第4章  

 

   1、罪とは?

 だれもが避けて通りたい課題、それは「罪」の問題でしょう。けれども私たちは「罪」の問題を避けて通ることは出来ません。聖書を読むとき、その著しい強調が「罪」という主題−−罪の原因とその解決に置かれていると言うことに気がつくからです。私たちは、「罪」ということばを使うとき、法律上の犯罪や殺人などを連想します。しかし、聖書の中でこのことばが用いられるとき、それは「神の完全性に達していないこと」をさしています。ロ−マ3:23には、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ず、(神の栄光に達しない。)」と書かれています。「神の栄光」ということばには、絶対的完全性の観念が含まれています。ですから罪とは、その基準に達しないことを意味しています。全人類はこの点で完全に有罪なのです。

 罪はさらに聖書の中で次のように述べられています。

 1、神の律法を破ること。ロ−マ5:13

2、 神への反逆、あるいは不法。ヨハネ第1、3:4 

3、道徳的不純 詩篇32:5

4、 悪い考えもまた、悪い行為と同じように罪深いことです。マタイ5:28

 

   2、罪の起源

 記録された最初の罪の実例は天で起こりました。天使ルシファ−は、神のようになろうという野心を抱きました。(イザヤ14:12−14) このプライドの罪のために、彼は天国から追放され、そして聖書の中で悪魔あるいはサタンと呼ばれる者になってしまったのです。  

 この地上における最初の罪の実例は創世記の3章に記されています。それは、エデンの園での出来事です。神はアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べることを禁止されました。ところが二人は、神の命令に従わずにこの禁断の木の実を取って食べてしまったのです。このようにして、彼らは罪人となってしまったのでした。

 

   3、罪の結果

1、 人類の始祖は罪を犯すとすぐに、自分たちが裸であることに気づき、神から隠れようとしました。創世記3:10。

2、 罪の罰は死です。アダムは罪を犯した瞬間に、霊的に死んでしまいました。彼らは霊的に病気にかかったのではなく霊的に死んだのです。神は「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と言われました。これは、彼が神から切り離され、神の御臨在のもとからも追放されてしまったということを意味します。彼はまた、肉体的死を経験するべき者となってしまったのです。彼は、その時すぐに死ぬことはありませんでしたが、彼の体はいつかは必ず死ななければならないものと定められてしまったのでした。

3、 アダムの罪深い性質は人類のすべての者によって受け継がれることになってしまいました。罪人の両親から生まれるすべてのこどもは、生まれたときから罪人なのです。アダムの長男は殺人者となってしまいました。すべての人が罪人として生まれてくるので、すべての人は霊的に死んでおり、いつかは必ず肉体的に死ぬということが定められているのです。(ロ−マ5:12−18)

4、 アダムの罪は、すべての被造物の上に神ののろいをもたらしました。たとえば、いばらとあざみもそののろいの結果です。 その他の結果については、創世記3:14−19に記されています。監獄、病院、葬儀屋等があるかぎり、罪の証拠など必要ではありません。涙、病い、悲しみ、苦しみ、死などはすべて罪の結果なのです。      

 

   4、罪の罰

 「罪からくる報酬は死です。」ロ−マ6:23。神は罪の刑罰が死であることを宣言しておられます。私たちはすでにこれが霊的死と肉体的死を意味するのだということを学びました。この刑罰は必ず課せられなければなりません。神は罪を罰せねばならないのです。

 人はその罪の中に生きている限り霊的に死んでおり、やがて必ず肉体的死に直面しなければなりません。さらに人が死に直面してなお罪の中にいるなら、彼の行く手に永遠の死が待ち受けているのです。つまり、彼は永遠に神から切り離されて火の池でその罪の刑罰を受けなければなりません。これが黙示録20:14で述べられている第2の死なのです。

 

