
J P ボイス DD.,LL.D
1827−1888
神は、かつてアメリカの南部バプテストを豊かに祝福し、彼らを健全な信仰のための要塞として用いてくださったことを誰もが認めなければなりません。そしてその南部バプテストの働きにおいて、神学的な土台を築いた神のしもべのひとりこそが、今私たちが取り上げようとしているJ・P・ボイスなのです。
ジェームス・ P ボイスは1827年1月11日、南カロライナ州のチャールストンで生まれました。父親のカー・ボイスは南カロライナで屈指の富豪でした。そして当時の社会に大きな影響を持つ人物でもありました。母親のアマンダは厳格な長老派の信者の家庭で育てられましたが、第1バプテスト教会のバジル・マンリーを通してキリストへと導かれました。そして、うるわしい神の絶対的主権のうちに、ちょうど彼女の息子ジェームスが生まれる一年前にバプテスマを受けました。(注1) このようにして、ジェームスはバプテストの信仰を持つ母親に育てられることとなったのでした。一人の偉大なバプテスト指導者を生み出すために神はすべてを整えていてくださったのでした。
バジル・マンリー
チャールストン大学で2年間の学びをおさめた後、ロードアイランドにあったブラウン大学へとすすみました。そしてブラウン大学において、学長フランシス・ウエイランドのもとで学ぶことになります。このウエイランド博士こそ、リチャード・フーマン、R・B・センプル、スペンサー・H・コーン、W・B・ジョンソンとともに、「三年協議会」(宣教バプテスト・ジェネラル・コンベンション)の偉大な指導者の一人でした。(注2) ボイスはこのウエイランド博士から、神学的にも牧会の方法においても大きな影響を受けたと言われています。
フランシス・ウエイランド(1796−1865)
1846年、ボイスは春期休暇を利用して故郷のチャールストンに戻りました。主権を持ちたもう神はそのころ彼の心に強く働いておられました。そしてその休暇中に、主イエス・キリストを信じ、チャールストン第1バプテスト教会においてリチャード・フラー博士からバプテスマを受けメンバーとなりました。彼の生活の変化について、ブラウン大学の教授、ギルド博士は次のように書き残しています。
「彼はまったく変えられた者として大学に戻ってきた。大学に戻るとすぐにクリスチャンのサークルに入り、エネルギッシュで情熱的に、リヴァイヴァルのために活動を続けた。まさにそれは彼の回心の真実さを証明するかのようであった。」(注3)

リチャード・フラー(1804−1876)
1847年、彼は説教をする資格が与えられました。そしてそれから6ヶ月の間、「南部バプテスト」誌の編集にたずさわりました。さらに1849年から2年間、彼はプリンストンで学ぶことになります。当時プリンストンは、アメリカにおける保守的な神学の要塞のごとき場所でありました。アーチバル・アレクサンダーやチャールズ・ホッジのような偉大な神学者が健全な神学を教えるために戦っていたのです。南部バプテストの大部分の牧師たちがそうであったように、ボイスもプリンストンに来る以前からすでにカルヴィン主義に立っていました。けれどもその教理の聖書的な土台を得たのはまさにプリンストンにおいてチャールズ・ホッジのような神のしもべのもとでの学びによってでありました。神はご自身のご計画を成し遂げるためにすべてを整えていてくださるお方なのです。
チャールズ・ホッジ
テイモシー・ジョージは、ボイスが「天と地の主である絶対主権を持ちたもう神の偉大さ、権威、恵みに燃えていた。」と言っています。(注4) 後に南部バプテスト神学大学院でボイスのもとで学んでいた学生たちが交わした日曜日の午後の会話はあまりにも有名です。
「私たちは今日、この時代のもっともすばらしい説教を聞いたよ。」
「誰がその説教をしたの?」
「ジム・ピーター(ボイス)さ。」
「説教のテキストは?」
「神だよ。」
「テーマは?」
「神さ。」
「で、その説教の区分は?」
「もちろん神だ!」
1851年、プリンストンを卒業すると按手を受け、南カロライナのチャールストンにある第1バプテスト教会の牧師となりました。そして1855年にはフーマン大学の神学教授として迎えられます。1856年7月に行われた彼の就任演説は、おそらく初期の南部バプテスト協議会における最も重要な演説のひとつであったと思われます。その演題は「神学教育における三つの変化」というものでした。テイモシー・ジョージは、この演説の概要を次のように記しています。(注6)
