものでした。預言者たちは自分たちの語るべきメッセージを聖霊から受けました。そして、彼らは彼らがまだ「見ていない」ことがらについて話したのです。マタイの福音書13:17をご覧ください。御使いたちが見たいと願っていることがらがあります。けれどもそれらは理解するにはあまりにも深すぎます。第1ペテロ1:12をお読みになってください。しかし、私たちの主イエス・キリストは、ご自分の完全な知恵によって天のことがらを知っておられます。というのも、主は父なる神のふところにおられる御方だからです。主は神のみこころをすべて知っておられました。主語自身が神であられるからです。
「だれもそのあかしを受け入れない。」 (3:32) このヨハネのことばは、26節にあるユダヤ人たちの「みなあの方のほうへ行きます。」ということばとは何と大きな違いがあることでしょうか。私たちがここから学ぶことの出来る教訓のひとつは、霊的なことがらを扱う数字がいかにあてにならないかということです。このユダヤ人たちは、ただ表面的な事象だけを見ていました。そしてそのような見方によれば、キリストのお働きは外面的には非常に人々に人気があったかのように思えたわけです。しかし、主の先駆者は表面化にある、真の霊的な結果を見ています。そして彼の判定は「だれもそのあかしを受け入れない。」というものでした。ですからわたしたちは統計上の数字というものに注意しなければなりません。どのような人々がその数値を出すかによって大きく変わってくるものなのです。楽観的な人であるなら、すべてを楽観的に見るでしょうし、もっと慎重で厳しい判断を下す人なら悲観的に見るでしょう。
「だれもそのあかしを受け入れない。」 このことばだけを取り上げて理解すべきではありません。と言うのは、まさにこの次のことばが、「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」と宣言しているからです。ここでヨハネが言いたかったことは、大部分の人々がキリストの証を受け入れなかったということです。主のもとに来た群衆と比較するなら、イスラエルという国家全体から見るなら、キリストの証を受け入れた人々はほんの一部の人でしかなかったわけです。それはほとんど誰も受け入れなかったかのようなものであったと言っているのです。これは今日でも同じではないでしょうか。この恵まれた国において、キリストは大多数の人々に向かって宣教されています。そして多くの人々がキリストについて聞いています。ああ!しかしながら、 自分たちの心に主の証を受け入れるのはほんの一握りの人々だけなのです!
では「天から来る方」(31)であり、「神が御霊を無限に与えられる」(34)方であり、父によって愛されている御子である御方(35)の証言を、人はなぜ受け入れないのでしょうか。それはまさに人が地に属するものであるからです。彼らにとってはそのメッセージはあまりにも気高い天のメッセージであるからです。そのようなメッセージにたいする好みがないのです。彼らはもっと低俗なものを求める心しか持ってはいません。ある人々にとっては、そのような単純なことがらを信じるには彼らの教養が邪魔になるのかもしれません。今もなお、それはユダヤ人にはつまずきの石、ギリシャ人には愚かと思えるのでしょう。彼らは神を信じようとはしません。彼らが人からの栄誉は受けている限り、神を信じることは出来ないのです。またある人々にとってはプライドが邪魔をするでしょう。彼らは自分たちが十分すばらしい存在であると考えます。ちょうどパリサイ人がそうであったのと同じです。自分たちが高貴な生まれであると考えているので、新しく生まれる必要性を考えることが出来ません。彼らは高慢すぎて、何も持たない物乞いにまで成り下がって神の賜物を求める立場にまで自分自身をへりくだらせることは出来ないのです。けれども、キリストの証言を拒絶する根本的な理由は、「人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(3:19)ということなのです。人は堕落したので、その心はかたくなにされ、その理解力は暗くなってしまいました。どれゆえ、人は光よりも暗やみを愛するものとなってしまったのです。
「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」(3:33) 「に確認の印を押した」とは、証明する、あるいは承認するという意味です。主イエスに対する信仰によって、信者は神が現実の存在としての神を知るようになります。かつては彼は知らない神について聞きまた話していました。しかし今や彼は自分で神を知っており、神のご誠実に対する信仰を表明します。神は仰せになります。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」のだと。そして信者は、今や新しいいのちにおいて生きているので、神が真実な御方であらせられることを知るのです。主は仰せになります。「御子を信じる者はさばかれない」と。そして、信者はそれが真実であることを知ります。なぜなら罪の重荷は彼から取り除かれたからです。キリストの証言を真実であるとして受け入れた者はそれを自分自身のものとして取り入れます。彼らは自分たちのたましいをその真実の上において平安を得ます。彼らはそれを自分のものとするのです。そして主のおことばを疑わせるようないかなるものも入り込むことを許しません。彼らがそれを理解することが出来ようが出来まいが、もっともだと思えようが思えまいが、それが神のみことばであるなら、それをそのまま信じるようになるのです。自分たちの気持ちがそれに合うかどうかは問題ではありません。神の御子が仰せになった! それで十分なのです。