   5、罪からの救済

 完全な堕落の中で、霊的に死んでしまった「人」は、罪からの救済策を持ってはいません。霊的に死んだ人類が己の力で「罪」の問題に答えを見出すことは不可能なのです。ところが、人に出来なかったことを神が可能にしてくださいました。私たちがその罪のために永遠の刑罰を受けなくても済むように、神は救済法を備えてくださったのです。神は私たちの救いの道を備えるために、ご自身のひとり子をこの世にお遣わしになりました。すなわち、主イエス・キリストが処女マリヤから、人としてお生まれになったのでした。このお方は、アダムの罪の性質を受け継いではおられませんでした。彼は、かつて人として生まれた者のうちただ一人の罪のないお方でした。カルバリ−の十字架の上で、彼は自ら進んで、私たちの罪の刑罰をお受けになり、神の聖なる要求を完全に満足させてくださったのです。罪の刑罰がすでに完全に支払われたので、神は今や、自分が罪人であるという事実を告白し、主イエス・キリストを自分の主及び救い主として受け入れる者に、永遠のいのちをお与えになることがお出来になるのです。(この点に関しては、新生、及び救いの項でさらに詳しく学ぶことになります。)   

 人がキリストを信じるとき、その人は罪の刑罰と力から救われます。これはその人がもはや罪を犯さなくなるということではありません。そうではなくて、彼のすべての罪−過去、現在、未来の−は赦され、それらのために裁かれることは決してないばかりか、罪の快楽のなかで生きる代わりに、神のために生る力が与えられたということなのです。        

 

 

 

        第5章 キリスト

 

 この章では、聖書の中心的テ−マである主イエス・キリストについて学びます。

歴史の中で、多くの偉大な人物が登場しました。あるものは優れた才能を有し、あるものは驚くべき影響を人類に与えました。ある者は偉大な芸術作品を世に残し、ある者は科学的に大きな貢献をしました。ところが、キリストは一冊の本もお書きになったことがなく、芸術的な遺産を残されたわけでもありません。それにもかかわらず、キリストが人類にお与えになった影響を私たちははかり知ることが出来ません。では、キリストとはいったいいかなるお方なのでしょうか。

ここでは、特にキリストの神性(キリストが神であること)、キリストの受肉(キリストが人のかたちを持ってこの世界においでになったこと)、キリストの働きと職務について考えてみましょう。

 

   1、キリストの神性

 キリストの神性とは、キリストが神であるということを意味します。聖書はこの重要な事実を以下のような方法で明確に教えています。

 1、神の属性(属性とは、その本質から派生する性質のことです。)が、キリストに帰せられています。

  a,主の先在性。キリストには始まりがありません。ヨハネ17:5 すべてのものにはその始まりがあります。ところが、キリストには始まりがありません。なぜならキリストは神であられるからです。

  b,主の遍在性。キリストはその弟子たちと共にどこにでもおられます。マタイ28:20 人は、同時に異なった場所に存在することは出来ません。けれどもキリストは、時も空間も超えてどこにでもおられるお方です。そしてまさに、それは神の属性なのです。

  c,主の全能性。主は無限の力を持っておられます。  黙示1:18 無限の力、すなわち全能性は、神のみ主張することが出来ることです。

  d,主の全知性。主はすべてを知っておられます。ヨハネ21:17

 キリストはすべてのことを知っておられるお方として示されています。これまた、キリストが神であられるからなのです。

  e,主の不変性。主は「きのうもきょうも、いつまでも同じです。」 ヘブル書13:8 すべてのものは移ろいゆき、やがて滅びます。きのうもきょうも、いつまでも同じお方は神のみです。

