わかりやすい聖書の教え2はこちらです。

 

第1章  聖書

 

   1、はじめに

 今日、「○○のためのバイブル」のようなタイトルの本をよく目にします。では、バイブルとは何でしょうか。BIBLEとは、βιβλοσ(ビブロス)というギリシャ語から派生したことばで「書物」を意味していました。昔、書物はビブルス、つまりパピルスの上に書かれました。そこから書物が「ビブロス」と呼ばれるようになり、これが聖なる書物「聖書」の呼び名となったわけです。さあ、私たちはこれから、このもっとも古くて、もっとも多くの人々に読まれ、人類にもっとも大きな影響を与え続けてきた聖書の学びの旅に出かけましょう。

 

聖書は『聖なる図書館』である。」と言われています。ご存じの通り、聖書は単なる一冊の書物ではなく66冊の独立した書物が集まって成り立っているものです。

 これらの書物−−創世記からヨハネの黙示録まで−−は、大きく二つの部分に分かれています。そのはじめの部分は旧約聖書と呼ばれ、39冊の書物を含んでいます。もう一つの部分は新約聖書で、これには27冊の書物が含まれています。                 

 

   2、聖書の著者

 人間的観点に立って言うなら、聖書はおよそ44人の著者によって、約1600年の年月をかけて書き上げられました。しかし、ここで覚えておかなければならない大切なことは、これらの人々は神の直接的統制のもとで書いたのだということです。神は彼らがその書物を書いたとき、全く正しいことばを書くようにお導きになりました。これを私たちは「霊感」(新約聖書原典の言語ギリシャ語を直訳すると、「神の息吹」)ということばによって表わしています。今日、「あの人は霊感が強い。」とか「シェークスピアの文学は霊感されている。」などというときに使われる意味ではありません。聖書のいう「霊感」とは神が特別に清書機者たちに与えてくださった「力」であり、まさに神ご自身の「息吹」であったわけですから。つぎのみことばは聖書が神によって霊感されていることを、私たちに明確に教えています。

 

   なぜなら、預言は決して人間の意志に

  よってもたらされたのではなく、聖霊に

  動かされた人たちが、神からのことばを

  語ったのだからです。

       ペテロの手紙第二、1:21

 

   聖書はすべて、神の霊感によるもので、

  教えと戒めと矯正と義の訓練とのために

  有益です。

   それは、神の人が、すべての良い働き

  のためにふさわしい十分に整えられた者

  となるためです。 

    テモテへの手紙第2、3:16、17

 

 ですから聖書は生けるまことの神のみことばなのです。聖書が神のみことばを含んでいると言うのでは十分ではありません。もしそうなら聖書のある部分は霊感されており、ある部分はそうではないと言うことになってしまいます。(そのような説を「部分霊感説」と呼びます。) そうではなくて聖書のすべての部分が霊感されているのです(それを逐語霊感、あるいは十全霊感説と呼びます)。「聖書はすべて、神の霊感による。」と書かれているとおりです。        

 注意すべきもう一つの大切な点は聖書のみが神が人にお与えになった唯一の書かれた啓示であるということです。聖書の最後の章で神は聖書に何かを付け加えたり、その反対に聖書から何かを取り除くことに対して、私たちに警告をお与えになっておられます。 黙示録22:18−19

 

   3、聖書の主題

 聖書は66冊の書物から成り立っているのですが、その中心的主題は一つです。キリストこそが聖書のもっとも大切な主題なのです旧約聖書は、のキリストに関する予告あるいは預言を含んでおり、新約聖書はキリストがこの世においでくださったことを述べています。

 

    4、聖書に含まれていることがら

 聖書はこの世界の始まりから未来の新しい天と新しい地までのことについて記録しています。

 聖書の最初の書物である創世記は、世界の創造から始まり、人類にどのようにして罪が侵入したか、またその後の大洪水、そしてイスラエル国家(神がご自身のご計画のために特別にお選びになった民族)の始まりについて述べています。 

 出エジプト記からエステル書にはキリスト誕生の約400年前までのイスラエルの歴史が記されています。 

 ヨブ記から雅歌までにはすばらしい詩歌と金言が満ちあふれています。

 旧約聖書の残りの部分、つまりイザヤ書からマラキ書は預言書で、これらの書物では、神からイスラエルにあてられた、彼らのその時の状態と未来の状態に関するメッセ−ジが述べられているのです。      

 新約聖書は、四つの福音書(「ふくおんしょ」ではなく「ふくいんしょ」と読みます。)で始まります。これらの福音書では、主イエス・キリストのご生涯が記されています。人となられた神が、この地上のご生涯の中で何を行われたか、何を教えてくださったのか、福音書に聞いてください。