「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」(3:34) 主イエス・キリストは神によって遣わされました。そして神のことばだけをお語りになったのです。このことは父なる神によってかの変貌の山において証言されました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17:5) そしてキリストは神によって遣わされたいかなるメッセンジャーとも異なっていました。主は、あらゆる点において卓越しておられました。他の者たちは聖霊を、主と同じように無限に与えられていたわけではありませんでした。彼らは神の真理を断片的に知っていたにすぎません。彼らに対しては、聖霊はしばしば下ってくださり、また去って行かれました。加えて、彼らの賜物はさまざまでした。ある者には聖霊のある賜物が与えられており、またある者にはまったく別の賜物が与えられていたわけです。ところが、神はキリストにたいしてこのような限られた聖霊の力をお与えになったのではありませんでした。主イエスは、神の真理をすべて知っておいでになりました。と言うのも、主ご自身こそが真理であられたからです。主の上に、聖霊は下ったり去ったりされるようなことはありませんでした。そうではなく、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」(1:32)と書かれています。そしてさらに、キリストはすべての神の賜物をご自身のうちに宿しておられました。預言者たちを通しての神の断片的伝達(へブル1:1)とは対照的に、キリストは完全に、また最終的に神の御心を知っておられたのです。キリストが聖霊を無限に受けておられたというみことばの意味するところは、コロサイ2:9に述べられていることがらとまったく一致するものだと私たちは信じています。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」
「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」(3:35) 何という栄光に満ちた証言でありましょうか! キリストは神のメッセンジャーや証言者以上のお方です。このお方は、父なる神に愛されている「御子」であります。それだけではありません。父なる神はこのお方に「万物を・・・お渡しになった」のであります。もう一度、これはキリストの完全な神性の宣言に他なりません。父なる神が「万物を」与えることがおできになったのは、主イエス以外にありませんでした。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(3:36) これは避けることの出来ない選択です。救いは信じることによって与えられます。御子を信じることによってです。何と敬虔なシンプルさでしょうか! 御子を信じる者は、現在の所有としての永遠のいのちを持つのです。言うまでもなく、この永遠のいのちの完全な意味での喜びと現れは将来のことではあるのですが。けれども、御子を信じない者は「いのちを見ることがなく」いのちの中にはいることも、いのちを享受することも出来ません。その反対に、罪を忌み嫌いたもう神の怒りが「その上にとどまる」のです。神の怒りは、今も彼らの上にあります。そして、もし彼らが信じないなら、永遠に彼らの上にとどまるということです。ことばに表現できないほど厳粛な宣言ではありませんか。読者が真剣にそして誠実にこの質問に直面する必要があるのではないでしょうか。すなわち、「どちらのグループに自分は属しているのか。」ということです。御子を信じる者たちのグループでしょうか。それとも御子を信じない者たちのグループなのでしょうか。
次の章の予習をしたい読者のために以下の設問をあげておきましょう。
1,
4:2ノ「イエスご自身はバプテスマヲ授けておられたのではなく」という言及から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
2,
主がパリサイ人たちの嫉妬をかっていることを知られたとき、どうして「ユダヤを去」られたのでしょうか。4:3
3,
ヨハネ4:3,4において、私たちはどのような預言的ひな形を見ることが出来るでしょうか。
4, どうしてキリストは「サマリヤを通って行かなければならなかった」のでしょうか。4:4
5, キリストとサマリヤの女との会見が「井戸」の行われたことから、私たちは何を学ぶことが出来るのでしょうか。4:6
6,
なぜ、「ヤコブの井戸」と書かれているのでしょうか。4:6
7,
「第6時ごろ」とは、何を意味していたのでしょう。4:6