 2、神の働きが、キリストに帰せられています。

  a,主はすべの物をお造りになりました。ヨハネ1:3

  b,主は、この宇宙を支配しておられます。コロサイ1:16

  c,主はご自分を、ご自分の力でよみがえらせなさいました。ヨハネ2:19

 3、神の称号が、キリストに帰せられています。

  a,父なる神は御子を神とお呼びになりました。 ヘブル書1:8

  b,人々は主を神と呼びました。また主は彼らの礼拝を拒まれませんでした。 ヨハネ20:28

  c,悪霊たちは主を神と認めました。マルコ1:24

  d,主ご自身がご自分を神と宣言されました。 ヨハネ10:30

   2、主の受肉

キリストの受肉とは、主が人としてこの世界においでになったことを意味します。

1、 キリストの受肉は旧約聖書に予告されていました。イザヤ7:14

2、 歴史は、私たちの主の誕生を記録しています。主の誕生は、他どののような人の誕生とも異なっていました。   

a,マリヤは、聖霊によって主をみごもりました。ルカ1: 35

  b,主は処女からお生れになりました。マタイ1:23

  c,それにもかからず主は、からだ(ヘブル10:5)、たましい(マタイ26:38)、霊(ルカ23:46)を備えた真の人でもありました

 

3、 キリストは人間のかたちをとって、以下の目的のためにこの世においでになりました。

  a,父を示すために。 (ヨハネ14:9)

  b,ご自分を犠牲にして世の罪をとり除くために。(ヘブル9:26)

  c,悪魔の働きを滅ぼすために。(ヨハネ第1、3:8)

 

 特記:クリスチャン信仰の根本的真理のひとつは、イエス・キリストが真の神であることと、彼が処女降誕の奇跡によって人としてこの世においでになったということです。人として、主はまったく罪はありませんでした。(主の無罪性) 今日、多くの人々がキリストの処女降誕を受け入れません。そんなことはあり得ないと言います。しかし、キリストが処女降誕という特別な方法で人となってくださらなかったら、私たち罪人にはいかなる希望も残されていません。私たちの救い主は、私たちの身代わりに死ぬために、私たちと同じ「人」でなければなりませんでした。けれども同時に、私たちと同じ罪の性質を持っていてはならなかったのです。罪人が罪人の身代わりに死ぬことなど出来ないからです。ですから、罪の性質のないお方として、主は処女降誕によって誕生してくださったのです。

 

   3、キリストの働き

 以上のことを念頭に置き、私たちは主の死と復活と昇天(天にお帰りになったこと)について考えてみましょう。

 1、主の死。

  a,キリストの死は必要不可欠なものでした。ヨハネ3:14

   キリストはまさに死ぬためにこの世においでくださったお方です。それは神の永遠の意図によるものだったのです。ヘブル10:7

   それはまた、旧約聖書の預言を成就するために必要でした。 イザヤ53:3

   それは人類の救いを備えるためにどうしても必要でした。 エペソ1:7

  b,キリストの死は、私たちのためでした。罪のないお方が死ぬというのは実に不合理なことです。死は罪の報酬であるあからです。ローマ6:23。主は、信じる者の身代わりとして死んでくださったのでした。コリン第1、15:3

  c,キリストの死は、十分なものでした。それは十分に神の要求を満たしたのです。なぜなら主は、罪に対する神のさばきを耐えてお受けになったからです。それはまたまったく人の必要に答えています。なぜならそれは完全なお方の死であり、その死の価値もまた完全であったからです。

 

  2、主の復活。

  a,キリストの復活は、預言を成就するためにも、また十字架のみ業を完成するためにも(ロ−マ4:25)、また天における主の現在の働きのためにも必要でした。                       

  b,キリストの復活体は本当のものでした。それは霊ではなかったのです。ルカ24:39。そのお体はまさしく十字架に付けられたお体と同じものでした。なぜなら、釘とやりでさされた跡がはっきりと付けられていたからです。ヨハネ20:27

       しかし、一方それは物理的制限をこえることの出来る力を持った体に変えられていたことも事実です。

  c,復活の後、キリストは少なくとも10回はご自分の弟子のある者たちの前に現われてくださいました。また500人以上の信頼できる証人が復活され後で、主を見ました。コリント第1、15:6

  d,キリストの復活は重要な真理です。もしも復活がなかったなら、クリスチャン信仰もまたあり得なかったのです。

             