 使徒の働きは、初代のクリスチャンたちの働きと偉大な使徒パウロの生涯について記しています。世界の歴史を解く鍵がこの本の中にあると言っても過言ではありません。

 ロ−マ人への手紙からユダの手紙までは、諸教会や個人に当てて送られた手紙で、クリスチャン信仰の大いなる真理、またクリスチャン生活に関する実際的指針が記されています。クリスチャン信仰のマグナカルタと言うことが出来ます。

 ヨハネの黙示録は、未来において天で、この地上で、あるいは地獄で起こることがらを、私たちにかいま見せてくれているのです。 

 

    5、まとめ

 「聖書には神の聖意、人間の状態、救いの道、罪人の滅びと信じる者の幸いが、述べられています。その教えは聖く、その教訓はすばらしいものです。そこに記されている歴史は真実で、その決定は不変なのです。賢くあるために聖書をお読みなさい。救われるために聖書を信じなさい。聖くあるために、みことばを実践しなさい。聖書こそあなたを導く光、あなたを養う食物です。また、あなたを励ます本当の慰めなのです。聖書はまた、旅人の地図、パイロットのコンパス、兵士の剣、そしてクリスチャンの憲章ということができましょう。この聖書の中で、パラダイスは回復され、天は開かれ、そして地獄の門の正体が暴かれているのです。キリストこそが、聖書のもっとも大切な主題であり、その主題の目的は、私たちの救い、その結果は神の栄光です。聖書をゆっくりと、常に、しかも祈り深くお読みになる事をおすすめいたします。聖書は富の宝庫、栄光のパラダイス、歓喜の大河だからです。聖書はその聖なるみことばを侮り軽蔑する者には大いなる損害をもって報い、その罪を決して見過ごすことはありません。聖書は書物の中の書物、神の書、人類に対する神の啓示です。」(抜粋)

     

 

 

第2章   

 

 おそらく、神、および神と人との関係に関する研究よりももっと私たちの心を引く主題は他にはないでしょう。日本で「神」という概念は非常に誤解されています。もしも、人が真の神について知りたいなら、神が唯一人類に与えてくださった「聖書」に聞く以外に方法はありません。

 

   1、神の存在

1。 聖書は、神の存在を証明しようとしてはいません。神が存在してお

られるという事実は、聖書全体の大前提となっているのです。聖書の一番初めのみことばがその例です。「初めに、神が天と地を創造した。」 ここで神の存在は証明する必要のない事実として表わされています。また詩篇の14:1では、神はいないという者は愚か者だと言われています。

2。たとえ聖書から離れて考えてみても神の存在を示す確かな証拠は

あります。

(1)   人類は、いつの時代にも宇宙的な存在者を信じていました。

(2)   被造物には創造者が必要です。この宇宙が原因なしで生じると言うようなことがあるでしょうか。

(3)   被造物に見られる設計のすばらしさを見るとき、確かな設計者が存在していることを認めざるをえません。

(4)   人が理性的、道徳的存在であるということは、その創造者はさらに高度な存在でなければならないことになります。

        

   2、神の御性質

1。 神は霊です(ヨハネ4:24) つまり神は体を持っておられ

ないという意味です。神は目で見ることのできないお方です。けれども神はご自身を人の目に見えるかたちで表わすことがお出来になります。イエス・キリストのご人格のうちに、神は肉体的な体を持ってこの世においでくださったのでした。ヨハネ1:14、コロサイ書1:15、ヘブル書1:3。

2。神は人格的な存在です。神の個人的なお名前は出エジプト記3:

14、マタイ11:25に記されています。また、人格的ご性質も神に帰されています。たとえば、(1)知識、イザヤ書55:9−10、(2)感情、創世記6:6、(3)意志、ヨシュア記3:10です。

3。神の単一性。聖書は、神が唯一であることを明確に教えています。

テモテ第1、2:5。多くの神が存在するという誤った教え、つまり「多神教」は理論的に考えると矛盾しています。この世界に、「あなた」という存在は唯一であるのと同じように、至高の存在者もただ一人のはずです。

4。 三位一体。聖書は、神がただ一人であることを教えているばかりで

はなく、このお一人の神に三つの人格、すなわち、父、子、聖霊があることを教えているのです。人間の理解では不可思議なことのように思われるかもしれません。私たち人間の合理では理解できないことですが、神のみことばがそう教えているのです。「三位一体」ということばは聖書には出てきませんが、その真理は以下に示すところで教えられています。異端と呼ばれている新興宗教の中には、クリスチャンと自称しながら、この聖書の真理を否定する人々があるので注意が必要です。もしも、三位一体を否定するなら、少なくともその人の信仰は聖書の土台に建てられたものではないということがわかります。では聖書のどこにこの「三位一体」の教えがあるのでしょうか。例を挙げてみましょう。