受け入れの広さ: 大学院学生は今日まで、入学する条件として古典の大学教育を受けていることが求められていた。このためにそのような機会を得ることのできなかった者たちは大学院での学びが許されなかった。ボイスはこのような制限を取り除くように提言した。
高等教育:古典の大学教育を求められることはないが、それは学問的に怠け者が受入れられることを意味するものではない。バプテストは、キリストのためによく訓練されたしもべたちを送り出すべきであると説いた。
信仰告白の一致: すべての教授と学生たちの間に教理的原則の一致がなければならないことを強調した。
ボイスのヴィジョンは1859年10月3日に、南部バプテスト・セミナリーのかたちで実現します。借用した建物、4人の教授、25名の学生で、その日最初のクラスが行われました。その時の4人の教授は、ボイス、ジョン・A・ブローダス、バジル・マンリー・ジュニア、ウイリアム・ウイリアムスでした。そして、ボイスが教授会の議長に選出されたのでした。彼らはプリンストン、ブラウン、ハーヴァード、ヴァージニア大学などの学位を取得した有能な教授たちでした。(注7)
ブローダス
マンリー
ウイリアムス
ボイスは深い教理的なコンヴィクションを持つ人物でした。真理を高く掲げたいという彼の不屈の願望は、彼のユーモアと穏やかでやさしい精神のうちにも明確に現れていました。彼はジョークを交えて人々の間違った考えを正したことで有名です。ボイス博士が縫い物にたけていることは学生たちの間で有名でした。南部バプテスト協議会の中で、同僚のボタンがとれてしまったことがありました。するとボイスはすぐにボタンをつけてあげたのです。感謝する同僚に対して、「ああ兄弟! あなたの神学をこんな風に簡単に直してあげることができたらいいのに!」と答えたと言われています。
1862年に、ボイスは南カロライナ州議会議員に選出され、1864年に再選されています。彼は議員としても突出した才能を発揮し、南部連邦の支持を主張する彼の二つの演説は出版されました。
「A
Brief Catechism on Bible Doctrines」,「The Doctrine and Uses of the Sanctuary」、コロンビア・バプテスト教会の献堂式の説教、「Death and Life the Christian’s Portion」
などは、ボイスの主要な出版物です。しかし、ぜひ読んでおきたい著作は、Abstract of Systematic Theologyです。
ボイスは、南フランスで地上での生涯を閉じました。彼はその生涯の間中、疲れることなく、自らの信じる神学のために戦い抜いた神のしもべでした。彼はスポルジョンがそうであったようにアルミニアニズムの危険性について警鐘を鳴らし、ハードシェル・バプテストが南部に広がると、この間違いにもまた立場を取りました。彼は福音の宣教のためにもその努力を惜しむことのないバランスのある神学者でもありました。彼の個人の所有していた書籍の数は実に13000にも及んだと言うことです。
注1 Baptist Theologians by Timothy George and David S. Dockery, Broadman Press,
1990, p. 249.2
注2 Baptist Theologians by Timothy George and David S. Dockery, Broadman Press,
1990, p. 250
注3 Memoirs of J.P. Boyce, p.46.
注4 Baptist Theologians, p. 262.
注5 Boyce and Broadus:
Founders of the Southern Baptist Theological Seminary, by David M. Ramsay,
p.4.
注6 Baptist Theologians, pp. 252-53.
注7 History Of The Southern Baptist Theological Seminary, Web
Site of Southern Baptist Theological