  3、主の昇天。

  a,地上における主のお働きの最後に、キリストは天に引き上げられました。マルコの福音書16:19、使徒の働き1:9   

  b,主は報いをお受けになるために(ヨハネの福音書17:5)、またご自分の民のためのお働きを継続するために、天に引き上げられました。           

 

   4、主の職務

  聖書の中で、キリストは預言者(神のことばを人々に語る者、神の代弁者)、祭司(神と人との仲介者)、王として示されています。

1、 主は預言者として、神が人々にお語りになることを語られます。つまり主は、人々に神をお示しになるわけです。ヨハネ1:18

2、 祭司として主は神の前に信じるものを代表してお立ちになります。ヘブル書4:14−16

3、 王として、今日主は彼に忠実な者たちの心を治めておられます。やがて時がくれば、主はこの地上を御支配なさるのです。 詩篇72篇は、その時のこの地上での主の御支配について記述しています。それから主イエスはご自身の血によって買い戻したご自分の民を永遠にお扱いくださるのです。

 

 

 

 

 

       第6章  

 

       ヨハネの福音書3:1−21

 初めに

読者は、神の御子主イエス・キリストがニコデモという最も宗教的で道徳的な人物に対して、神の国を見るために、また入るためには新しく生まれることが絶対の必要条件であると厳かにお語りになったことに驚かされるに違いありません。(3節、5節)。この新生は、すべての人間にとって「・・・なければならない」重要な三つのことがらの内の一つです。 

1、死な「なければならない」。IIサムエル14:14、ヘブル9:27)。 

2、さばかれ「なければならない」。(ロ−マ14:12、黙示録20:11−15)。

3、回心又は新生し「なければならない」。

  この非常に重要なことがらに関しての無知あるいは誤解があります。そこで私たちはまず、否定的にこのことを考えてみたいと思います。  

 

   1、新生ではないことがら

  (ヨハネ1:12−13を読んでください。)

1、 自然の出生あるいは家系ではありません。−−「血によってではなく」。ある人はクリスチャンの両親のもとに生まれてくるかも知れませんが、それによってその人がクリスチャンになるということではありません。

2、 自分の決心によることでもありません。−−「肉の欲求・・・によってではなく」 こどもが、肉体的に生まれることを自分で欲することが出来ないように、人は自分自身の努力によって新生を生み出すことは出来ません。

3、 人の意欲によることでもありません。−−「人の意欲によってでもなく、ただ神によって・・」 人はだれも、たとえその人が宗教的にどんなに高い地位を持っていても、他の人に新生を与えることは出来ません。どのような宗教の祭式や儀式も決して新生を生み出すことなど出来はしないのです。

4、 それは肉体的表面的変化ではありません。−−キリストはこの点でニコデモの間違いを正され、これが霊的な変化であることをお示しになったのでした。(4−6節)

5、社会的又は地理的変化ではありません。−−新しく生まれた者が、即座に天国に移されるわけではなく、この地上で生活し続けるのですが、主であり救い主であるお方をお喜ばせするために生きるようになるのです。(コリント第17:20−24、コロサイ3:22−24)

6、 それはまた、新生が何であるかということを知的に理解するということでもありません。人はだれでも新生の経験なしで宗教的に教育され、聖職者として任命されて牧師になることさえ出来ます。実にそのような例は決して少なくはありません。彼らは神学的にそのような必要を知ってはいるでしょうが決して経験からそれを知ることはないのです。

7、 それは漸進的過程ではありません。私たちの内にある霊的いのちの芽が徐々に進歩することではないのです。(エペソ2:2) 罪人は霊的に死んだものであると記されています。いのちがないのに成長することは不可能なことです。罪人に必要なのは、成長ではなく、いのちそのものです。

8、 それは表面上悪癖をやめるような改善や自己改良ではありません。新生とは態度の変化ではなく、人そのものの変化なのです。改善や改良は、天のみ国に入るために十分ではありません。