   (1)、イエスのバプテスマ マタイ3:16−17

   (2)、大いなる委任 マタイ28:19

   (3)、パウロの祝祷 コリント第2 13:14

   ロ−マ1:7において、「父」は神と呼ばれています。また、ヘブル書1:8では、「子」が神と呼ばれています。さらに使徒5:3−4では「聖霊」が神であると言われているのです。そしてそれにもかかわらず聖書は一貫して「神は唯一である。」と宣言しています。 

 

   3、神の属性

神を定義するのはむずかしいことです。ですから神の特質あるいはその性質を示すことがもっとも良い方法だと言えるでしょう。以下は、神の属性として知られています。

1。神は遍在です。これは神が同時にどこにでも存在しておられると

いうことを意味しています。エレ23:24 

2。 神は全知です。言い換えれば、神は全てを知っておられると言う

ことです。神は、人の全ての思い、行ないを知っておられるのです。箴言15:3 神は、自然界において生じる全てのことがら、たとえば、一羽のすずめの死さえ知っておられるのです。マタイ10:29 「輝かしく尊厳なる無限の宇宙を知りたもう神は、砂つぶの一つ一つの、永遠の物語をも知りたもう。」

3。 神は全能です。神は全ての力をお持ちです。神はこの宇宙を創造

し、今、そのご自身のお力によりそれを制御しておられるのです。神にはお出来になれないことは何一つないのです。

4。 神は永遠です。神には始まりがありませんでしたし、その存在の

終わりもまたないのです。詩篇90:2

5。 神は不変です。主であるわたしは変わることがない。」 マラ

キ書3:6

6。 神は聖です。神は全く純粋なお方であり、罪がありません。神は

罪を憎み、善を愛されます。箴言15:9、26 ですから神はご自分を罪人から常に隔てて、罪をお裁きになるのです。イザヤ書59:1−2

7.神は義なるお方です。神のなさること全てが正しく、また公平で

す。神は、ご自身の全ての約束を必ず成就してくださるのです。詩篇119:137

8。神は愛です。神は罪を憎まれますが、罪人を愛してくださいます。

ヨハネ3:16

 

 注:祈りの中で私たちが神に呼び掛けるとき、「あなたさま」とか「あなたさまを」といったことばを用います。これは神に対する敬意を示すためです。私たちが親しい友人に話し掛けるのと同じように神に向かうことはふさわしいことではないのです。神は唯一聖にして大いなるお方だからです。ですから、私たちはこの神について語るとき、最大級の敬意を持つ必要があります。あなたはこの聖なる神をご存じですか。あなたが聖なる神を知りたいなら、聖書をお読みください。聖書こそが神のみことばであるからです。

     

 

 

第3章 人間

 

 ボストンの美術館の掲げられているゴーギャンの絵画。そのキャンバスの前面に書かれたことば「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」 ユートピアを求めて「高貴な未開人」の住むであろうタヒチにわたったゴーギャンが目の当たりにしたものは、やはり「悲惨に満ちた人間」でした。人類は多くのすばらしい発見をしてまいりました。けれども、もっとも根本的なクエスチョンに何も答えられていないのではないでしょうか。「人間とは何者なのでしょうか。」

私ちが人間に関して真理を知りたいなら、聖書に聞かなければなりません。「神が言われることこそが真理だ」からです。聖書は私たちに人の創造、性質、他の者との関係、人の堕落とその終局について教えています。

 

      1、人間の起源

 人が、その起源について知りたがるのはすこぶる当然のことです。人が存在していることは明らかな事実だからです。色々な時代の色々な哲学者がさまざまな説を出しました。そのような中でもっとも新しいものは、人の祖先は下等動物であったと主張する進化論でしょう。日本では、ほとんど進化論が証明された真実であるかのように考えられています。ですが、「進化論」は決して証明されたものではなく、人類の起源に関するひとつの説に過ぎないのです。ですから、「論」と言われているのです。

 聖書は「初めに、神が天と地を創造した。・・神は、人を創造された。」(創世記1:1、27)と私たちに教えているのです。

 神は、ご自身が創造された「人」について次のようにおっしゃいます。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7) ですから、昔から尋ねられてきた質問、すなわち「人の究極的目的は何か?」には明確な答があります。「人の究極的目的は、神の栄光を現わすこと」なのです。

   2、人間の性質

 臨終の床を目撃したことのある人ならだれでも、人が肉体とともにたましい、あるいは霊を持っているのだということを鮮烈に理解することが出来ます。たった今まで生きていた人が次の瞬間にはもう死んでしまうのです。しかも、その人の体はなおそこに横たわっているのです。しかし命の主構がその肉体を離れてしまったので、その死体はいつまでも動くことはありません。確かに人は肉体的存在であるばかりではなく、たましいと霊的存在(魂と霊を持っている)でもあるのです。

 聖書は、人が三つの部分、すなわち肉体、たましい(精神)、霊を持つ存在であると私たちに教えています。(第1テサロニケ5:23) もっとも、たましいと霊の両方が肉体と対比されているので、それらを明確に区別することは私達にとって難しいことですが、確かに聖書ではこれら三つは区別されるベきものとしています。動物には肉体とたましいだけで、霊がありません。けれども人は肉体とたましいと霊を持っているのです。たましいは死んだものと生きているものとを区別します。そして霊は動物と人とを区別するのです。人の霊は神との接触あるいは交わりを可能にします。霊ということばが、私たちの知ったり推論したりする能力を含んでいるのに対して、たましいは、感情と情の中枢なのです。人は神に対して、神が私たちに何をすることを欲しておられるかを知り、それを行なうという責任をおっています。そしてそれはもっとも大切な義務なのです。

             

   3、人の自由意志

 この宇宙には、神がお造りになったもう一種類の存在があります。それは天使、あるいは霊といいます。彼らは人間のような肉体やたましいを持ってはいません。彼らは私たちよりも力があります。彼らもまた神に仕えるために造られたのですが、彼らは自由意志を持っていたため、そのうちのある者たちは不従順の罪によって堕落してしまったのです。

 もちろん神は、ご自分の意志を機械的に行なわせる「機械」をたくさんお造りになることもお出来にはなりました。けれども神は、もしそれを望みさえすれば自分の意志によって神に仕えることができ、神を愛することが出来る存在を造ることをお選びになったのでした。なぜ神がそうすることをお望みになったのかを、私達はよく理解することが出来ます。人は、盗難予防用自動警報機システムを取り付けることによって、自分の家をガ−ドすることもできます。けれども、私たちの情愛をわかせてくれる番犬には、どんなにすぐれた機械もなし得ない何かがあるのではないでしょうか。

 

   4、人間の罪

 神が、自由の存在として神の意志を行なうこともそれを拒むことも出来る被造物をお造りになったとき、全知の神は彼らの中のある者たちが間違った道を選ぶこともご存じであったに違いありません。そして、その通りになったのです。ルシファ−と呼ばれた天使長−−今はサタンとして知られています−−は神に反抗して自分の意志を通そうとしました。そのため彼は即座に天から追放され、その他の多くの天使も彼とともに追放されたのです。その時からサタンはあらん限りの方法を使って、神のご計画を妨げようと必死になっています。人が自由意志を持って造られたとき、サタンはすぐに彼を従順の道から誘惑しようと考えました。神は人に警告をお与えになりました。しかしサタンは彼を完全に罪のなかに落とし入れることに成功したのでした。よく知られているこの記事は創世記3章に書かれています。

 さて神は宇宙の道徳的支配者として、神の命に故意に不従順ないかなる者も見過ごしになる事はありません。サタンが神の意志にそむいたとき天から追い出されなければならなかった理由もここにあるのです。そして、全く同じお取り扱いが人にも必要だったのです。だからこそ、アダムは神のご臨在の場、すなわち「エデンの園」から追い出されたのです。

 アダムの性質は全人類のすべての人に受け継がれました。なぜなら全人類はこのアダムの子孫だからです。私たち人間はみんな罪の性癖を持って生まれてきます。この性質は外からの誘惑に反応し、その結果私たちは自らを明け渡し、この極悪非道の罪を犯すことになるのです。人は罪を犯して罪人になるのではありません。そうではなくて、罪人として生まれてくるので罪を犯すのです。どの程度の罪人なのでしょうか。完全に堕落しきったものである、と聖書は教えます。わずか0,01パーセントの良いところも残されていません。100パーセント罪の中に死んだ者なのです。人が罪という病気を持っているといううそに耳を傾けるべきではありません。病気なら回復する可能性があるでしょう。ところが人間の罪は「病気」ではなく「霊的死」をもたらしているのです。神の恵みが働いてくださらないなら、死人が生きることはあり得ないのです。この罪については次の章で詳しく学ぶこととなります。

 

   5、人間の未来

 神のみ手による「人」の起源について、また人の恥ずべき堕落とその結果としての神からの分離について教えている聖書はまた、男も女も子供もすべての人間がいつの日か審判を受けるために神のみ前に立たなければならないのだと、明確に教えています。死と言う現実をすべての人の決して避けられない終局だと考えるのはごく一般的な考えです。しかし、聖書はさらに「死後にさばきを受けることが定まっている。」と教えているのです。神は人を造りご自身の意志を明示なさいました。神は間違いなく各自の行なったすべてのことについてその責任をお問いになるのです。この人生は、来たるべき世の準備のときです。人は動物のように死んで消滅してしまうのではありません。その霊は、創造者でありさばき主である神のみ前に出なければならないのです。 

 

 

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