9、 それは宗教的信念でもありません。人は新生なしで、自分の宗教の信念に誠実であること、バプテスマを受けること、確信を持つこと、教会につながること、主の晩餐にあずかること、日曜学校で教えること、教会の仕事につくこと、さらには説教者になることさえ可能です。新生の必要を主は、当時最も宗教的で誠実な、また道徳的な人々にお教えになったのでした。(ヨハネ3:1)

10、 新生は霊的な変化です。(8節) ですから、これはただ神によってのみもたらされるものなのです。(ヨハネ1:13) 新生は神の奇跡的なみわざであると言わなければなりません。

 

  さて、ここで私たちはこの新生について3つの質問、−−どうして?、どのように?、いつ?−−を考えてみましょう。

 初めの質問については、以下に取り上げ、あとの2つについては次の章(第7章)で取り上げることにします。

 

   2、なぜ新しく生まれなければならないか?

  ヨハネの福音書3:7に注目してください。「ふしぎに思ってはなりません。」 新生の必要は、まったく論理的で当然なことで、不信を抱くべきではないのだと主は言われます。その理由を挙げてみましょう。

1、 人が生れつき欠いている霊的性質の故に。(6節) ここで使われている「肉」(英語−FLESH )は、人がその肉体的誕生のときに受け継いだ罪の性質を表わしています。このことばから、Hを取り去り、最後から順に書いてみると、SELF(自己)となりその意味がわかります。アダムはその罪の結果、罪の性質を獲得しました。そして、この性質は、彼の子孫に、誕生によって受け継がれていったのでした。(ロ−マ5:12、18、19;詩篇51:5を読んでください。) この「肉」と呼ばれている罪の性質については、ロ−マ8:5−8に記されています。それは、「神に対して反抗するものだからです。 それは神の律法に服従しません。」 従って「肉」は、神を喜ばせることが出来ません。言いかえれば、人は生れつき神のことがらを望み、理解し、楽しむ能力を持ってはいないということなのです。(コリント第1 2:14をお読みください。)              

 

   音楽的、美術的あるいは詩的能力というものは、肉体的誕生によってもたらされるものです。同じように神のことがらを正しく認識するところの霊的能力は、霊的誕生によって人にもたらされるものなのです。肉は教育され、養われ、また宗教化されることは出来ても、そのもとの性質は変わることなく残ります。神に対する反抗という点では何ら変わるところはなく、神を喜ばせることは出来ないのです。新生とは霊的あるいは神的性質の賦与を意味します。  

             

2、 人が生れ付きのままでは見ることも入ることも出来ない霊的な王国の故に。(3-5節 ここで使われている「神の国」とは何を意味しているのでしょうか? これは霊的な経験として述べられています。聖書には「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ロ−マ14:17)「人間の王国」と「神の王国」、あるいは「肉」と「霊」と呼ばれる二つの王国又は領域について考えてみましょう。 人は、人間が住む肉体的領域に合う肉体的性質を生み出す肉体的誕生によって、人間の王国に入ります。この領域の中で人は住み、行動し、また存在するわけです。それでは、この「神の国」と呼ばれるもう一つの領域を人はどのようにして見、また入ることが出来るのでしょうか? 答は明白です。人は新しく生まれなければならない、つまりこの新しい領域に人を導き入れる霊的な誕生を経験しなければならないのです。この新生によって、人は神の国の特徴である霊的な現実を楽しむことができる霊的な性質を持つ者となります。

 

   「新しく生まれる」と訳された3節のことばの欄外書き込みが、「上から生まれる」となっていることに注目をしてください。これは霊的誕生の起源を説明しているのです。肉体的誕生は人からであり、この地上のことです。ところが霊的誕生はその起源を神に持っており、それはまさに上からのことなのです。ロ−マ8:9をお読みください。ここでパウロは、もはや「肉の中に」いない人々に対して、彼らの神の御前における立場を「御霊の中にいるのです。」と言っています。ではいったい彼らはどのようにして一つの王国から別の王国へと移されたのでしょうか? 彼らがキリストを自分たちの救い主として受け入れることにより、聖霊によってなされたのです。

 

3、 人が生れつきでは持っていない霊的いのちの故に。聖書は、生まれつきの人間を、「神のいのちから遠く離れて、「自分の罪過と罪との中に死んで」いる者であると言っています。(エペソ2:1、4:18、ヨハネ第1、5:11−12をお読みください。) 肉体的いのちのない体が死んだものとみなされるように、霊的いのちのない者はだれでも、聖書は霊的に死んだものとみなされるのです。(テモテ第1、5:6、ルカ15:24をお読みください。) つまり、死とは分離を意味しているのです。いのちの源であるキリストから分けられたものは霊的に死んでいるのです。(ヨハネ1:4)

   では、どのようにして、この霊的に死んでいる者に、霊的いのちが与えられるのでしょうか? キリストご自身のお答えを見てみましょう。ヨハネ5:25をお読みになってください。そうすればこの質問は解決します。神の御子に聞き、彼のみことばを受け入れ、自分の救い主として彼を信じる者には、言い換えれば新しく生まれる者には霊的いのちが与えられるのです。 ヨハネ3:16、5:24、6:47、 10:26−28、ヨハネ第1、5:13

 

 

 

 

 

      第7章  新生(続)  

 

   1、人は、どのようにして新生するか?

 キリストは、三つの方法によって新生が起こるのだと教えてくださっています。

1、神のみことばを信じることによって。ヨハネの福音書3:5。ここで使われている「水」は、神のみことばのシンボルとしてよく知られています。(エペソ5:26、ヨハネ15:3、詩篇119:9をお読みになってください。) これは決してバプテスマをさしているのではありません。他のみことばのか所からも、新生が神のみことばによってもたらされるということは明らかです。(ペテロ第1、1:23−25、ヤコブ書1:18をお読みになってください。)

 ちょうど私たちの視力を曇らせてしまうような汚れを私たちの目から洗いとるために水を用いるように、神のみことばはそれが読まれ信じられるとき、神と神の救いに関する間違った考えから洗い清められるのです。神のみことばが人の心に入るとき失われた状態に光と(ロ−マ3:10−19)、私たちの救いのための主の備えにおいて示された神の愛と(ヨハネ3:16)罪人の救いの道が(ロ−マ10:1−17)示されるのです。                   

2、神の御霊の内住によって。 ヨハネ3:5。キリストは、そのご昇天によって、三位一体の第三人格である聖霊をお遣わしになりました。聖霊は、みことばを用いて私たちにその罪を認めさせ、キリストを信じるように導き、信じる者に内住し、神的な性質あるいは霊的なことがらに関する能力を付与して、一人一人の新しく生まれた者を全ての真理へと導いてくださるのです。ヨハネ16:7−15、エペソ1:13、4:30、ペテロ第2、1:3、4、ガラテヤ5:22−26もお読みください。みことばが読まれ、あるいは聞かれるとき、聖霊は、その人の失われた有罪の全く望みのない状態をその心に示してくさいます。さらに聖霊はみことばによってキリストとその完成された御業を通しての救いを示してくださるのです。神が働いてくださらなければ、人は救いを受け入れることは出来ません。

罪人がキリストを信じるとき即座にご自身の内住のよって聖霊は、その人がキリストによって買い取られたキリストご自身の所有物であることを保証してくださいます。これは感情の問題ではなく、事実なのです。私たちはこの新生というものを感情によって識別するわけではありません。

3、キリストの身代わりの犠牲を信じることによって。ヨハネ3:14−16をお読みになってください。ここでキリストは、罪人に一体どのようにこの新しいいのちが与えられるのかを、いとも明確に述べておられます。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」とのニコデモの質問に対して、キリストはこの新生がどのようにしても